唯物論者

唯物論の再構築

頽落2

2011-09-28 23:39:02 | 実存主義

 ハイデガーが頽落と表現した人間の堕落は、「存在と時間」における人間意識の時間性構造の分析で、人間的現在の一般的な在り方として登場した。人間は、世界から原因としての過去を強制的に適用させられる。これに対して本来の人間は、目的となる未来を世界に構築すべきである。しかし堕落した人間は、あるべき未来ではなく、世界から受けとっただけの未来を世界に適用する。ハイデガーは、キェルケゴールにならって、このように意識が受動性にまみれる原因を、自由に対する不安に見出す。人間は自由の前に怖気づき、堕落するのだ。そしてハイデガーは、キェルケゴールから得た着想を元にして、自由を人間意識の過去からの脱自において、人間意識の未来を堕落により隠された理念において、それぞれ見出すことで、堕落した現在から人間意識の時間性構造を説明した。そしてカント流の平均的時間形式を、この人間意識の時間性構造の単なる派生態として示した。
 上記のハイデガーの理屈は、説明があまりに見事なので、思わず納得させられてしまいそうである。しかしその体系は、現象学的価値論に実存主義を折衷したものにすぎない。以下では、ハイデガーが依拠したキェルケゴールの側から、ハイデガーの哲学を見直してみる。

 ハイデガー哲学の重要な構成部分となる堕落論、さらには時間性構造論は、キェルケゴールの著作「不安の概念」からその原型を取り出したものである。例えば不安が人間を空談や好奇心などの現実逃避にいざなうことや、普遍的な人間構造を担う自由が不安を引き起こすこと、さらには永遠と瞬間の綜合として人間を捉えた部分がそうである。見方によればハイデガーは、キェルケゴールのこの著作を、ただ現象学の形態をとって再現しただけとも言える。またハイデガーは、堕落を個人責任へと押し付けるが、それもここでのキェルケゴールを踏襲しただけと受け取れる。堕落の原因が人間構造の普遍性のうちにあり、かつ結果に差異が生まれるなら、堕落の責任は個人の自己責任となる。つまり堕落は、運命と呼ばれるに値しないような、必当然な自業自得となる。
 ハイデガーは、「不安の概念」において人間を永遠と瞬間の綜合と示したキェルケゴールの言葉に忠実であろうとする。もちろんこの時間論の起源はプラトンである。プラトンにおいて永遠と瞬間の綜合とは、永遠としてのイデアと、瞬間としての実存の綜合を意味する。ここに大きな分岐点が開けている。もしここで実存を打ち捨てるなら、その思想は既に実存主義と呼ばれるに値しない。当然ながら「不安の概念」の時間論でキェルケゴールは、瞬間を通じてのみ永遠を垣間見るしかできない哀れな存在として、人間を示すことだけに留めている。キェルケゴールの関心は、不安が有限性という人間の原罪を開示することにあったからである。キェルケゴールが哲学者を自負するなら、ハイデガーのように、堕落から人間意識の時間性構造を展開するような哲学的大技を出したかもしれない。しかしキェルケゴールの関心は、そのようなことに無い。彼の関心は、イデアの側に無く、哀れな実存の側にある。ずばり人間の魂の救済が、キェルケゴールの関心事なのである。当然ながら、その後のキェルケゴールは、「不安の概念」の到達点をあっさり捨てて、啓示的絶望論へと進んで行った。

 上述の観点でハイデガーの「存在と時間」を見直すと、筆者には妙な落差を感じ取ってしまう。つまりハイデガーは、キェルケゴールの目指したものを真の意味で継承できたのかどうかである。確かに著作の形態も言葉もハイデガーは、キェルケゴールを踏襲している。なのにハイデガーには、実存の自己責任を語る傲慢さがあり、一方のキェルケゴールには、魂の苦悩の救済を目指す真摯な言葉がある。この違いは、キェルケゴールにおいて堕落や罪が、全て自分のことを語っていることに由来する。またキェルケゴールのその後の著作活動の展開を見ても、堕落の責任を個人の自己責任とみなすのは不自然である。つまりハイデガー哲学の説明と違い、キェルケゴールにおいて、堕落もまた運命なのである。

