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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学概念論 解題(第一編 第二章 A 限定存在の判断)

2022-04-03 16:22:49 | ヘーゲル大論理学概念論

 判断は概念の自己実現である。ただしここでの自己は自己自身であり、その実存は本質である。この自己実現は、限定存在の直接判断として始まる。肯定判断は既に具体を主語とし、普遍を述語とする。しかしその主語と述語の非同一は、既に否定判断である。それゆえに述語の普遍は限定されて、特殊に転じる。しかしその主語と述語の内容的非同一は、判断を不合理にする。悪無限を避ける判断の運動は、否定判断を肯定表現に入れ替え、命題に中性化する。それは否定判断の否定であり、元の肯定判断の二重否定である。それが無限判断である。無限判断が擁立するのは、主語と述語の内容的同一である。

[第三巻概念論第一編「主観性」第一章「判断」のA「限定存在の判断」の概要]

 判断の一般的諸性格と各種判断の推移の紹介、およびその始まりである直接判断の論述部位
・判断の諸性格
 -全体性      …具体の限定と概念の実在化の一連の全体限定
 -命題との差異   …概念を分割する主語と述語の従属関係の有無
 -主語と述語の同一 …主語が述語の量的減少に留まる命題と異なる同一への移行
 -判断の全容
  ・限定存在の判断 …具体を主語とし、述語の普遍・特殊が主語を質的限定。直接判断
  ・反省判断    …主語と述語の質を廃棄した命題式または数式的な量的限定。表象判断
  ・無条件判断   …主語と述語の一致を実体と現象の本質的一致として擁立。本質判断
  ・概念判断    …無条件判断の主観性の否定。主観判断
・限定存在の直接判断(質的限定)の全容
 -肯定判断     …主語と述語に直接的抽象を擁立。“具体は普遍”を形式、“普遍は具体”を内容とする
 -否定判断     …肯定判断における主語と述語の非同一に従い、判断の形式と内容を“具体は特殊”に転じる
 -無限判断     …否定判断における主語と述語の非同一に従い、“具体は具体的”を形式、“普遍は普遍的”を内容とする


1)判断の全体性

 概念は限定された本質の全体であるだけでなく、具体的存在を限定する。それゆえに限定する局面では、個々の概念の限定とさらに具体的存在の限定が、それぞれ互いに対立する。この概念における本質と具体のそれぞれの限定は、異なる作用である。そして具体を限定する最初のものが判断なら、判断は概念の最初の実在化である。さしあたりこの実在化は、本質全体の反省である。それゆえに判断は、それ自身が自立した概念全体である。そして判断が全体である限り、個々の判断は常に概念全体と関わる。それゆえに判断は、全体を限定する全体性を自らの本性とする。


 1a)判断における主語に対する述語の従属

 判断は主語と述語から成る。そしてもっぱら主語は特殊や具体、述語は主語に対応する普遍や特殊だと捉えられている。しかし判断による限定が先行しなければ、主語と述語はそれぞれ中身の無い名前にすぎない。したがって主語と述語に対してそれぞれを普遍・特殊・具体として割り当てることもできない。さしあたり判断の全体は、一つの自立した限定である。そして主語と述語は、せいぜいこの一つの全体の分裂したなんらかの二項に留まる。したがってそれは概念の根源的分割である。一方でもっぱら主語と述語は、それぞれ一つの全体の外では自立した限定だと捉えられている。この場合に判断による二項の結合は、自立した二項の外的結合となる。例えばそれは「友人Nが死んだ」との報告として現れる。しかしこのような外的結合が表現するのは、単なる命題または数式であり判断ではない。それと言うのも判断の結合は、主語に対する述語の従属を表現するからである。そしてこの従属が主語を特殊または具体とし、述語をその普遍または特殊にする。「友人Nが死んだ」との報告も、それが判断となるためには、友人Nの死の真偽が問われる必要がある。そして報告が死を友人Nに従属させるなら、その報告は判断である。


