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唯物論の再構築

ハイデガー存在と時間 解題(第1編第1/2章 在り方の意味への問いかけ)

2018-08-26 23:34:11 | ハイデガー存在と時間

 現存在とは、個人の原初的意識である。ただしそれは、意識や事物の区別の無い現象の全体である。現存在は真偽区別を本来と非本来の区別として了解する。その区別は現存在の在り方に基礎づけられたものである。それゆえにハイデガーは現存在を「世の中での在り方」として言い換える。ここでは現存在分析の開始点を現存在の日常的姿に定めた第1編の1章と2章の説明部分を概観する。

[第1編 第1章と第2章の概要]

 現存在の実存は本質に先立つ。その実存は可能性であり、現実性としての事物存在者の実在と区別される。実存は本来的自己である。しかし平均的日常と言う非本来性が、実存と実存性を隠蔽している。それゆえに実存性の解明は、平均的日常の解明から始まるしかない。この平均的日常は、歴史的に人間の事物化として醸成されたものである。
 現存在は「世の中での在り方」(世界内存在)である。ただしこの表現に現れる「中」は、精神的存在者同士の帰属関係であり、事物存在者同士の空間的内包関係ではない。また「在り方」が帰属する「世の中」も、現存在と切り離し可能な他者ではなく、もともと現存在自身である。現存在における認識作用として世界へと向かう在り方は、認識作用と世界を区別し、世界を外にすることで認識作用を中とする。現存在自身である世界を認識する独我論では、本来的に主客が一致する。すなわち偽は不可能である。ところが現実に偽は可能である。その偽では、本来あったところの真が、本来ではない偽によって埋没している。そのようなことでハイデガーは、偽を現存在の在り方の一つだと断ずる。その在り方としての偽とは、日常的平均性に埋没する現存在の非本来的在り方である。


1)実存を本質から解明する不手際に対する回避の方向性

 現存在の在り方は、自らの在り方を志向するような純然たる在り方そのものである。そして在り方とは存在であり、本質ではない。その在り方は、現存在の全ての性質に先立っている。言い換えれば、実存は本質に先立っている。一方で実存と言う言葉は、もっぱら事物存在者の実在を含めて表現する。しかし現存在の実存は可能性であるのに対し、事物存在者の実在は現実性である。すなわち事物存在者の実在は在り方ではない。ハイデガーは事物存在者の存在について、それが自らの在り方を志向する在り方になり得ないと断じ、現存在における実存を事物存在者における実在と区別する。そしてこの実存との比較により、現存在は自らを自己本来的であるかないかを区別する。もちろん本来的自己とは、実存に等しい。この本来性の区別は、現存在における存在了解に従う。ところが了解されているにも関わらず、実存の構造、すなわち実存性は現存在に対して露わではない。なぜなら現存在の平均的日常は、自己本来的ではないからである。すなわち自己本来性の解明は、非自己本来性によって阻まれている。一方でハイデガーは、学の本来の姿を弁証を通じた存在の露呈に見出す。それゆえにこの実存性の解明も、現存在の平均的日常の分析から始まる。


2)平均的日常における実存の事物化

 現存在の平均的日常において、存在は自明なものだとみなされる。ハイデガーは、同様の事象をデカルトに始まる近代哲学史に見出す。具体的には以下の哲学に対して、存在の意味への不問、ないし存在の意味の不在があると断じる。

・デカルトの「我在り」における存在の意味に対する不問
・ディルタイとベルクソンにおける生の意味の不在
・フッサールとシェーラーにおける人格の存在に対する問いの欠如

ハイデガーはこれらの歴史的遠因としてキリスト教における人間の被造物化を見い出す。人間の被造物化とは、実存の事物化である。そしてこの実存の事物化が、実存を平均的日常に埋没させたとみなす。すなわちこの埋没そのものが、存在の意味への不問、ないし意味の不在なのである。これらの哲学的人間学と同様の事象は、人間学と基本において重なる心理学にも該当する。また生命の意味への不問、ないし生命の意味の不在と言う点で生物学にも該当する。そしてこの同じ事情が、民族学などの経験的諸科学による平均的日常の分析を不可能にする。そもそも平均的日常とは、諸個人が平均化された近代市民社会の事象である。その事を念頭に置くなら、むしろ未開社会の方が実存を平均的日常に埋没させないことは十分に考えられる。


