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唯物論の再構築

ヘーゲル大論理学存在論 解題(2.弁証法と商品価値論(1)直観主義の商品価値論)

2020-03-11 06:38:17 | ヘーゲル大論理学存在論

 マルクスはヘーゲルの弟子を自称しており、彼の書いた資本論も、経済学へのヘーゲル弁証法の唯物論的適用だとも受け取れるし、資本論自体が観念的なヘーゲル弁証法への反論だとも受け取れる内容になっている。特に資本論の冒頭を成す商品価値論は、マルクス自身がヘーゲルに依拠し、ヘーゲルに媚びて仕上げたと述べている。ただしマルクスは唯物論的立場でヘーゲル弁証法を捉えており、商品価値論における価値実体も、意識ではなく物体として、あるいは恣意ではなく物理として扱っている。ここで言う物体や物理としての価値実体とは、簡単に言えば労働力であり、その商品価値論とは労働価値論である。一方でこの唯物論的商品価値論に対抗し、現代の経済学に君臨するのは、観念論的商品価値論としての限界効用理論である。その商品価値論における価値実体は、物体ではなく意識であり、物理でなく恣意である。ただしその観念論は直観主義の系譜にあり、同じ観念論とは言え、直観の弁証法的な展開を要請するヘーゲル弁証法と対立している。以下ではまず、商品価値論を理解する前提としてヘーゲル弁証法の度量論を概括し、その唯物論的適用として労働価値論を把握する。次に労働価値論における観念論的鬼子としての支配労働価値説を通じて、その純化形態として効用価値論を捉え、さらに効用価値論の直観主義的観念論との理論的親和性を確認する。そしてこれらの効用価値論の性格付けに続けて、限界効用理論の虚偽性を暴く本論部分を展開する。


1)ヘーゲル弁証法の基本的な構成

 ヘーゲル弁証法の基本的な構成は、質から量への転化と量から質への転化の二つの運動である。質から量への転化では、並存して現れる質が無限定化して量に転じる。それとは逆に量から質への転化では、無限定に連続する量が限定を通じて質に転じる。この二つの動きは連続することで存在を本質に導き、さらにそれを概念として現実化させる。大論理学存在論におけるヘーゲル弁証法は以下のような展開をたどるものであった。


1a)質から量への転化

 ヘーゲル存在論において存在は質として始まり、脱自の反復を経て自らに無関心な量へと転じる。この最初の質から量への転化では、無限定に現れる存在の波に対して知覚の限定が発生し、切り出された存在は限定存在として現れる。ここでの知覚の限定は単なる衝撃であり、さしあたりそれについて熱や音や色、さらにはその大きさや方向などの質的な意味合いは無い。そのような質的意味合いは、質の形式、すなわち量を必要とするからである。とくに大きさや方向は、時間や空間などの質の形式を必要とする。量を知らない世界では、それぞれの質は無視され、一律の存在者として現れることしかできない。すなわち熱も音も色も一緒くたであり、それぞれただ異なる存在者として並存する。それゆえに量とは、限定存在の無限定な並存である。この質から量への転化を図示すると次のようになる。



形式としての量の始まりは、時間でも空間でもない。時間と空間は、限定存在の無限定な並存から派生する。この限定存在の無限定な並存を可能にするのは、限定存在の脱自である。すなわち脱自が量を可能にする。一見するとこのような脱自は、時間経過を表すように見える。しかしここでの脱自は、無時間的な終わりのない拡がりにすぎない。その拡がりは、並存して現れる質の無限連続である。そのように考えるなら、脱自はむしろ空間的拡がりである。ただし脱自において時間と空間の差異はもともと無い。したがってそれは空間であるとしても、場としての抽象空間である。ちなみに空間と時間の差異は、単純に言えば可視性の差異、煎じ詰めて言えば偶然の有無の差異に依存する。熱や音や色などの差異は、もともとの衝撃に対する受容能力の有無の差異に依存するが、可視性の欠如がそれらの拡がりを時空の混成体にしている。ただしヘーゲルは、さしあたりこのような差異に注視することはなく、単に質的差異一般に対して無関心に限定存在を扱い、その無限連続が量に転じるのを示す。すなわち形式としての量が現れるのは、この場としての抽象空間に限定が現れた後である。なぜならこのような場において質として可能なのは、その被限定の事実だけだからである。すなわち最初に可能な限定存在の質は、「これ」だけである。そして「これ」の連続的出現により量が発生する。「これ」に対するさらなる質的差異が、さらに「ここ」と「今」を現すことになる。つまり空間と時間の差異は、「これ」による限定一般に劣後して現れる。