 1b)判断における主語と述語の同一性

 判断において具体としての主語は、普遍としての述語に限定される。この普遍の限定は、具体に始まるカテゴリー区分の推移である。それは大論理学がこれまで述べてきた存在の生成消滅、実存の現象と現象の法則開示、偶然を通じた必然の顕現などの推移の諸形式と同じものである。ところが判断における具体から普遍への推移は、根源的分割である。そこでは主語の直接的存在が普遍に高められ、逆に述語の普遍が具体的限定存在に低められる。この具体の普遍化と普遍の具体化は、同じ一つのことである。そしてこの同一が、主語と述語の同一を擁立する。ただし主語と述語が外的結合する命題でも、主語と述語の同一は現象する。しかしそこでの主語と述語が逆転可能な同一は、主語と述語をそれぞれ普遍と具体に逆転させる。それと言うのも述語から自立した主語は、具体ではない抽象的普遍であり、主語から切り離された述語は、自立した限定存在だからである。したがってこの命題式相関において述語が行う限定は、主語が行う限定を量的減少させる。すなわちその同一の如く現象する主語と述語は、同一ではない。一方で判断においても主語と述語の同一は、まだ擁立されていない。もし擁立されているのなら、それは推論である。判断にあるのは、主語が述語であると言う両者の抽象的関係だけである。


 1c)判断が含む矛盾の自己展開

 判断における主語と述語の同一性は、先の主語に対する述語の従属と矛盾する。この矛盾が、次のように判断を自己展開させる。
 ・限定存在判断(直接判断) …主語に抽象的普遍にある具体を擁立し、述語に主語の限定存在や特殊性を擁立する判断。
               (述語に現れる限定存在や特殊は、端的に言えばいずれも普遍の抽象)
 ・反省判断  (表象判断) …主語と述語の質を廃棄し、外面的な量的一致を擁立する命題式または数式的判断
 ・無条件判断 (本質判断) …主語と述語の外面的結合を実体と現象の本質的一致を擁立する判断
 ・概念判断  (主観判断) …主語と述語の無条件一致を主観的形式と扱い、概念の実在性を問う判断


 1d)限定存在の直接判断

 主語の直接的具体を普遍に高め、述語の普遍を具体化する判断。ただし述語の普遍も直接的な限定存在なので、ここでの判断は“これはあれである”の形で始まる。述語の普遍は例えば「赤」などの質として現れるので、この判断は質的判断である。また述語は主語の直接的具体に従属するので、この判断は内属判断でもある。限定存在の判断は、肯定判断・否定判断・無限判断として現れる。


2)肯定判断
 2a)肯定判断の形式

 始まりの判断では、主語も述語も直接的な限定存在である。そしてその形式において主語は具体であり、述語は普遍である。例えばその判断は“赤いのは薔薇である”となる。その一般的表現は“具体は普遍である”である。ただし主語と述語は、その無内容において名前に留まる。したがってその具体と普遍は、いずれも抽象にすぎない。それゆえにこの具体は個物Etwas一般であり、この普遍は無媒介な存在である。一方で直接性の概念は、媒介の廃棄により生じる。すなわちそれは無を含む。したがってこの具体と普遍の直接的な限定存在が持つ直接性は、実際には直接性ではない。つまり主語と述語は、ともに無の欠如した抽象にすぎない。そしてこのような無の欠如が、主語と述語の関係を肯定判断にする。


 2b)内容を得た肯定判断

 判断は主語の直接的具体を、一つの普遍に高める。同様に判断はその限定において述語の普遍を、或る特殊または具体にする。それゆえにその後続する判断では、具体と普遍はそれぞれ内容を得て逆転する。例えばその判断は“薔薇は赤い”となる。一見するとその判断の主語は、具体ではなく“薔薇”として普遍である。ただしその普遍は、限定された“薔薇”として具体である。同様に一見するとその判断の述語は、普遍ではなく“赤”として具体である。ただしその具体は、一般的な“赤”として普遍である。またこの判断は、述語による主語の限定と言う点でも変化していない。それゆえにこの判断は、相変わらず形式において具体を主語とし、普遍を述語としている。ところがこの判断は、その内容において主語が普遍であり、述語は具体である。それゆえにその一般的表現は“普遍は具体である”に転じる。ここでの具体は普遍の属性であり、普遍は具体を包括する。この判断における主語と述語は、形式における具体と普遍を内容において逆転する。


