唯物論者

唯物論の再構築

唯物論7a(相対主義と絶対主義)

2014-05-12 10:27:38 | 唯物論

 水の沸点は100度であり、凝固点は0度である。そもそも摂氏の温度設定は、この沸点と凝固点を基準にしている。ただし気圧が低ければ沸点は100度以下になるし、水に混雑物が溶解していれば凝固点も0度以下となる。沸騰や氷結が周辺環境に応じて変動する場合、沸点温度が100度であることや氷結温度が0度であることは、単なる経験論的仮説に成り下がる。それではこの経験的真理は、仮象に過ぎず誤謬なのかといえば、そうではない。周辺環境を整えるなら、100度の沸騰や0度の氷結の再現は可能であり、その経験的仮説の真を検証できる。とは言え、この地球上の一般的真理が山頂や海面上でその一般的妥当性を欠く事実は、真理の絶対性を考える上で一つの参考事例となる。

 観念論の一つの牙城として相対主義がある。この相対主義では、特定の事象について一方から見える姿と他方から見える姿の双方に軍配を上げる。しかし両者が排他的な真である場合、異なる現象が同時に真として成立する理由を語らない限り、このような玉虫色の軍配は無効である。このとき相手の中に自らと異なる姿を見い出した双方の立場は、自らの真を信じる形で互いに罵り合うこととなる。ただし実際には、この罵り合いは二者の間の罵倒合戦で終わらない。実は両者に対して同時に軍配を上げた相対主義自身も、同じ事象について対立する二者と異なる姿を見い出しているからである。したがって上述の罵り合いは、二者の間の罵倒合戦で終わらずに、相対主義を含めた三者の間の罵倒合戦に拡張しなければならない。もちろんそこで相対主義が正当な形で異なる現象の同時成立を語れないのであれば、そこには三者の視点の全てを説明する第四の絶対主義的視点が登場すべきとなる。近代の自然科学では、視点の相対性を最初から放棄して、基準を決めた絶対主義的視点から語るのが基本である。足場の無い相対主義に対して、足場を定めた絶対主義は、より単純な公理体系を実現するのに有意だからである。冒頭に示したように、地球表面の周辺環境条件を加えて語るなら、山頂での沸点や海水面での凝固点の差異は、差異として現れない。逆に周辺環境条件を加えて語らなければ、例えば山頂の沸点と平地の沸点をともに100度に扱う不合理が生まれる。前者も後者も、異なる沸点の両者、および異なる凝固点の両者を肯定する。しかし前者は絶対主義的視点で両者を理解するものであり、後者は相対主義的視点で両者を理解している。
 近代以前では、自然科学においても天動説に代表されるような地球中心主義が存在し、相対主義もまた天動説の最後の牙城としてティコ・ブラーエによる天動説と地動説の折衷版を生み出している。しかし自然科学における絶対主義的視点は、より単純な公理体系を樹立した側に軍配を上げるのが基本である。複雑な公理体系において誤差の収束を図る場合、複雑化した公理のそれぞれに新たな理由づけが必要となるためである。この点で地動説の勝利は、最初から確定的であった。一方で、複雑な公理体系を維持する気があるなら、相対主義による無謬の世界像を作るのも不可能ではない。ただし相対主義の世界は、対立する双方の視点を折衷しただけの体系である。当然ながら、絶対主義的視点が欠落している以上、それは対立する実体を抱えた平板な百貨全書的体系とならざるを得ない。しかし既に述べたようにこのような体系は、さらに諸矛盾の解決を図るための複雑な公理体系を内包せざるを得ない。煩雑化した公理は、少なくとも人知の側に困難をもたらす。しかし実際には、その煩雑化した人知の現実的適応が、行動局面に物理的困難を持ち込み、場合により行動主体の生存可能性を破壊する。したがって最終的に物理的理由においてその体系は、絶対主義的視点へと漸次に変化せざるを得ないし、ときにその全面改訂を余儀なくされる。
 相対主義の矛盾は、自然科学よりは社会科学、とくに近代の新身分制度における経済利益や民族主義が絡む歴史評価において最も露呈しやすい。良く取り上げられる例では、アメリカ南北戦争の評価が、南部と北部で逆転していることを持って、異なる歴史評価の混在を許容するような歴史相対主義がある。もちろん世界的に見れば、黒人奴隷解放における北部の人倫的優位が、北部中心の南北戦争の歴史評価を定着させている。結果的に南北戦争において南部独立を認めなかった北部の主張が正しいとされ、独立を拒否された南部の言い分は無視されている。これと似た図式は、第二次世界大戦の評価が、日本と日本以外で逆転していることとしても現われている。