虚空<オホゾラ>がら吉備下道臣前津屋<サキツヤ>の振る舞いを聞いて天皇は
「我を蔑ろにするにも程がある。早速、征伐しなくては。」
とお考えになり、征伐軍として物部兵士<モノノベノイクサビト>を都から吉備の国に派遣します。
この時、天皇が吉備に派遣した物部氏は大和朝廷の軍事を司る大連<オホムラジ>で、国の軍事力を一手に掌握していた大和朝廷の有力豪族だったのです。
それまでは大和と吉備や筑紫等の地方豪族と連合体で国の政治を行っていたのですが、雄略天皇の時代になると、中国や朝鮮との外交交渉も国家としての権威を高めるより重要な手段となり、中央集権の国家の建設が必要条件になっていたのです。そのようなことから、それまでは対等的な政治関係にあった地方の豪族を天皇の隷属的な関係に置なくてはならなくなり、そのような動きの一つとして、大和の勢力による吉備の勢力の支配の為の戦いが始まったのです。この「前津屋」戦争が天皇制中央集権国家への成立の第一号となったのです。
今まで多くの学者でも、此の事件を、それほどの歴史的価値とは見なさず、一つの史実として取り扱うにすぎなかったのではないかと思いますが、私は、この「前津屋事件」こそが、日本の古代歴史を考える上でも、最も、大切な国家体制の基礎を築くための事件の一つに挙げられるのではないかと、常々、考えております。
なお、面白いのは、というか、そんなことはあり得ないと思われるのが、此の時、天皇が吉備に派遣した物部兵士<モノノベノイクサビト>(国軍です)の数ですが何万人jとかではなく、「30人」と、書紀には書いております。少々おかしいと思われません。
なお、此の事件が起る200年くらい前になると思うのですが、例の神功皇后の朝鮮征伐の時に、此の吉備の国から兵士を集めますが、その兵士数が二万であったと言い伝わっております。{それ以後、この地方は「二万<ニマ>」(現在の倉敷市二万です)と呼ばれています。}この二万地方も下道郡の一部に当たります。
吉備は、これだけの数の兵士を通常でも集めることができた強大な国です。いかに、当時、日本で一番の勢力を誇った物部の兵士だとしても、三十人で吉備の兵力に打ち勝つことは不可能だったと思われます。三十人ではなく、三万くらいの兵力はいたのではないでしょうか。この辺りにも、この物語の胡散臭さが伺われるのです。
でも、この時、ここで、どのような熾烈な戦があったかは定かではありませんが、「前津屋一族七十人は誅殺さる。」とだけ書かれております。日本で4番目の大きさの造山古墳を持つ強大国「吉備」だったのですが、その勢力の衰退は、ここから始まり、その名が次第に日本歴史の中から消えて行きます。