1b)量から質への転化

 量における無限定な存在は、限定量の大きさをもって自らを限界づける。すなわちその限定量の大きさは、無限定存在の新たな質を表現する。それゆえにこの限定量は質へと復帰し、本質に転じる。量から質への転化について筆者が先の記事で示した図を再掲載すると、量から質への転化は次のようなものである。



上記の図の始まりでは、無限定存在としての量がその限界において限定存在と化している。しかし量は無限定存在なので、限界の先にも実際には量が延長する。上記の図が表現するのは、この限定と無限定の交互の現れが、限定他在を媒介にして量をひたすら延長する運動である。しかしこの量の無限延長も、その無限において収束する。このときに量は形式としての自己を完成し、自らが内に含む質と対峙する。一方でこの量の無限延長の収束は、量の無限性の廃棄である。当然ながらそこには量の限界が現れる。そしてこの限界の現れが、量を限定存在ならぬ限定量へと転化する。限定量を規定するこの限界は、限定量の質である。そしてこの限定量の質は、量の質でもある。例えば限定量としての熱量は、形式としての量を熱座標に変える。また限定量としての色量は、形式としての量を色座標に変える。座標は形式としての量でありながら、限定量を規定する質を表現し、限定量と一体になって量の全体を構成する。それゆえに限定量としての熱と量形式としての熱、または限定量としての色と量形式としての色の間の差異は不分明である。このことは時空の量と質でも、延長と空間、または間隙と時間の間の差異の不分明として現れている。ただしヘーゲルは、質的差異一般に対して無関心な限定存在を目指す。したがってここでの形式としての量も単なる拡がりとしての場を超えることは無い。ヘーゲルが念頭にしている量の純粋形式は、時間でも空間でもなく、数理だからである。それゆえにヘーゲルは、そのまま時空の無規定な場を目指して数論に突き進み、微積分について論じ始める。ヘーゲルは数論の展開を経て量形式を度量としてまとめた後、度量に現れる対象の抽象的限定量の単位を本質として宣言する。本質とは量を媒介にして現れた対象の質である。その質は、対象における具体的な限定量として現れる。例えば顔の構成は、目と耳が二つづつ、鼻と口が一つづつと言うようにである。これらの個別の限定量とその全体は、それぞれにおいて固有な顔の本質である。なお本質として現れる抽象的限定量は、量において最初に現れた具体的限定量と異なる。それは本質に先立つゆえに実存であるが、それが実存であるのは本質と対比される始元存在の姿においてでしかない。むしろヘーゲルは、本質こそが実在だと考えており、仮象や現象にすぎない存在に対して本質から実存を超出する。


2)ヘーゲル弁証法の構図から見た商品価値論

 ヘーゲル弁証法における始元的実体の本質への転化の流れを図式化すると、次のようになる。

   始元的実体(質)→ 量 → 単位 → 本質 → 実存

量とは、並存する始元的実体の質的差異を捨象して現れる質の無差別態である。この量は無差別な質において無限に連続し、その無限な連続において一体である。このことから量は、まるで質の入れ物の如く質料に対峙する形式として現れる。しかしこの一体な量は一つの限定量である。それゆえにこの限定量は、無限な連続に逆らって逆に量を分割する単位として現れる。これにより量は形式としての自らの姿を度量として完成する。本質とは、この度量を媒介にして質へと自己復帰した量である。それは質が描く変動の中に現れる不変の質である。したがって本質もまた一つの質である。それゆえに本質は、固有の変動を持つ不変な質として現れる。ただし本質は、質へと自己復帰した量だとは言え、質と区別される。すなわち両者は別物である。それゆえに本質は一つの質でありながら、質の神髄として質一般に対立する。実存はこの本質が現実に外化したものである。ただしヘーゲルは大論理学でこの実存の超出の説明を存在論ではなく本質論で語っており、ここでは転化構図のおまけに実存を記載している。この弁証法をそのままマルクス商品価値論にあてはめると、その転化構図は次のようになる。