 2c)肯定判断の否定

 “具体は普遍である”は判断の形式を成し、“普遍は具体である”が判断の内容を成す。とは言え肯定判断において具体と普遍は、ともに主語でも現れるし、述語でも現れる。すなわち“赤いのは薔薇である”の“赤”と“薔薇”は具体でも普遍でも可能である。ただ主語を具体と捉えるなら、判断は述語による主語の直接限定であり、主語を普遍と捉えるなら、判断は主語による述語の包括限定となる。もし判断が単に両者の同一を表現するなら、両者は具体でも普遍でもなく、ともに特殊となる。そしてその同一は、判断を空虚な命題に変える。しかし判断の言明は、主語を述語と区別する。いずれに現れるにせよ普遍の全体は、形式においても内容においても具体を包括し、なおかつそれ以上の外延を持つ。そのことが表現するのは、端的に言えば、主語と述語が同一ではないことである。それゆえに肯定命題は否定される。


3)否定判断
 3a)否定判断の形式

 判断の形式は“具体は普遍”である。それゆえに判断の形式は、肯定判断に主語と述語の内容的不一致を前提する。この点で純論理的な判断の真偽認定は、判断の形式に反する。なぜならその真偽認定は、主語と述語の内容的一致に判断の真を求めるからである。そして肯定判断が表現するのも、主語と述語の内容的一致である。したがって肯定判断は、純論理的な判断の真偽認定と同様に、判断の形式に対立する。判断の真は、主語と述語の内容的一致にあるのでもなく、肯定判断の中にも無い。それは否定判断の中にある。さしあたりその否定判断の形式は“具体は普遍ではない”である。直観や知覚の正しさ、または表象と対象の一致に真理を見出すのは、哲学にそぐわない。


 3b)否定判断の内容

 否定判断“具体は普遍ではない”は、主語を具体とするので、その述語も具体ではない。したがってその述語にある普遍は、具体ではない抽象である。ところがこの具体と区別された抽象的普遍は、区別において限定される。それゆえにこの抽象的普遍は普遍でもない。それは外延の否定において拡げられた具体であり、或る特殊である。一方で内容を得た肯定判断の否定は“普遍は具体ではない”の否定判断として現れる。この判断において述語は、具体的ではないとされる。そして判断の形式から言っても、述語は普遍である。ところがこの判断は主語を普遍とするので、その述語も普遍ではない。それゆえにこの具体も、やはり普遍でも具体でもない。それは外延の限定において狭められた普遍であり、或る特殊である。この特殊は、判断の形式における抽象的普遍を否定し、判断の内容における具体的質を否定する。このことから否定判断は“具体は或る特殊である”の一命題に還元される。これは否定判断の肯定表現である。


 3c)否定判断が擁立する特殊

 肯定判断において具体は否定されて普遍となる。ただしこの具体と普遍は、その抽象性において同一である。したがってその抽象的同一は、例えば“薔薇は赤い”の肯定判断の内実を“薔薇の色は薔薇色である”の同一判断にする。その主語と述語をかろうじて区別するのは、主語と述語を具体と普遍として区別する判断の形式である。ここでの普遍は、具体の包括者である。とは言えこの空虚な区別は、普遍と区別された具体を擁立するものではない。ただしここでの両者は、その色において同一する。これに対して否定判断は、肯定判断で具体を否定した普遍を否定し、その二重否定により具体を回復する。すなわち“薔薇の色は赤くない”の否定判断は、普遍の“赤”と区別された具体の“薔薇の色”を擁立する。まずここでの限定は “薔薇色”を普遍的な非普遍にする。そして非普遍は、普遍の無限な対極である。なるほど赤と区別される色は無限にある。しかしその外延は、無限定で抽象的な赤の外延より狭い。一方で“薔薇色”は普遍として述語にある限り、具体的な非具体に留まる。それゆえにその外延は、具体的な薔薇の色の外延より広い。このような薔薇色に対する限定が、薔薇色を普遍でも具体でもない特殊な色にする。それゆえに肯定判断における述語の普遍は、否定判断の肯定表現において特殊と入れ替わる。しかしその狭められた普遍として限定された特殊は、主語との抽象的同一を否定する。それゆえに否定判断の肯定表現も、無限判断に移行する。


