唯物論者

唯物論の再構築

唯物論15(人間3)

2012-07-08 15:53:49 | 唯物論

 これまでの考察では意識を物質から生まれ出た非物質として扱い、意識自らの要請に従う形で、意識を物質と区別してきた。それは意識が。もっぱら物質と対峙することによって、自らを物質と区別するためである。しかしこのように意識を非物質に扱うことに対して、意識はやはり物質ではないのかという唯物論的疑念はなかなか消し去ることができない。以前の記事(意識2:意識の非物質性と汎神論)では、この唯物論的疑問がたどり着く誤謬として、機械的唯物論を取り上げた。機械的唯物論とは、意識を物質に扱うことにより全存在を物質に一元化させる旧時代の唯物論の総称である。しかし意識を物質に扱う理屈は、大脳生理学の進歩を背景にして、哲学を差し置く形で、むしろ現代科学の中に氾濫している。このような現代の機械的唯物論は、合理的意識が世間的な宗教的迷信と対峙する場合、かなり有効な反論を用意してくれる。しかしそれは、スピノザの到達点を突き崩す形で、無邪気に意識の物質化を進めただけの俗流唯物論である。意識を物質へと一元化することは、全てを存在に扱い、無を錯覚に扱うことと同じである。それは、偶然の存在を錯覚に扱うことであり、全てを必然に扱うこととなる。したがってこの俗流唯物論の世界には自由が存在せず、人間でさえ物体化している。簡単に言えば、世界に人間が存在しない。そのことを突き詰めて言うなら、現実存在は本質に従属し、個物は全体に隷属し、全ての事象は宇宙の始まりに用意された見取り図を描くだけとなる。つまり物質は、始原的理念に支配される運命におかれてしまう。極端に言えば、機械的唯物論とは、観念論の一種なのである。

 生物科学の進歩は、脳内の神経物質の伝達と人間の思考作用が常に対となっていることを明らかにした。つまり生物科学において意識は、肉体の神経構造を前提にして存在する。現代科学は、肉体を遊離した意識を拒否したことで、宗教と絶縁しているわけである。当然のこととして、意識が物質的基盤を前提とするなら、意識も物質でなければならないという機械的唯物論の持論が登場する。しかし意識は、物質から生まれ出るとしても、物質ではない。なぜなら意識は現象しないからである。あるいは意識は、少なくとも意識自らにおいてのみ現象し、いかなる他者の意識に対しても現象しないからである。現象したとみなされた意識は、もっぱら過去の意識の残骸であり、現象ではなく、表象である。そして表象とは、それが対象化された意識である限りで、既に物質である。この物象化した意識を、現実の意識と区別するのは、意識自らの要請に従う。以前の記事(意識5:作用主体と作用対象)の記述を繰り返すなら、「我は(我を)思う」ときの目的語としての「我」はもちろん、主語としての「我」でさえも物質である。現実存在する意識は、「思う」として現われており、そのことで自らを物質と区別している。
 脳内の神経物質は、他者の意識に対して現象し得るような物体である。したがって思考を脳内神経物質に極限した場合、科学の発達した未来人は、脳内神経物質を観察することで、個人の意識状態を特定できるかもしれない。さらにこの未来人は、脳内神経物質を操作することで、個人の意識状態を変更できるかもしれない。この想定では、未来人による操作を受けている間、脳内神経物質は自由を失う。そのときの脳内神経物質自らの自由の自覚は、全て錯覚である。しかし未来人による操作から解放されるなら、脳内神経物質は相変わらず自らの自由を保持している。そのときの脳内神経物質自らの自由の自覚は、錯覚ではない。ここで注目すべきなのは、錯覚であろうと錯覚でなかろうと、脳内神経物質が持つ自由の自覚は、脳内神経物質自らにおいて真理であり続けることである。そのことは、脳内神経物質の自由の自覚が、未来人の意識において真理として映ったり、虚偽として映ったりすることと明らかに対立している。つまり意識自らにおいて錯覚ではないことが、他者の意識において錯覚であったり錯覚でなかったりするわけである。このことは、意識自らにおいて現象する意識と、他者の意識に対して現象する意識が、乖離せざるを得ないのを示している。それは、意識を物質へと一元化する機械的唯物論の限界を示している。
 上記に想定した未来人による意識操作の例は、意識自身と意識の他者の間の意識に対する認識乖離の説明のために、意識の有限性について着目している。しかし意識の自由に着眼点を変えるなら、未来人と言えども意識の自由を操作できないのは、最初から明白である。未来人が自ら操作した意識に自由があると考えるためには、未来人は自らの理屈に自己欺瞞を導入する必要があるためである。意識は他者に対して現象しない権利を得ており、そのことが意識を物質と区別する。なぜなら物質とは、認識主体に相応する新しい姿で、直観に自らを現わすような、意識の他在だからである。