   始元的実体(質)  量      単位   本質    実存
   商品(使用価値)→ 交換価値 → 貨幣 → 労働力 → 労働者

ヘーゲル弁証法に即して商品価値論の弁証法を見ると、そこでは使用価値としての商品が交換価値を媒介にして自らの本質を労働力と捉え、その実存に労働者を見出す。ただし資本論において労働者の超出が描かれるのは、第一巻終盤の本源的蓄積論であり、第一巻冒頭の商品価値論から外れている。ここではこの超出された労働者を転化構図のおまけとして記載している。ここでの交換価値は使用価値の無差別態であり、無限に連続する使用価値の量的拡がりとしてまず現れる。一見するとこのような交換価値は、まだ使用価値の量を表現するだけであり、独自の実在を得ていない。せいぜいそれは、無制限に現れるただの商品塊である。しかしこの無差別で無限な拡がりも、その全体において限界を持つ限定存在であり、一つの実在である。当然ながらこのことは、無制限と思われた商品塊を限定量に変える。この限定量は、量の限界を廃棄しながら拡張を続ける商品塊の随所に現れ。それぞれ異なる大きさの限定量として表現される。またこれらの限定量もそれ自身の内部で諸限界を持つので、それらの限界がさらに限定量の内に分割された限定量を生み出す。これらの限定量は商品である以上、互いに交換されなければならない。そして交換されるためには、商品塊相互のなんらかの同質な量が必要である。その同質な量とは、単純に言えば価値である。商品塊相互は価値の同一においてはじめて交換される。しかしこの価値は、使用価値ではない。これらの限定量では商品の質が捨象されている。加えて商品塊が内に含む商品は雑多であり、商品塊の使用価値の比較はその質においても量においても役に立たない。また使用価値と同様に、この交換価値から商品の外形や物理属性も除外される。そもそも同じ商品同士の交換でさえ既に交換対象の商品相互に価値の不整合がある以上、使用価値や物理姿態は交換価値の名に値するものではない。それゆえにこの商品交換に使われる価値は、使用価値と区別されて交換価値と表現される。むしろこの交換価値の正体は、同じ商品同士の等量の交換であるのに両者の価値的不整合があるときに露わになる。もちろんこの交換価値の正体とは、商品に対する投下労働力量である。しかしここで立ち戻るべきなのは、なぜ投下労働力量が交換価値として現れるのかの問題である。


3)商品の本質としての交換価値

 この商品価値論の転化構図は、マルクス自らが言うようにヘーゲル弁証法に媚びたものである。商品の実存が労働者であるなら、転化構図の出発点も商品ではなく、労働者であるべきだからである。この点については後で述べる。とりあえずこのような理解で商品価値論を見直すと、使用価値の併存が並存形式としての交換価値を生み、商品の本質を労働力として炙り出す流れを一望できる。一見するとここでの理解は、使用価値が交換価値と別物であり、両者の相互通行は無いとする経済学的前提を崩している。ただしこのような前提は、経済学に限られたものではない。もともと質と量はそれぞれ質料と形式として別物に扱われ、両者の相互通行は無いと思われているからである。このような一覧表的悟性認識に風穴を開けたのが、ヘーゲル弁証法である。マルクスはこの弁証法を商品価値論において価値形態論として展開した。そこでは、並存して現れる商品が交換を通じて商品群の中から等価物商品を決定し、それを貨幣に転じる。ただし貨幣自体はまだ度量に過ぎない。しかしその度量の表すところが商品の本質となるはずである。そこでマルクスは、この商品の本質を労働力だと規定して価値形態論を締め括る。このマルクスの締め括り方は、価値形態論の論旨展開から見ると唐突であり、資本論理解における物議の一つとなっている。それがなぜ唐突なのかと言えば、労働力を話題にするまでの価値形態論は、商品交換比の規定者を交換価値と表現してきたからである。交換価値は、貨幣が現れる前から商品交換の規定者であり、実質的に商品世界に君臨する抽象的貨幣であった。現実の貨幣は、この交換価値が物象化したものにすぎない。しかし交換価値の実存が貨幣であるなら、商品の本質も抽象的な交換価値のままで良さそうに見える。実際に商品供給者にとって交換価値こそが商品の使用価値である。それは使用価値の真髄として商品使用者にとっての使用価値に対立する。それならむしろ労働力が商品の本質なのではなく、交換価値こそが商品の本質であり、その実存を貨幣とした方が良さそうに見える。しかしこの見方は、マルクスが依拠したヘーゲル弁証法の論理展開に無頓着に過ぎている。あるいは逆にヘーゲル弁証法が抱えた観念性に執着し過ぎた観念の弁証法に留まる。


