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唯物論者

唯物論の再構築

唯物論16(人間4)

2012-07-29 09:22:02 | 唯物論

 マルクスの時代の労働者は、朝起きて夜寝るまで労働を行ない、なおかつ貧困に喘いでいた。労働者は社会の圧倒的多数でありながら、物として扱われながら生き、物として死んでいった。19世紀末に自らの過酷な運命に対して、米国労働者が8時間労働制を要求して蜂起する。ただし社会の圧倒的一部が8時間労働制を承認するためには、ロシアにおける共産主義革命の成立という世界史的衝撃を待つ必要があった。この意味で現代の労働者の境遇は、大昔の労働者の境遇に比べれば、天国のようなものである。もちろんこのような境遇の改善は、労働者を縛る鎖を鉄の鎖から金の鎖に換えただけかもしれない。しかしそうであるとしても、労働者はそれを素直に喜ぶべきである。新たなステージに立つことにより新たな地平を目指す形で、現代の労働者は自らの自由を問うことができるからである。また実際に現代の労働者は、自らの自由の真偽を問わざるを得ない。確かに労働者は外見的に人間として扱われるようになった。それにもかかわらず労働者は、物として生き、物として死んでいく自らの運命を自覚せざるを得ないからである。

 自由とは、主体の行動がいかなる制約も受けない状態、すなわち主体が自らの行動を支配している状態を指す。一方で意識の他者は、意識に対して所与として現われることにおいてその強制力を持つ。意識にはこの所与を拒否する権利は無く、ハイデガーの表現を借りれば、人間は常に既に世界の足元に投げ出されている。このために行動主体としての人間は、その出発点において自由ではなく、従って意識でさえなく、ただの物体である。ところがその一方で主体による自らの行動の支配は、日常の生活行動のほぼ全域で現われているように見える。彼は朝に時計を見て目覚め、朝食を食べて職場へと出社し、残業という名の定時を終えて帰宅すると夜食を食べて、入浴後に就寝する。その行動の全ては、主体自らが支配しており、従って彼は自由であるように見える。しかし実際にはこの行動記録のどこにも、自由は存在していない。この行動記録を見る限り、この主体は環境世界に支配された自動人形に過ぎず、自らの外的必然性に規定されるだけの物体であり、つまり人間ではない。
 人間の物体化は、共産主義の理解では資本主義の仕組みにより生まれる。資本主義において労働力は、商品である。そして資本主義において商品は、その再生産に要する総労働時間に等しい商品とだけ等価交換される。つまり労働力商品としての労働者は、自らの人生と引換えに、自らと次代の労働力商品としての子供を養うための商品の塊りを受け取る。そして労働者は、それ以上の余剰商品を受け取ることができない。労働者がそれ以上の余剰商品を人生のうちに取得できたとしたら、それは資本主義的商品市場における不等価交換の発生であり、そのしわ寄せはもっぱら別の労働者が受ける。もちろんそのしわ寄せを富者が受けるのも可能である。その場合、労賃全体が社会全般で上昇することになる。しかし資本主義における労賃の上昇は、土地不動産を筆頭にした生活私財を高騰させ、最終的に労賃を労働力の再生産に要する価値量に引き戻す。つまり労働者がせっかく確保した余剰価値も、地権者などに吸収される形に終わる。とはいえこのような不等価交換実現と等価交換再現のイタチごっこも、無意味ではない。過去の歴史を見る限り、労賃の全般的上昇は労働者の地位向上に大きく貢献してきたからである。しかし労賃上昇の可能性は、富者の譲歩を引き出せるかどうかに委ねられている。それに対して第二次大戦後の富者は、譲歩を自ら行わずに、政治家を通じて国家財政から支給する新手の搾取技法を編み出した。この方法は戦後世界に、富者の利益を損ねず、なおかつ労働者から共産主義を遠ざける最良の方法として君臨し続けてきた。この富者による国家収奪の内実は、現代の労働者だけでなく、未来の労働者からも搾取を可能にするという富者にとっての夢のシステムである。さすがに昨今では、このケインズ政策が国家の借金漬けを生むという問題は、一般に周知されるようになった。しかしいまさら富者が、労働者に対して譲歩を示す気配はさらさら無い。現代において共産主義革命への恐怖は、かつてのように有効ではないからである。結果的に今では労働者における一方の富裕は、労働者における他方の貧困というイス取りゲームの様相を示している。