 キェルケゴールは絶望を罪であると述べた。しかしキェルケゴールにおいて絶望や罪という言葉は、そこに至る意識の能動性を拒否している。絶望とは天啓だからである。天啓とは運命であり、人間の一般的特性から説明され得ない。それは、一般性から離れた個人の内奥に、生の刻印として焼き付けられるものである。したがって単なる怠惰にすぎない頽落などと違い、個人は逃げ回ったあげくに絶望に至る。したがってキェルケゴールの啓示的絶望論は、堕落した個人への非難よりも、絶望する個人への同情を前面に立てている。この点でキェルケゴールはむしろ親鸞に近く、その啓示的絶望論も悪人正機説に近い。そして絶望や罪という言葉を使う場合でも、自らを罪人と自覚する形でキェルケゴールは使っている。このようなキェルケゴールに比べると、ハイデガーの取り上げた頽落は、絶望が持つ天啓的要素が抜け落ちているために、その罪や堕落の水準も含め、人間の運命に対する深刻さを持たない。何よりも魂の救済という、キェルケゴールが抱えていた最大の問題意識から離れている。おまけに一般論として上段に立つ形で頽落を語る必要があるため、結果的に説教臭い。この点でキェルケゴールを見直すと、不思議なことに彼に終生まとわりついた薄幸と暗い影までが、今では彼を守っている。

 キェルケゴールの実存主義からハイデガーの実存論を見直すと、今度はそもそもこれを人間論と呼ぶべきなのか疑問に見えてくる。筆者から見るとハイデガーの時間性構造の理屈は、動物でも植物でも、生き物全ての意識において成立可能に見える。もしかすると生き物でなくても、そこらにころがっている石にでも成立可能な話である。というのは、ハイデガーが実存論で示した自由は、単なる時間推移にすぎないからである。それを自由と呼ぶのなら、石も自由であり、石なりの時間性構造を内包すると考えても困らない。つまり時間性構造が時間形式の母体だという現象学的結論は、頽落論のような人間論を必要としない。ただ単に、一方に不足が事実として現象し、他方に目標が価値や理念として現象し、両者の間で不確定な可能が現象するなら、時間性構造は成立する。したがって少なくとも、生存競争を生き抜く存在者なら、その存在者は時間性構造を内包していると予想できる。さらに非生物においても、その存在者にこのような不足や目標を見出せる。濡れ雑巾を水に張った洗面器にかけておけば、濡れ雑巾は洗面器の水を吸い上げる。洗面器の水が無くなれば、濡れ雑巾は乾いてしまう。濡れ雑巾は濡れ雑巾なりに、その一瞬を生きたのである。石であっても、見たところ確固たる決意をもって動こうとしない。人間存在の本質は自由である。一方で前記の理屈だと、濡れ雑巾や石にも自由を見出すことが出来る。しかしそれなら濡れ雑巾や石は人間なのかと言えば、そんなわけが無い。また草や虫や獣が人間なのかと言えば、そんなわけが無い。
 そもそも人間論は、時間性構造のような別世界の理屈から必要とされるのではない。それは、人として生きることを許されず、人として生きることを夢見た人たちの悲鳴と断末魔が“人間とは何か”という問いに化けたものである。キェルケゴールはヘーゲルを、天を見て地を見ない人と評した。果たしてハイデガーはどうなのか? 筆者からすると、ハイデガーもまた天を向いているように見える。

 ハイデガーに同調する形で、人間の物体化、つまり自由の放棄が、自由に対する不安から始まるという見解が一時代を席捲した。この見解は、共産主義を含め、ナチズムのような全体主義または国家主義、あるいは民族主義に民衆が吸い寄せられる様を説明して一世を風靡した。しかし自由の放棄は、自由に対する不安から始まるわけではない。そもそも自由の放棄は、人間に固有の事象でもない。生存の危機が起きれば、いかなる生物も一つの選択肢として自由の放棄に進む。植物がなぜ一箇所に根を張るのか? フジツボはなぜ岩礁に身を固定するのか? 生物が敢えて自らの行動に制約を与え、自由を捨てる理由は簡単である。そのようにしなければ生存できなかったためである。つまり彼らが移動の自由を捨てたのも、特定の自由の放棄という形の自由の行使にすぎない。これは人間でも同じである。現代人は地縛霊のように土地に自らを縛りつけ、住居の移動の自由を自ら放棄する。そうしなければ、封建的所有制度、そして資本主義的所有制度において、現代人の生活は著しい困難を与えられるためである。このような仕組みで人間をフジツボ化させ、自由を強制的に放棄させる社会に、自らを自由世界と謳う資格はない。人間の物体化、つまり自由の放棄は、自由に対する観念論的な不安から始まるのではない。それは、生存危機に対する具体的な恐怖から始まる。
(2011/09/28)


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