4)交換価値としての労働力

 ヘーゲル弁証法における質から量への転化と量から質への転化の転回点は、無限定な量の限定量への転化である。この転化を引き起こすのは、無限定な量の全体が確定する量自身の脱自である。脱自とは量自身が行う原初的な反省であり、ハイデガー式に言えば時間を規定する時間性である。さしあたり単純に言えば、或る時間経過が無限定な量を限定量に変える。すなわち無限に現れる商品塊を一つの商品塊に限定するのは、時間経過である。それゆえにさらに単純に言えば、商品塊の大きさとは、無限な商品塊の現れを一つの商品塊として区切る時間の大きさとなる。もちろんこの大きさは無機質な時間に過ぎない。それは商品塊の物理姿態ではないし、商品塊の表わす使用価値でもない。なるほど等しい時間において現れる商品の質と量はもっぱら反比例する。しかしそのような物理姿態や使用価値の差異も、全てこの無機質な時間の中に呑み込まれてしまう。それゆえにこの時間の大きさは、商品塊の価値だと言われることになる。それでも交換価値を時間だと限定するのは、かなりの単純化である。無限な商品塊の現れを区切る時間とは、商品塊を世に現わすための商品生産時間に等しい。それでは交換価値が時間であるなら、交換価値とは単なる商品生産時間の大きさとなってしまう。ところが一方で等しい時間において現れる商品の質と量は、生産機構の質に規定されている。生産機構の能力が高ければ、等しい時間において現れる商品の質と量は増大し、逆に生産機構の能力が低ければ、その商品の質と量は減少する。商品生産時間を規定するのは生産機構の能力であり、その逆ではない。そして生産機構を構成するのは、直接の労働力または物象化した労働力である。要するに労働力が生産時間を規定するのであり、その逆ではない。それゆえにマルクスにおいて交換価値は、労働時間ではなく量としての労働力量として言い表わされ、商品の本質も労働力とされた。ちなみにこの労働力は、単純な経過時間としての商品生産時間ではないが、時間的単位であるのに変わりはない。労働力に対するこの時間的性格づけこそが、支配労働価値説と投下労働価値説におけるそれぞれの労働力理解、すなわちそれぞれの使用価値的な労働力理解と交換価値的な労働力理解を切り分けている。このことについては次段に述べる。なるほど資本論においてマルクスは、このようなヘーゲル弁証法に関わる文脈を省き、簡潔に商品価値を労働力量と宣言して価値形態論を締め括った。しかしこの簡潔さが無ければ、大論理学におけるヘーゲル弁証法の難解な論述が商品価値論に再現されることになる。そのようなことはマルクスにおいて資本論記述の目的に沿わないはずである。それゆえに資本論における交換価値の労働力規定の簡潔さは、煩雑な論理問題をヘーゲルに依拠し、後は読者の論理的素養に全て委ねたことから起きたのだと考えられる。実際のところ、労働力が諸商品の中から選出されたと考えようと、諸商品の共通要素が労働力だと考えようと、交換価値を労働力として認定するなら、商品論以後の資本論の論理展開に差異は生じない。また資本論発表の時代での労働価値論の主敵は差額略取の重商主義的利潤論であり、交換価値の労働力認定が問題視される素地も無かった。商品価値について労働価値論に対抗して現れる限界効用理論は、資本論の発表を引き金にして台頭するからである。このような時代的背景も、資本論における交換価値の労働力規定が簡潔となった一つの理由だと考えられる。