4)無限判断

 肯定判断における“具体は普遍”の主語の否定は、否定判断の二重否定により“具体は特殊”に転じた。しかしその主語と述語の非同一は、否定判断の肯定表現においても主語を否定する。それゆえにその主語と述語の無関係は、判断の形式を廃棄する。否定的無限判断は、そのように判断の形式を廃棄した否定判断、例えば“赤いのは精神ではない”として現れる。それは否定判断のさらなる否定、すなわち“具体は特殊ではない”である。この判断の正当性は、物理が精神に対して色の所属を認めないことに従う。すなわち精神に対する色の限定は不都合である。したがってこの否定判断の否定も“赤いのは精神である”に復帰しない。結局この判断の不合理は、法の不在に従う。そしてその不在に対して無限判断が法を擁立する。そして物理が精神に対して色の所属を認めるなら、不合理な否定的無限判断も容認される。さしあたり無限判断は述語の特殊を否定し、より限定された具体を擁立する。それは端的に言えば“赤いのは赤い物”である。したがってその特殊を廃棄した肯定表現は“具体は具体的”となる。それは具体の自己復帰であり、述語の普遍における普遍性を否定する。一方で内容を得た肯定判断では、主語に普遍が現れる。このことは“精神は赤い”の肯定的無限判断でも変わらない。この場合でも主語に現れる“精神”は、普遍である。ここでも無限判断は述語の特殊を否定し、述語をより限定の外れた普遍を擁立する。例えばそれは “精神は意志”である。したがってその特殊を廃棄した肯定表現は“普遍は普遍的”となる。それは普遍の自己復帰であり、述語の具体における具体性を否定する。

(2021/10/24) 続く⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第二章 B) 前の記事⇒(ヘーゲル大論理学 第三巻概念論 第一篇 第一章 B注・C)

ヘーゲル大論理学 概念論 解題
  1.存在論・本質論・概念論の各章の対応
    (1)第一章 即自的質
    (2)第二章 対自的量
    (3)第三章 復帰した質
  2.民主主義の哲学的規定
    (1)独断と対話
    (2)カント不可知論と弁証法

  3.独断と媒介
    (1)媒介的真の弁証法
    (2)目的論的価値
    (3)ヘーゲル的真の瓦解
    (4)唯物論の反撃
    (5)自由の生成

ヘーゲル大論理学 概念論 要約  ・・・ 概念論の論理展開全体 第一篇 主観性 第二篇 客観性 第三篇 理念
  冒頭部位   前半    ・・・ 本質論第三篇の概括

         後半    ・・・ 概念論の必然性
  1編 主観性 1章A・B ・・・ 普遍概念・特殊概念
           B注・C・・・ 特殊概念注釈・具体
         2章A   ・・・ 限定存在の判断
           B   ・・・ 反省の判断
           C   ・・・ 無条件判断
           D   ・・・ 概念の判断
         3章A   ・・・ 限定存在の推論
           B   ・・・ 反省の推論
           C   ・・・ 必然の推論
  2編 客観性 1章    ・・・ 機械観
         2章    ・・・ 化合観
         3章    ・・・ 目的観
  3編 理念  1章    ・・・ 生命
         2章Aa  ・・・ 分析
         2章Ab  ・・・ 綜合
         2章B   ・・・ 
         3章    ・・・ 絶対理念


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