気の広場

気の世界あれこれ・・・
  日常雑感あれこれ・・・

イタズラ ・ ユックリズム

2010-08-01 20:18:04 | Weblog
落語のある師匠が ある暑い夏の日 弟子たちに

「ビールをおごってやろうか。好きなだけ飲んでよいゾ」と言った。

「ハテナ? いつもケチな師匠が・・・」と弟子たちは思ったが

  おごるというものを 断るテはない。

「ハイ ありがとうございます」

「ただし オレの指定する飲みかたをするのだゾ」

なんだろう? と一同いぶかったが

  まさか 鼻から飲めとは言いはすまいし

    なにしろ ノメルという誘惑には勝てない。

「よろしゅうございます」 と答えてしまった。



師匠が一本ずつ みなのまえに置いたビール瓶を見ておどろいた。

赤チャンがミルクを飲むときに使う

  ・・・ 例のゴム製の乳首がとりつけてあるのだ。

「ウヘッ! こ これではビールの味なんぞ・・・」

「オレの指定した飲み方をすると約束しただろう。飲めッ」

「ハ ハッ」 と観念して ・・・ いや 吸いはじめたが

  ・・・ それはもう見モノであったそうだ。


いちばん速かった人で15分とか20分とか かかったとか。

アゴはクタクタ 顔はゆでダコ 汗みどろ。


「おかわりはどうだ? 何本でも好きなだけ・・・」

「イエイエ も もう けっこう・・・」



それにしてもこのスピード時代に 粋ないたずらをする人がいるものです。


    ・・・ 漫画的ユックリズム といえましょうか。






男の人生は60から ・・・ 40・50は鼻たれ小僧

2010-08-01 17:38:50 | Weblog
若いころから私は 「男の人生は60から」 というふうに思ってきました。


かならずしも社会的な仕事についていうのではなくて

  人間的な成熟 完成の道程として ・・・ そういうことを思うのです。


数え年の61を還暦といいますが ・・・
 
女は知らず 少なくとも男というものは

  還暦をすぎてから イチニンマエになってくるのだ

           ・・・ というふうに思われてなりません。


だから 40・50は まだ鼻たれ小僧だ ・・・
 
  ということを ジェスチャーではなくて ・・・ 本心から思うのです。



大器晩成ともいいますが ・・・

大器であろうと なかろうと ・・・
 
  ゆっくり ユックリ成熟してゆこうという人生のペースが

             ・・・ 私は こよなく好きなのです。






小さくなった日本人 ・・・ 2.自覚と意志 

2010-08-01 14:40:06 | Weblog
さて なぜこのように 人間が小さくなってきたのでしょうね?



人間の 日本人の素質に変わりのあるはずがないのだから

してみると 文明の過度の発達 社会機構の複雑化などが

  ・・・ その主たる因なのでしょうか?


そうであるなら ・・・ これはまことにクヤシイ話です。

自分がつくった文明で 人間としての自分を小さくするなんて

  ・・・ こんなバカな話はありません。


素質まで小さくなったのなら諦めもつきますが

そうではないのだから ・・・ クヤシイ話だというのです。



どうしたらいいのでしょう?

文明を捨てて 未開に戻ろうか?


そんなこと できはしないし ・・・ する必要もありません。

要は ひとりひとりの自覚と意志だ ・・・ と思います。


自覚と意志さえあるなら

こういうゴミゴミとした あわただしい世に生きながら

  自分を大きく保つこともできる ・・・ と思うのです。



天から授かった素質は フルに生かさなければなりません。

十の器(うつわ)を天分として授かっているのに

  現実の自分は五か七でしかありえず

それで一生を終わったとしたら まことにツマラヌこと

  ・・・ というより モッタイナイこと

我を生かしめている天にたいして あいすまぬことというべきでしょうね。


授かった天分を生かしきることが

  天意に添って自分を大きくすることです。

天分どおりに生ききった人は

  きわめて少ないのであろう ・・・ と 私は思います。






小さくなった日本人 ・・・ 1.むかしの人は大きかった 

2010-08-01 10:01:53 | Weblog
わが師は 明治45年生まれでしたから

たしかに よくもわるくも 明治人の特性を備えておられました。


その師が晩年 口ぐせのように

「日本人は小さくなった」 ・・・ と嘆いておられました。


「小さい」とはむろん 肉体の大きさのことではありません。

心が 腹が ・・・ つまり 精神的に小さくなってきた というのです。

人間が小粒化し スケールの大きい「大もの」が少なくなった

  ・・・ と嘆いたのです。


かれによれば 明治→大正→昭和→ と

時代が下(くだ)るにつれて人間が小さくなり

とくに戦後 その傾斜が急激である ・・・ といわれたのです。


こういう現象は 私ども昭和生まれのものにさえ

  ハッキリ看取できるように思われます。


いちがいに言えぬことですが 平均をとっていうなら

「明治人」には 「自分たちにないものがある」ように感じられました。

「とても及ばぬ」という 何かを感じさせられたのです。


大きい というか

太い というか

硬骨 というか ・・・
 
  なにか一本 たくましいシンが通っていることを感じられました。


市井の平凡な人たちのなかに それを感じたのです。

・・・ やはり私たちより 人間が大きかったのでしょう。



さて なぜこのように 人間が小さくなってきたのでしょうね?





