唯物論者

唯物論の再構築

唯物論8(意識1)

2012-02-19 15:11:18 | 唯物論

「人間は精神であり、精神とは自己である。自己とは一つの関わりであり、関わりそのものに関わる関わりである。またはその関わりにおいて、関わりが自らに関わることそのものである。自己とは関わり自体ではなく、関わりが自らに関わることである。」「人間の自己は、自らとの関わりにおいて、同様に他者と関わる関わりである。」

 上記文面は、キェルケゴールの「死に至る病」からの引用である。この記述は、精神つまり意識を、関係本体と区別された、関係の自己関係として示している。ただし上記引用文では、“関係”と記載するより“関わり”の方が文意に合うと考えて、関係という言葉を使わずに、関わりという表現で統一した。というのは、筆者の印象だと“関わり”は作用主体が作用対象に働きかける行為である一方で、“関係”にはこの関わりが対象化された語音を感じるからである。
 もし上記文面における「関わり」を“関係”として対象化されたもののように理解すると、カント超越論において純粋悟性概念の一角を占めていた関係概念のように関わりを受け取ることになる。しかし純粋悟性概念としての関係概念は、すでに関係一般としてその形式性を完成している。つまりそのような関係概念の中には、自己概念がしゃしゃり出てくる必要も余地も無い。もしこの関係概念を統括する関係概念があり、それを意識と理解するとなれば、意識はこの関係概念と同様に対象化された単なる形式になってしまう。そのような新しい上位の純粋悟性概念としての自己関係は、下位の純粋悟性概念としての関係概念と区別されるに足る違いを持たない。同じ理由で、上記文面における「関わり」を対象化された関係にみなす限り、上記文面をヘーゲル弁証法での純粋悟性概念の生成の理屈を踏襲したもののようにみなすのも不可である。それだと自己は、媒介を経た単なる本質、それも抽象形式に成り下がってしまうからである。
 上記文面における「関わり」は、作用主体が作用対象に働きかける行為として理解された“関係”を指すべきである。その場合、キェルケゴールの言う“関係の自己関係”は、“関わりへの関わり”として、単に作用主体が作用対象に働きかける行為ではなく、作用主体が“作用主体が作用対象に働きかける行為”に働きかける行為となる。これは何のことかと言えば、単純に関わりを目指すことである。言い換えれば、関わろうと欲することを指す。この場合に自己は、実際に関わり以外の何かと関わる必要はない。自己が精神として現れるための条件は、関わりを目指すことそれ自体となる。それは一般に自発性と呼ばれるものである。したがってキェルケゴールの言う“関係の自己関係”は、カント超越論における純粋悟性概念に類比すべきではなく、むしろカント超越論における構想力に類比すべきである。ただしこの関わりのもつ自発性は、カントが構想力に見たような観念の再構築をする程度の自発性に収まるものではない。関わりは、単なる認識と違い、単独の意識だけで成立しないからである。関わるためには、関わる相手を必要とする。そこには作用主体と作用対象、認識主体と認識対象が別物であること、そして認識主体と認識対象が現実存在するという前提までが含まれている。それは、自発性の有意性が、現実存在する対象に作用することにあるためである。それらのことは、自己が自己であるために、他者が必要であるのを意味する。したがって上記文面を書き直すなら、「自己とは、関わり全般を欲するものである。」となるし、「自己は、自らと関わるのと同じ要領で、他者との関わりを目指す。」となる。
 なお上記文面における「関わり」を“作用主体が作用対象に働きかける行為”にみなす場合、今度は上記文面がヘーゲル弁証法での純粋悟性概念の生成の理屈を踏襲したものとして現れる。つまり“作用主体が作用対象に働きかける行為”、すなわち関わりのうちに含まれていた一部が、関わり全般を統括する関わりとして特化し、それが精神すなわち意識となるのである。当然ながらここでの意識も、媒介を経た本質として現れる。ただしこの本質は、媒介の痕跡を自らのうちに持たない。それは対象化された関係ではなく、いつでも関係作用そのものとして存在し続けてきたからである。意識は、関わりの原初から自らの死滅までの間、常に現実存在であり続けるものなのである。

 上記のキェルケゴールの文面の特異性は、第一に意識に対して、認識ではなく、関わりを要求するところにあり、第二に意識に対して、自らとの関わりだけではなく、さらなる他者との関わりを要求するところにある。デカルトからヘーゲルに至るまでの近代哲学は、コギトを中心に据える形で、もっぱら意識を認識能力と捉えてきた。それらの哲学では、意識に現れる対象は、認識の対象であった。もちろん意識に現れる対象が他者であっても、それはやはり単なる認識の対象にすぎなかった。またそれらの哲学は、一体誰の意識の話をしているのか常にあいまいであり、ヘーゲルやシェリングに至っては、どう見ても人間以外の意識の話をしていた。それらの哲学に共通していたのは、自己意識と他者意識の垣根が無く、常に共通の意識世界から物自体の認識を目指していたことである。それらの哲学での意識は、常に自己完結した得体の知れない世界意識だったのである。実体としてそれらは、他者のいない哲学だったのである。そのことは、フィヒテにおける自我であっても変わっていない。他者の不在は、自己の不在と同義である。実存主義以前の哲学には、個人の意識を問題にする発想自体が無く、他者の存在は、経験論における物自体と同様に、不可知な存在に扱われていたのである。
 このような哲学的伝統に対し、あっさりとキェルケゴールは、そのようなものを私は意識と呼ばない!と宣言する。キェルケゴールは、はなから共通の意識世界を拒否しており、自己を意識一般ではなく、あくまでも自分の意識に限定することを要求した。そしてこれにより他者は、認識する対象ではなく、関わる対象となった。さらに意識は、単なる可能性に留まることなく、現実化を目指すようになった。もっとおしゃれに言うなら、理念は、眺めるものではなく、実現すべきものとなったのである。

 意識は、作用主体が作用対象に働きかける行為である。この作用主体と作用対象の両者は、意識ではない。それらはともに、認識主体に相応する新しい姿で、直観に自らの姿を現すような、意識の他在である。すなわちそれらは、ともに物質にすぎない。意識は、この作用主体と作用対象の両者の間でのみ存在する。したがって意識は物質ではない。しかし意識は、この両者なしに存在しない。フッサールの志向理論が示したように、作用主体と作用対象のいずれか一方でも欠けた意識は、あり得ないのである。これらのことから言えるのは、意識が物質から生まれた、物質ではないものだということである。
 なお意識をこのような関わりとみなす限り、意識と作用主体は別物となる。つまり意識と肉体は別物となる。これは、意識自らが作用主体だと考え、肉体が作用主体だと考えもしないという世俗的な観念論的逆転を説明するものである。ところがこの観念論的逆転こそが、上述までの展開してきたキェルケゴールの理屈に対して、そもそもの根本的な問題を提示する。その根本的問題とは、このように作用主体に規定された意識において、意識自らの主体性をどのように理解すべきなのかということである。それは、意識の自由がいかにして可能なのかという問題を指している。
(2012/02/19)


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