 労働者は、労働に自らの人生を捧げるが、その見返りとして自らの再生産に要する商品の塊りを得ただけで潰える。例え生産技術の進歩が旧時代の数百倍の生産力を可能にしても、資本主義におけるこの労働者の運命は変わらない。技術進歩の効力は一過的である。それは商品価値の一過的な部分デフレを起こし、労働者に一過的な余剰価値をもたらす。しかしそこで生まれる労働者の生活余剰も、最終的に地権者などに吸収される形に終わる。時が経てば技術進歩の成果も、梃子や歯車と同様に、商品生産活動の暗黙の前提の一つになる。資本主義において労働者は、必然に縛りつけられ、自由を許されない宿命にある。その不自由は、圧制により実現されている必要も無い。富者も、労働者の手足の自由を奪っておけば、どこへでも自由に行って良いと安心して言うことができるからである。また新聞を見ても、労働者には自由があると書いている。しかし富者と違い、労働者がその自由を行使するのは、人生を賭けた大勝負である。実際には資本主義において、労働者は自由を持ち得ない。労働者は物であり、人間になることができない。
 マルクスは「経済学・哲学草稿」を書いた若い時分から、資本主義における労働疎外の問題を取り上げている。筆者の言う“人間の物体化”は、同じ事柄を人間的自由の面に限定し単純化したものである。そのようにマルクスの表現と切り分ける理由は、マルクス疎外論が抱えたヘーゲル流のオカルト物象化論を回避するためである。労働者の貧困は、マルクスが考えたように、資本主義における所有の分断を条件とする。しかしなぜかマルクスは疎外を、労働者が自らを対象化した生産物が、労働者の外部に労働者と対立する形で現われることをもって表現する。それによれば、生産物を労働者に還流するなら、疎外の克服も可能となるはずである。しかし労働者は、自ら作成した機械を受け取っても仕方は無い。生産者は、自らの心血を注いで作成した生産物に対し、愛着をもつかもしれない。しかし労働者に必要なのは、生産物そのものではない。彼に必要なのは、自らの生活資材であり、要するに金である。マルクスの疎外論が語る労働者の悲哀は、まるで芸術家が自らの作品を他人に横取りされた浮世話に仕上がっている。このようなマルクスの疎外論の頓珍漢は、若い時分に限った話ではない。資本論には、分業により自らを作業機械に特殊化した労働者の話が登場する。マルクスはこのような労働者を、生活のために自らを特異に変形させた哀れな異常体として捉えている。つまり資本主義が労働者を、作業機械に変えたのだと考えている。マルクスの論点は、人間の物体化の問題に肉薄しているように見える。しかし実際には彼の理屈は、人間の物体化の問題とは別の、見当違いの方向に飛び去っている。マルクスの目には分業による労働の特殊化は、人間の全人格的発展の阻害された姿として映っている。しかし分業による労働の特殊化は、必ずしも労働者を不幸にしない。むしろ専門化した労働は、労働者に特権とプライドをもたらす。さらに言えば、技術進歩の進んだ現代資本主義は、極度の単純労働を機械化することで労働者の負担を減らし、資本家にも利益をもたらしている。労働の特殊化は、分業とその発展形態である機械化の話題に留まる。それは疎外論として語るべき労働者の不幸と、無関係ではないとしても、別の次元の話題である。
 ちなみにマルクスの頓珍漢に歩調を合わせてボケたのが、ハイデガーの頽落論である。ハイデガーは、空談や好奇心のような無意味行動の反復を、人間の非本来化として捉える。ハイデガーが示したこの人間の非本来化現象は、マルクスが単純労働の反復を人間の作業機械化として捉えた図式と実質的に同じものである。両者ともに無意味行動の反復を、人間の間化、すなわち人間の物体化として理解している。違いは、マルクスでは資本主義という経済機構が人間の物体化をもたらすのに対し、ハイデガーでは人間の生来的傾向が人間の物体化をもたらすことにある。つまり人間の敵は、マルクスでは労働者の外側に資本主義国家として現われるのに対し、ハイデガーでは人間の内側に潜む一種の怠惰として現われている。それは決意の先送り、または無方向な自由として理解されている。しかし自由の方向の問題は、方向の真偽問題であり、人間の堕落と別の次元の話題である。それは、単に方向性の有無を問うだけとしても同じである。もちろんそれは、労働者の不幸からも外れた話題である。キェルケゴールに始まる実存主義の特徴の一つに、倫理判定を決意の有無それ自体に求めて、決意した行為の中身を問わないことがある。それは決意という意識状態に対する敬意に留まらず、決意という意識状態に対して真偽判定が屈服するにまで至っている。決意が世界を規定するというこの極度の観念論は、意識の無方向な自由を軽蔑し、そのことをもって実際には自由と敵対している。ハイデガーが空談や好奇心を人間の堕落とみなすのも、この実存主義の嗜好に従っている。そしてこの勘違いのために実存主義は、実は空談や好奇心こそが人間の可能性であり、人間の本来を形成していると考えもしない。むしろ空談や好奇心は、人間的自由の発露であり、出来が悪いよう見えるだけで、それ自身が人間的尊厳だとさえ言い得る。しかしそのことを、実存主義は敢えて見ないようにしたのである。実存主義にまだ自らの面目を保つ気力があるなら、今度は自由の質を問う形で体系構築をやり直す必要がある。
(2012/07/29)


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