もちろん世界的に見れば、反ファシズムにおける連合国の人倫的優位が、連合国中心の第二次世界大戦の歴史評価を定着させている。結果的に第二次世界大戦において日本の満州権益を認めなかった連合国の主張が正しいとされ、満州権益の正当性を拒否された日本の言い分は無視されている。もちろん一般に語られる近代史の評価は、戯画的要素を多く含んでいる。連合国側にはスターリンのようなヒットラーを超える独裁者が混ざっていたし、ヒットラーもホロコーストなどの悪業をしなければ、近代史に名を残すであろう辣腕政治家であった。とは言え戦後の植民地独立を背景にした新しい世界秩序から見れば、実際に日本の満州権益は不当なものであるのは確定しており、人権を尊重する民主主義を背景にした国家観から見れば、ヒットラーを筆頭にしたファシズムが悪であるのも確定している。
 勝者を基準にした絶対主義的な歴史評価が持つ困難は、過去の罪悪を問う条件を戦争の敗者にだけ適用することである。逆に言えば、その困難は勝者の罪悪を問わないことでもある。この観点で言えば、第二次世界大戦の敗者の不満は、他者との比較で善行を強制されていることへの愚痴となる。なおその愚痴は、拘留期限の無い善行を永久実践することへの恐怖を背景にして、強制されている善行の真偽への疑問とその分不相応な量の重みにより生み出される。物事には限界が有るように、敗者の忍耐にも限界がある。また真理は、暴力行為の勝敗の彼岸に立っている。したがって先の前提を崩さない限りにおいて、強制されている善行の虚偽を正すべきであり、その善行の量の分不相応さを相手に示す必要がある。ただし肝心の前提を崩すのであれば、第二次世界大戦の敗者は道義的な意味において、真の敗者となってしまう。そして絶対主義的な歴史評価から見た歴史相対主義とは、この肝心の前提を崩す悪しき思想として現れる。そこでは戦争の勝者における現在の罪悪を問わない以上に、戦争の敗者における過去の罪悪が問われないからである。
 なお歴史相対主義は、歴史観の相互統一を不可能に扱う不可知論の一種である。既に述べたように相対主義では、特定の事象について一方から見える姿と他方から見える姿の双方に軍配を上げる。そして両者が排他的な真である場合、異なる現象が同時に真として成立する理由を語らない限り、このような玉虫色の軍配は無効である。そこで歴史相対主義では、異なる現象が同時に真として成立する口実として、歴史観の相互統一の不可能を宣言する。つまりそれは、物自体の認識不可能において、異なる認識のそれぞれを真に扱う。具体的には、アメリカ南部と北部における南北戦争に対する歴史観の差異が容認されるように、歴史相対主義は戦勝国の歴史観と敗戦国の歴史観のそれぞれを容認することとなる。一般的にこの不可知論は、戦争の敗者において自らの過去の罪悪を覆い隠し、戦争の勝者において現在の理不尽な敗者いじめの罪悪を覆い隠す。良く知られているように、過去においてそれらの罪悪はナチズムを生み出す一要因となった。もちろん一つの事実が異なる主体において別様に現れることは、異なる二つの事実の存在を示すものではない。
 ヘーゲルの場合、真理の勝ち抜き戦の勝者が歴史の真を規定した。アダム・スミスにおいて需給均衡が市場価格を決定するのも、ヘーゲル弁証法と似た理屈である。いずれの場合でも真理や価格の規定者は、勝者と敗者、需要と供給のような二元的要素であり、その真理や価格の真の規定者は隠蔽されたままにある。しかし人間世界における軍事力または経済力は、歴史的事実を規定する効力を持たない。言い換えるなら、意識は物理を変える効力を持たない。歴史的事実は、物理的事実として善悪の彼岸に永久不変な姿で鎮座しているからである。したがって一つの真理が異なる主体において別様に現れることは、二元的な力関係において決着をつけられるべき事柄ではないし、また汎神論的な力関係において決着をつけられるべき事柄でもない。したがって求められているのは、一つの真理が異なる主体において別様に現れることの絶対主義的説明だけではない。さらにその説明が、意識を基準にした絶対主義ではなく、物理的事実を基準にした絶対主義になっていることが求められている。物理的事実を基準にした絶対主義から見るなら、意識を基準にした絶対主義と相対主義の間に大きな差異は無く、両者ともに謬見にすぎない。そこにあるのは、意識を基準にした絶対主義が自らの恣意を誇るのに対し、相対主義が自らの恣意に満足するだけの違いである。
(2014/05/12)


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