 意識は、物質から生まれ出た非物質である。ただし意識は、自ら存続する限り、非物質であっても非存在ではない。非物質であっても物質に規定されて存在する以上、意識も物理的制約を必然的に受ける。このような意識に対する物理的制約と、上記に示したような他者に対して現象しないという意識の権利は、意識に次のような存在性格を与える。意識はその可能な物理範囲のどこかにしか存在できない。そのくせ意識はどこに存在するかを、他者によって、場合によっては意識自らによっても、特定できないという存在性格である。意識の存在は、常に蓋然的であり、不確定なのである。この存在性格は、素粒子理論を彷彿させるが、意識は素粒子ではない。素粒子は物質であるが、意識は非物質だからである。もし両者の存在性格の類似を理由に、逆に素粒子を意識に扱うとしたら、今度は物質が世界に存在しなくなり、物質を意識へと一元化する独我論が生まれるだけである。
 そもそも意識の非物質性は、このような素粒子のごとき位置的不確定性に留まるものではない。意識は、意識の存在それ自体が不確定であることに特色を持つ。そしてこの存在不確定性こそが、意識に非物質性を与えている。つまり意識は、どこに存在するかを特定できないだけでなく、そもそも存在するかどうかさえ特定できないのである。
 脳内神経物質を含めた肉体のそもそもの役割は、環境世界に対応した行動決定である。したがって上記で想定したような未来人による意識操作を例として示さなくとも、現時点で環境世界が既に同様の意識操作を実現している。未来人による意識操作の例と同様に、環境世界が意識操作をしている限り、人間には自由は無い。言い換えれば、意識は存在しない。例えば、人間は所与として目前に近づく車を見ており、その車を避けるべき行動を決定する。もちろん脳内神経物質が近づく車を生み出したわけではないし、また肉体が行った車から身をよける行動決定も必然的であり、そこに自由な意識や崇高な理屈は不要である。世界にこのような意識操作だけが存在する場合、そこに自由は存在せず、人間は単なるカラクリ人形として、つまり物体としてのみ存在する。ここで人間が自らの物体化を超え出る条件は、目前に近づく車から目をそらすことでもなく、車をよけずに自殺することでもない。人間が自らの物体化を超え出る条件は、例えばあらかじめ人間に向かって突進するような車を無くし、また車に対する防護を社会に張り巡らし、凶器としての車を無力化することである。つまり環境世界による意識操作を無力化することである。そしてそのとき初めて肉体は、環境世界による意識操作から解放され、自由となる。自由な存在としての意識は、そこにおいて初めて物質から生まれ出る可能性をもつ。逆に言えばそれまで環境世界が意識操作をしている間はずっと、意識は存在してこなかったのである。

 人間とは意識であり、意識の存在は自由である。サルトルは「存在と無」で、自己完結した即自存在に対して、反省する対自存在として意識を定義した。もしこの対自存在としての意識の起源を、反射元の追跡で得られた始元的な開始地点に見出すなら、それを意識の実体とみなし得るかもしれない。しかしそこで見出される意識の実体は、意識以前の意識という点で既に意識ではない。そもそもそれは、単なる肉体であり、物質にすぎない。このように現象とその起源の区別を、現象と実体の区別に見立てることは、意識を反射映像として、意識の実体を反射元の被写体として把握することになる。しかし意識と物質の関係は、映像と被写体の関係ではなく、子供と親の関係である。子供を親と同一視するのが許されないように、意識を物質と同一視するのも許されるべきではない。したがって意識の起源が物質にあるとしても、意識の実体は物質ではない。意識の実体を物質に扱うのは、機械的唯物論である。機械的唯物論を回避し、なおかつ意識の実体があると想定する場合、それは意識ではない意識になるしかない。つまりそれは、リビドーやエスのようなフロイトが考えた内在的な神に帰結する。しかしそれはカント流の背後的実体が、無意識という名のイデアに化けただけのものである。意識には、現象と実体の区別は無い。強いて言うなら意識には現象だけがあり、実体は無い。意識に実体が無いことは、意識の存在が自由であることの当然の帰結である。
(2012/07/08)


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