5)支配労働価値説

 商品の本質は交換価値であり、交換価値とは労働力である。一方でヘーゲル弁証法において本質とは、量を媒介にして自己復帰した質である。つまり本質もまた一つの質である。このような本質の扱いは、本質に対して次のような理解をもたらす。それは、存在において本質が既にあらかじめ質として現れており、本質はこの抽出された質だと捉えるような理解である。この理解に従えば、商品において数々の使用価値がある中に労働力も含まれており、それが抽出されることにより本質となる。この一見するともっともらしい説明は、始元存在にある質と本質を一体化させ、両者の差異を消失させる直観主義を商品価値論に持ち込む。要するにその謬見が言わんとするのは、交換価値と使用価値が同じものだとする結論である。一方で貨幣とは外化した交換価値であり、交換価値の単位的実存である。そして交換価値であるがゆえに貨幣は、使用価値に対する質的無差別性を体現する。それならむしろ労働力ではなく交換価値こそが商品の本質であり、その実存を貨幣とした方が良さそうに見える。その場合に商品価値の転化構図も次のようになる。

   始元的実体(質)  量        単位   本質    実存
   商品(使用価値)→ 代行労働力量 → 価格 → 労働力 → 貨幣

商品において労働力は確かに一つの質として現れる。しかしここで質として現れる労働力は、交換価値としての労働力と異なる。質としての労働力は、商品に憑依した力一般であり、商品が実現する労働サービスとしての労働力である。ただしそれは商品の使用価値であり、ひいき目に見ても商品がこれから実現するであろう労働力量としての労働力である。すなわちそれは、商品生産にあたり商品に投下された投下労働力量としての労働力ではない。この使用価値視点で捉えられた商品は、一種の蓄積された労働力塊である。この商品は労働力の支配者であり、商品使用にあたり蓄積された労働力を放出し、商品使用者を満足させる。要するにこの商品は、ピカチュウのポケモンやウルトラセブンのカプセル怪獣のような代行労働力である。結論を先に言えば、上記に新たに現れた転化構図は、先のマルクス版が投下労働価値説であったのと違い、支配労働価値説の転化構図である。この後に示した転化構図について三つの説明が必要なはずである。必要な説明の第一は、後の転化構図が支配労働価値説の転化構図であることのそもそもの説明である。そして第二は、後の転化構図が支配労働価値説であるとしても、ここには労働力の居場所が実際には無いことである。ただしこの説明は、第一の説明の中に結局含まれてしまう。そして第三は、使用価値と商品量と交換価値の間において質と量と本質の推移が不明瞭なことの説明である。なお上記で代行労働力と表現したものは、支配労働力と同義である。支配労働力と言う表現は、商品が支配可能な労働力量を指す。しかしこれもいまいち判然としない表現なので、ここでは代行労働力と言葉を変えている。


5a)労働価値論の偽装

 支配労働価値説は、労働価値論を偽装しているだけで、実際には労働価値論ではない。投下労働価値説が着目するのは、商品の実現に要する投下労働力量である。それに対して支配労働価値説が着目するのは、商品が実現する代行労働力量である。ただし支配労働価値説による労働価値論の偽装を見破る場合、この代行労働力量を商品の効用として扱うべきである。そうすれば支配労働価値説が効用をそのまま商品価値とみなす理屈だ、とすぐに判明するからである。一見すると支配労働価値説も、代行労働力量において商品価値を語るので労働価値論の如く現れる。ところが支配労働価値説は、実際には効用において商品価値を語ることから抜け出せない。なぜそうなるのかと言えば、この効用としての代行労働力量を規定するのは、代行される労働力量だからである。規定者と思われたものが規定されるなら、真の規定者は規定者を規定するものである。ここではその真の規定者は、代行労働力量ではなく、代行される労働力量である。支配労働価値説は、このことの確認において自らの循環論を自覚し、破綻せざるを得ない。例えばある商品が3日分の労働力を代行し、それをその商品の交換価値とするとする。しかしそれが効用であり得るのは、その商品生産に必要な労働力量が3日未満の場合である。もし商品生産に必要な労働力量が4日だとすると、この商品生産者の仕事は4日をかけて3日分の仕事をする無駄骨となる。この商品生産者は、おそらくある程度の期間をおいて貧窮のうちに餓死するであろう。それでは逆に商品生産に必要な労働力量が2日だとすると、この商品生産者の仕事は2日をかけて3日分の仕事をしたことになる。このような商品は一種の永久機関となる。このときにこの商品生産者は、自らの商品に仕事をさせ、自分と同じ商品を作らせることで富を増大させることができる。ただしこのようなカプセル怪獣のような商品は、二つの商品を除き基本的にこの世に存在しない。その二つの商品とは、一つは労働力商品としての労働者であり、一つは貨幣である。貨幣は自ら支配可能な労働力量を表現し、それを自らの交換価値として宣言する。ただし貨幣が表現する交換価値量は、労働力商品と違い、貨幣自体の再生産のための労働力量を超えることはできない。貨幣自体の再生産のための労働力量を貨幣に対して価値宣言した場合、その貨幣と価値宣言者の両方が最終的に商品市場から排除される。そのような永久機関性は、労働力だけが持つ商品特性である。貨幣は、労働力の擬態商品にすぎない。ちなみに後で述べる土地などの特殊商品も貨幣と同じ特質を持つ商品であり、ここでは貨幣と同列に扱う。


