唯物論者

唯物論の再構築

唯物論10(意識3)

2012-02-26 13:15:54 | 唯物論

 前の記事(意識2:意識の非物質性と汎神論)は、客体の支配に対する無力感と反発の自覚が、意識に自らと客体の区別をもたらすのを示した。意識がこのような無力感と反発を感じるのは、客体の因果律とは別に、意識には意識独自の因果律が存在するためである。つまり意識が無力を感じる時、客体の必然性と意識の必然性は、互いに対抗し合っているわけである。しかも意識は、そのように客体に対抗する限りにおいて意識であるような存在である。というのは、客体に支配された意識は、単なる物体と自らを区別できないからである。そもそも意識は、為されるがままに存在する限り、意識として現れることも無い。そのような意識があるとしたら、その意識はそこらに転がる石と変わらない存在である。それは主客未分どころか、ただの客体である。
 さらに前の記事は、人間としての意識は、他者への関わりを目指すものとして、自己完結した物体や動物と区別されなければならないのを示した。物体や動物も、それぞれ自らと異なる他者に働きかける。しかし彼らにおけるそのような他者への関わりは、客体に為されるがままの結果にすぎない。そこにあるのは、客体の必然性だけである。したがって彼らにおいて見出される意識性も、人間意識の自己投影、すなわち擬人化にすぎない。それらは、人間としての意識とは別のものである。一方で人間も動物である。しかもほとんどの人たちは、客体に為されるがまま、動物と同様に、客体の必然性に埋没せざるを得ない日々を過ごしている。このような人たちの意識は、上記記述に従えば、人間としての意識ではない。簡単に言えば、このような人たちは、人間ではない。ただしここで言う“人に非ず”は、このような人たちを見下した表現ではない。なぜなら筆者もまた、これらの人たちの一人だからである。むしろこの表現は、人間を動物化させてきた人たちを見下し、人間を物体化させてきた社会を告発するために使っている表現である。

 前の記事の始まりに立てた目標は、客体の支配に対して意識の自由を可能にするものを明らかにすることにあった。そこで明らかになってきたのは、意識の自由の可能性と意識独自の因果律成立が同義だということである。それは、意識独自の因果律を成立させるものが、意識の自由を可能にするのを示している。
 意識独自の因果律を成立させるのに一番簡単な方法は、客体の因果律の破壊、もしくは客体の因果律の無視である。しかし唯物論者は、この方法を選ぶべきではない。というのは、この簡単な方法は、客体支配の排除を自己欺瞞的思い込みで実現しようとする考えと、客体支配の排除を実力行使に訴えて実現しようとする考えのどちらかにしかならないからである。前者の代表は、判断停止(エポケー)や無の分泌を唱えて自己催眠を促す実存主義であり、後者の代表は、行動的唯物論の装いをして現れる脳無し実践主義である。形は違えども両者は、理屈に詰まったところで理屈の破壊、もしくは理屈の放棄を目指す点で同じものである。
 客体の因果律を破壊せずとも、客体の因果律を消滅させる方法は存在する。国家支配が所有関係の消滅に同期をとる形で眠り込むように消滅するように、客体支配も所有関係の消滅に同期をとる形で眠り込むように消滅するからである。国家による人間支配は、国家が人間の生活手段の実質的所有者であるのを条件にする。人間は生活手段を国家に奪われている限り、人間は国家による支配を受け入れるしかない。しかしもし人間が生活手段の実質的所有者となるなら、国家による人間支配は実質的に消滅する。このような所有の無効化は、形式的所有を国家に与えたままでも成立する。全く同じように客体による意識支配は、客体が意識の存在手段の実質的所有者であるのを条件にする。意識の存在手段とは、具体的に言えば肉体であり、肉体を取り囲む家族であり、家族を取り囲む社会的諸関係を指す。一方で客体における意識の存在手段の実質的所有とは、意識の存在手段の破壊を自由に行う力を指す。具体的には肉体を損傷する飢えであり、寒さであり、肉体の家族や社会的諸関係を破壊するような各種の弾圧であったりする。客体にそのような力がある限り、意識は自らの存在手段の実質的所有者ではない。意識は存在手段を客体に奪われている限り、意識は客体による支配を受け入れるしかない。しかしもし意識が存在手段としての肉体の実質的所有者となるなら、客体による意識支配は実質的に消滅する。このような所有の無効化は、形式的所有を客体に与えたままでも成立する。そして実際に人間は、食料や衣服の計画的生産を通じて、客体による意識支配を消滅させてきた。
 客体による意識支配の消滅は、客体の因果律の消滅を意味する。またそれは、意識独自の因果律の成立を意味する。それは意識の自由の現実化でもある。このとき意識が従うのは、自らの因果律だけである。客体の因果律が消滅するまでの間、意識は存在し得なかった。既に示したように、自由ではない意識は、意識ではないためである。このときの意識は絵に描いた餅のようなもので、せいぜい可能態でしかなかった。しかし客体の因果律が消滅すると、いきなり意識は現実態となる。それまで肉体に一体化していた意識は、ようやく初めて意識として現象するわけである。この意識は、生まれ出た時点ですでに、客体の支配に対して自由な存在として出現する。

 この考察の始まりは、客体の支配に対して意識の自由を可能にするものを明らかにするというものであった。それに対して上記で筆者は、客体による意識支配の消滅が意識の自由を可能にするものであり、具体的には飢えや寒さ、または家族や社会的諸関係を破壊するような各種の力の無効化がそれに該当すると考えた。またそれは意識の自由を可能にするだけではなく、意識自体を可能にする唯物論になっていると、筆者は考えている。しかし上記の記述は、客体の支配に対する意識の自由についての考察として不十分である。というのは、必ずしも客体としての自然や社会の力が、意識の存在を不可能にするわけではないという事実が存在するからである。例え飢えと寒さに苦しんでいても、人間的意識は別世界の美を夢想し得る。もちろんその意識も、どこかで客体支配からの離脱を果たしてきたものとも考えられる。ところがその先にも、やはり客体支配から既に自由な意識が登場しそうである。そのような想定は、客体支配の無効化と意識出現の両者の間での、鶏と卵の親子競争の観を呈している。一方で、客体の力の無効化は意識自由を可能にするだけでしかなく、意識自由の現実化にはさらに検討を要するのも事実である。さらに課題となっていた人間概念の検討についても、人間と物体の区別を考察をした程度に留まっており、不十分なままになっている。
(2012/02/26)


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