私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

美女

2015-11-24 20:18:51 | 日記

 歴史の中で、美女が取り上げられるのは、その歴史的にみて、まず初めに取り上げられたのは、中国だと言われています。「西施」「王昭君」「貂蝉」「楊貴妃」がその代表的な美人だとされています。夫々の年代は違いますが、この四人が上げられていますが、これらの美女は完全なる美人ではなく、夫々に何か一つずつの欠点を持っていたと言い伝えられています、例えば、西施は足が短く、常に、それを覆い隠すためにスカートを着けていたと言われます。もし、現代のミスワールドコンクールに出場したとしたら、直ぐ、その線から漏れていたのではないかとさえいわれております。だって、ミスワールドでは「水着姿」がその選行の第一条件ですから。

それに対して、我が稚媛はどうでしょう。欠点は一欠けらもない完全なる美女だったのですからすごいではありませんか。


「曠世罕儔」。世にたぐいまれな美女です。稚媛は

2015-11-23 10:29:34 | 日記

  さて、その姿や形だけでなく、心まで、すべてにおいて、非の打ちどころがないほど完璧な美人(種々相足<クサグサノ カタチタレリ>)だった稚媛<ワカヒメ>です。このような絶対の美女であった彼女は、更に、「どうしようもない」「とんでもない」ほどの女性としての特性の美を持っていたのです

 それを「③花弗御蘭澤無如」と書き表しております。「花」とはお化粧で、「」とは鉛のことで、白粉の原料です。「弗御」は[つかわず]と読ましております、「弗」という字は、現在では「ドル」に宛てていますが、本来は「不」、「あらず」で、物事の打消の助字として使われます。
 次の「蘭」ですが、これは「カ」と読まし、「香」にあたります。要するに香水など一切使う必要がなかったのです。それを「澤無如<ソユルコトナシ>」と。なお、「澤」<ソユル>は、「潤す」で「身に添える」と云う意味になります。
 最後の「④曠世罕儔⑤当時独秀者也」は<④ヒロキヨニ タグヒマレナラム⑤タダイマニハ ヒトリスグレタリト>と読ましております。

 どうでしょうか、これほどの美女のお話、聞いたことがありますか。あの光源氏やかぐや姫の美しさも、この書紀の「稚媛」をヒントにして書かれたのではないかと、私は、常々、思っているのですが。

 どうでしょうか。こんなん「曠世罕儔<ヒロキヨニ タグイマレナラム>」身も心も大変な美しい女性が備中の国「窪屋郡」から生まれていたのです。
 こんなお話、かって、聞いたことありますか。それこそ日本一の美女のお話です。


「言ってえ どげえな 美人何じゃあ」

2015-11-22 11:13:27 | 日記

 と云うお問い合わせがありました。まあとにかくも「ものすげえ、誰が見ても、勿論、男ですが、女性でも通りすがりに、自然に振り返らざるを得ないような美人だったのだそうです。クレオパトラも楊貴妃も一目置くような傾国のと云う言葉がまさにぴったりとしたような女性だったのだそうです。余り日本では、大学者先生も誰一人としてその美しさに関心を示してはおられないようなのです。でも、私は、日本史の中で最も美しい女性ではなかったかと思っているのですが????。

 そこで、書紀に綴られているその美しさを少し詳しく取り上げてみます。これだけその美しさを言葉で表現されておる女性があったでしょかと思われる様な美しさです。さて、その言葉を再度書いてみます。

 “①茂矣綽矣諸好備矣②曄矣温矣種種相足矣③花弗御蘭澤無如④曠世罕儔⑤当時独秀者也”
  ①コマヤカデ サワヤマニシテ モロガヲソナワレリ
   茂・綽です。「茂」は大変美しく、立派で、非常にすぐれている等の意味があり。それだけではありません、「綽」とはきわめてしなやかにすぐれている様子です。それを書紀では「コマヤカ」にして「サワヤカ」と読んでおります。「諸好備」で、体中、総てに、その麗わしき美しさが備わっれいるというのです。
 これだけでも、彼女のその美しさを十分に言い表わしているのですが、更に、続けて
  
 ②ウララカニ ニコヤマニシテ クサグサノカタチタレリ
   曄・温です。「曄」は光り輝くという意味です、「温」はおだやかでなごおやかな様子です。その心までこのように言い書き現わしており。他に例を見ない、何処を取っても一つも欠点のない完全なる「絶世の美人」だったと説明しております。

  どうです。これだけの言葉を持ってその美しさを言い表わされた女性が、此の吉備の稚媛を除いていたでしょうか???。③④⑤はまた明日に

 

 


「茂矣綽矣曄矣温矣」な美女

2015-11-21 12:11:32 | 日記

 中国の楊貴妃に匹敵するのではないかと思われるような美女がいました。それが書紀に書かれれいるのです。

 ”今天下麗人莫若吾妻<イマ アメガシタノ カオヨキヒトハ ワガツマノ ゴトキハナシ>”

 とある時、中央政権に参加していた吉備の国の上道臣「田狭<タサ>」が、同僚に自分の妻が日本一の美女であると話しておりました。その美しさを

 “①茂矣綽矣諸好備矣②曄矣温矣種種相足矣③花弗御蘭澤無如④曠世罕儔⑤当時独秀者也”

 と書いております。
 これを次のように読ましております。
 <①コマヤカデ サワヤマニシテ モロガヲソナワレリ②ウララカニ ニコヤマニシテ クサグサノカタチタレリ③イロモ ツカワズ カモ ソユルコトナシ④ヒロキヨニ タグヒマレナラム⑤タダイマニハ ヒトリスグレタリト >

 どうぞ、此の部分を声に出して御読みください。何回読んでも、その美しさが体の底から染み出るような不思議な感じに浸ることができます。 


稚媛の登場です。

2015-11-20 20:26:53 | 日記

 日本書紀です。これは日本の歴史そのものなのですが。誰がどうしてこんなことを書かしたのかは分かりませんが、兎に角、書かれているのです。当時、これが最も日本の話題になっていたことには違いありません。

 それが、「稚媛」だったのです。日本書紀の「雄略天皇」の段に、雄略天皇が即位して。直ぐに、”草香幡梭媛命<クサカノハタヒビメノミコト>為皇后”とあり、次に三人の妃を立てるとあります。まず、「韓媛」、次に、「稚媛」とあります。この妃は「吉備上道臣之妻」だとしてあります。「上道臣の妻」がどうして、天皇の妃になられたのでしょうか、大いに疑念の起る書きぶりなのです。どう思われますか。どうして妻なのでしょうか。それも、此の稚媛には天皇の皇子まで出来ているのです。  

 その御子の名前は「星川稚宮皇子<ホシカワノワカミヤノミコ>」です。この皇子が、また、後に、日本国の相続に関わるような大きな事件を起こしております。