3)中での在り方(内存在)

 ハイデガーは現存在の存在構造を「世の中での在り方」(世界内存在)だと示した。この表現の目論見は、各語の不可分な結合であり、現存在に対する「世の中」「世の中での在り方」「中での在り方」の三方向からの視点提供である。ここでの「中での在り方」が含む「中」は、事物存在者同士の空間的内包関係ではない。空間的内包関係は事物存在者に固有の存在論的性格であり、精神的存在者と無縁である。ここで「中での在り方」が言い表すのは、現存在に固有の在り方、例えば「暮らす」や「親しむ」である。この在り方での現存在は、自身が中での在り方として現れ、そして外の世界に関わる。したがってヘーゲルにおける精神が物を外化したのと違い、ハイデガーにおける現存在は自らが中へと沈潜する。


4)道具的配慮Besorgenとしての現存在の在り方

 現存在にとって世の中は、もともと自分である。それは自らと切り離し可能な他者ではない。一方で、動物はさておき、事物存在者はこのような世の中を持たない。「世の中での在り方」における「世の中」(世界)とは、フッサールでのヒュレー構造と同じような意識の志向対象の構造体だからである。世の中を持たざるを得ない以上、現存在は自ら事物存在者になり得ない。しかし事物存在者に限りなく近い在り方は、現存在にとって一つの自由な在り方である。現存在はその在り方の自由を、身体の実在と言う現事実として了解する。そしてこの現事実が現存在における原体験(現事実性)と言う構造、すなわち現存在する過去を露わにする。ちなみに空間性は、この「中」の過去的派生態として身体から発露する。このような「中での在り方」は、いずれの在り方であるにせよ、世の中への道具的配慮として現れる。ハイデガーによれば、現存在における「中での在り方」は隠蔽されるのは、道具的配慮の向かう先が世の中であるせいである。


5)道具的配慮の一種としての認識作用

 認識作用は、世の中に向かう現存在の在り方である。当然のことながら、認識作用自身は世の中の存在者ではない。このような世の中と現存在の在り方の区別が、外として現れる世の中に対し、現存在を中での在り方として現す。一方で認識対象として現れる世の中は、もともと現存在自身である。したがってこの認識における主客関係は、自己認識する現存在の独我論となる。そのような独我論的主客関係では、認識作用と認識対象の間に超越すべき壁が無い。その認識は常に主客が一致する真理に在り、偽は本来的に不可能だからである。そこには主客一致に認識の真偽を問う発想さえ成立できない。ところが現実に偽は可能である。例えば本来的な真理が埋没するなら、そこに偽が現れる。すなわち独我論において偽を可能にするのは、非本来性である。そのようなことでハイデガーは、偽を現存在の在り方の一つだと断ずる。その在り方としての偽とは、日常的平均性に埋没する現存在の非本来的在り方である。


(2018/08/26)続く⇒(存在と時間第1編3章) 存在と時間の前の記事⇒(存在と時間緒論)


ハイデガー存在と時間 解題
  1)発達心理学としての「存在と時間」
  2)在り方論としての「存在と時間」
  3)時間論としての「存在と時間」(1)
  3)時間論としての「存在と時間」(2)
  3)時間論としての「存在と時間」(3)
  4)知覚と情念(1)
  4)知覚と情念(2)
  4)知覚と情念(3)
  4)知覚と情念(4)
  5)キェルケゴールとハイデガー(1)
  5)キェルケゴールとハイデガー(2)
  5)キェルケゴールとハイデガー(3)
ハイデガー存在と時間 要約
  緒論         ・・・ 在り方の意味への問いかけ
  1編 1/2章    ・・・ 現存在の予備的分析の課題/世の中での在り方
     3章      ・・・ 在り方における世の中
     4/5章    ・・・ 共存と相互依存/中での在り方
     6章      ・・・ 現存在の在り方としての配慮
  2編 1章      ・・・ 現存在の全体と死
     2章      ・・・ 良心と決意
     3章      ・・・ 脱自としての時間性
     4章      ・・・ 脱自と日常
     5章      ・・・ 脱自と歴史
     6章      ・・・ 脱自と時間

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