  

「コレデイイノダ」 ・・・ あるがままで

2010-08-01 07:50:22 | Weblog
「コレデハイケナイ」 と心であせる癖のある人は

それと反対の

「コレデイイノダ」 という言葉を ときどき声に出してみられるとよい。

・・・ 何度もくりかえし 呪文のように唱えてみるのです。


自分自身をふくむ すべての現実を

  「いま あるがままでよいのだ」 とする ・・・ 大肯定の精神です。



「コレデハイケナイ」は 現実を否定する想念です。

否定する精神は 何ものも創造しません。 だから

「コレデイイノダ」 とする肯定の精神から出発しなさい というのです。



この言葉をくり返し唱えたあと ・・・

  ヘソの下あたりに

    なんとなく気が満ちてくるような感じがしませんか?





アリガトウを連発せよ

2010-08-01 06:03:17 | Weblog
私の亡父が晩年に 「ありがたい ありがたい」と

  ・・・ ときどきつぶやいていました。

かなり大きな声で そばに家人がいても これを口にするのです。

一種の口癖のようにさえ なっていたようです。


とくに何がありがたいというのではなく 生活全般にかんして

なんとなくありがたい気持がするのでしょう。

あるいは 「ありがたいと思え」と

  自分にいいきかせる気持であったかもしれません。

もしそうなら 唱えたことによって

  ありがたい気持になれたであろうことはまちがいありません。


亡父の この口癖をはじめてまねしたとき

  「ありがたい」ではどうも足りない気がしたので

ていねいに「アリガトウゴザイマス」といってみたら

  そのほうが心にぴったりくるように思われました。


それで ときたま思いついたように

  こちらの方を口にすることにしています。



不平や不満 怒ることが多い人は

  ときどきこれをお題目のように唱えてみられたら如何ですか。

感謝の対象を とくに想定する必要はありません。

ただ 「アリガトウ・・・」といいさえすればよいのです。

そういう気持になれなくても ウソでもいいから 演技でもいいから

  ・・・ 口にしてみるのです。


これをときどきやっているうちに 心がだんだん ほんとうに

  ・・・ 感謝の気持に満たされるようになってゆくでしょう。

言霊の創造力によって そうなってゆくのです。


怒りがこみあげてきたとき はげしい不満にとりつかれたときなど

これを思いだして口にしてみれば ・・・

  それら悪しき感情を鎮静する役を果たしてくれるかもしれません。


なにか感謝の対象を想定したほうがいいやすい というなら

  自分自身をその対象にされたらどうですか?

「ありがたい自分」と思って これに礼をいうのです。



万物同根なのだから やがてその心は

  あらゆる他人 他物へと拡大されてゆくでしょう ・・・


究極的には 神への感謝というものになってしまうはずですね。





 

人生 : 要するに 気の一字

2010-08-01 04:57:24 | Weblog
心が健康で人生が楽しければ 人は陽気にならないわけにはゆきません。


生活がおもしろくなかったら 心は陰気になります。

いわゆる「ふさぐ」ことになるわけです。


これを逆にいえば <気>を陽にすれば 人生は楽しくなり

これを陰にしたら 人生は暗い場所になる ・・・ ということです。


このへんに自己改造 心のスイッチを切りかえる方法の
  カギ カナメがあるように思います。


では <気>とは何か?

ばくぜんとした ひじょうに内容の広い言葉ですが

心身両面をふくめた<生命力>というような意味に解したら

  だいたい当たっているのではないでしょうか?


「気が晴れて」いれば 人生は楽しい。

「気が滅入って」いるのが ノイローゼ。


与えられた潜在生命力をフルに発動させている人が 「気が強い」人。

それを出しきれないでいるのが 「気が弱い人」。


その気にブレーキがかかっていれば

気力 気迫 気骨 また生気 元気 活気 勇気 根気 覇気 などに欠け

そのために人生の虚無感に苦しみ つねに「気が重い」ということになります。



「人生 要するに気の一字」 そういういい方さえできるかもしれません。


人間とは つまりはイノチ(生命)以外のなにものでもないのですからね。