5b)支配労働価値説の純化

 もちろん労働力以外の商品でも永久機関的な商品を作るのは不可能ではない。さもなければ科学技術を先頭にした文化的進歩の全てはただの徒労となる。しかしそれらの商品が持つ永久機関的な効用は、代行される労働力量が代行労働力より大きい限りでのみ存続する幻影である。同業他社の登場により普遍化される科学技術は、代行される労働力量を軽減化し、商品の永久機関的な効用をある程度の期間をおいて無効にしてしまうからである。なるほど科学技術は日々進歩する。しかしこのような一過的な果実だけで経済全体が存立すると説明するのは無理である。もちろんこのような一過的効用がもたらす果実は、マルクス経済学では特別剰余価値として説明されているものである。このような説明上の困難の自覚は、支配労働価値説の放棄と投下労働価値説への移行を促しそうに見える。ところが往々にしてこの困難の自覚は、効用を労働力量と一体化させたことを自らの誤りだとする間違った反省に入り込む。このときに支配労働価値説は、労働価値論の偽装を自らほどいて効用価値論へと純化する。ここでの商品価値は、例えば匂いが良いとか、動きが早いからとか、見栄えがきれいとかの直観的な使用価値へと退行する。なぜそうなるのかと言うと、効用と労働力の間にある齟齬に対して煙幕を貼り直すためである。この煙幕はもともと直観上で効用と労働力の間にあったものであり、労働価値論が除去した煙幕である。したがってこの純化の過程とは、商品価値の使用価値への退行過程になっている。ここで現れる商品価値の本質は、労働力ではない。それは使用価値の本質を成す効用一般、すなわち快感である。それは物体ではなく情念であり、要するに意識である。意識が商品価値を規定すると考えるこの観念論は、恣意を否定して現実に戻ろうとし、再び現実を否定して恣意にもどる動揺を繰り返し、最後は自らの循環論に無自覚なままに価格が価格を規定すると連呼して悦に入る。このときに支配労働価値説の転化構図は、次の転化構図に転換する。

   始元的実体(質)  量     単位   本質   実存
   商品(使用価値)→ 道具性 → 価格 → 効用 → 貨幣


5c)直観主義の商品価値論

 上記の転化構図では使用価値の併存が、それらの道具性に基づいて並存形式としての価格体系を生み、商品の本質を効用として炙り出す。ここで代行労働力の代わりに現れた道具性は、代行労働力の現れ方を不明瞭にするための煙幕表現であり、中身は同じである。ここでの価格体系は恣意的であり、他の価格体系と連繋していない。つまりその価格体系は、個人意識が商品の質的差異を捨象して作り出した数値表であり、個人における効用の点数表である。そして最後に個人は商品を貨幣と交換し、効用に物理的姿態を与える。市場における商品と貨幣の相互交換は、商品価値の社会的承認を表す。それゆえに同じ商品貨幣の相互交換は、効用価格の社会的承認を表すと期待される。そしてこのことが道具性ないし代行労働力を商品価値と断定する根拠となる。しかしこの断定の根拠は、投下労働力量を商品価値と断定する根拠と同じものである。したがってその断定もやはり唐突であり、ただの独断の如く現れる。ただしここでの断定は、投下労働力量の断定よりさらに悪い。貨幣による商品価値の代替を根拠づけるのは、投下労働価値説では貨幣に対する投下労働力量である。これに対し支配労働価値説では、貨幣が表示する代行労働力量が貨幣による商品価値の代替を根拠づける。すなわち貨幣の表示額面だけが、その商品価値の代替の根拠である。このような貨幣は私的な小切手として流通可能であるが、貨幣の支配力の及ばない範囲では貨幣となり得ない。このような価値の私的性格は、貨幣に対して要求される価値普遍性に反する。この転化構図にもヘーゲル弁証法は一応生きているが、マルクスの示した転化構図に比べると個人意識内に閉じた平板でかなり小さい弁証法である。しかもその転化の仕方は、商品が価格表示されることで効用に一元化され、貨幣に置き換わるだけである。商品は使用価値と道具性と価格と効用、および貨幣に姿を変えるのだが、その中身は実のところ何も変わっていない。それゆえに使用価値と道具性と価格と効用、および貨幣は、随意にこの転化構図の中で互いの位置を置き換えることができる。例えば貨幣と効用を入れ替えたり、効用と価格を入れ替えたりしても、おそらくそれらしい転化構図が仕上がるであろう。ここでは電気が稲妻で説明され、稲妻が電気で説明されているからである。そもそも価格は貨幣を前提するのではないのか、または使用価値は効用を前提するのではないかと、いくらでもこの転化構図を疑うことができそうである。そしてこの疑いは、正当なものである。それゆえに効用価値論を突き詰めると、弁証法の停止が到来する。このときの商品価値論は、先験的に使用価値と価格と効用と貨幣を擁立し、擁立した体系からそれらの相関を説明するものとなる。このような説明では質と量と本質の推移が不明瞭になるのは当たり前であり、むしろそのような推移を論じることが不可侵な超越境界の侵犯として糾弾されてしまう。そして往々にして効用価値論は、価格決定の変動要素を羅列して労働力量と価格の相関を分断して価格不可知論を樹立し、果ては自称共産主義体制の没落をもって労働価値論に対して死を宣告する。ただしそれは経済学における直観主義であり、直観を超えようとする理性の思惟を拒否する不可知論である。ちなみに思惟の超越境界の内側の理屈は、思惟の超越に関与しない範囲で有効である。そして形而下学とは、もっぱらそのような学問を言う。このような観点で言えば、経済学は本来そのような形而下学である。それゆえに効用価値論は、形而下学としての経済学からすれば、至極まっとうな理屈であろう。ただしそれは、不可知論を携えた直観主義として効用価値論を理解する限りの話である。逆にそのようなものとして効用価値論を理解する限り、それは自家撞着に無自覚な現象論である。


(2020/01/10) 続く⇒((2)使用価値の大きさとしての効用)


ヘーゲル大論理学 存在論 解題
  1.抜け殻となった存在
  2.弁証法と商品価値論
    (1)直観主義の商品価値論
    (2)使用価値の大きさとしての効用
    (3)効用理論の一般的講評
    (4)需給曲線と限界効用曲線
    (5)価格主導の市場価格決定
    (6)需給量主導の市場価格決定
    (7)限界効用逓減法則
    (8)限界効用の眩惑

ヘーゲル大論理学 存在論 要約  ・・・ 存在論の論理展開全体

  緒論            ・・・ 始元存在
  1編 質  1章      ・・・ 存在
        2章      ・・・ 限定存在
        3章      ・・・ 無限定存在
  2編 量  1章・2章A/B・・・ 限定量・数・単位・外延量・内包量・目盛り
        2章C     ・・・ 量的無限定性
         2章Ca    ・・・ 注釈:微分法の成立1
        2章Cb(1) ・・・ 注釈:微分法の成立2a
        2章Cb(2) ・・・ 注釈:微分法の成立2b
         2章Cc    ・・・ 注釈:微分法の成立3
         3章      ・・・ 量的比例
  3編 度量 1章      ・・・ 比率的量
        2章      ・・・ 現実的度量
        3章      ・・・ 本質の生成


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