唯物論者

唯物論の再構築

唯物論5a(仮象と虚偽)

2014-09-06 17:19:47 | 唯物論

 仮象とは、その表現する内容が実体に整合しない現象のことを言う。唯物論で考えるなら、例えば現象としての半月はそのような仮象に該当する。半月の見かけは、球体としての月の物理的実体と姿が整合しないからである。しかし現象が物理的実体ではなく、理念的実体に整合しない場合、それは仮象と呼ばれる以前に、虚偽として現れる。なぜなら理念的実体は、現象の真偽判定に使われる真理マーカーだからである。この真理マーカーは物理的実体ではないが、物理的実体から派生して意識に陣取り、物理的実体を代替する。したがって月を半月映像基準で理解するなら、理念的実体も半球の姿で現れる。同様に月を満月映像基準で理解するなら、理念的実体も全球の姿で現れる。もし月の理念的実体が全球である場合、半球の月は理念的実体と内容が整合しない。したがって半球としての月の理解は、半月の見かけが仮象だとみなされたのと違い、今度は虚偽だとみなされる。もちろんここで言う理念的実体とは、対象の概念のことを指している。
 虚偽は感覚上の錯覚であるより、むしろ概念上の錯覚である。そしてそれは、悟性認識上の誤謬として積極的に否定されるべき仮象である。一方でもともと仮象は感覚上の錯覚のことであり、その限りで悟性認識上の誤謬ではない。そのような仮象は、せいぜい物理的実体との対比で虚偽として現れ得るだけであり、基本的に虚偽ではない。むしろ弁証法は、そのような仮象を低水準の真理として積極的に許容する。そこでの虚偽と仮象の区別は、概念のあり方に左右されている。例えば半月の見かけは、月の概念がそれを低水準の真理として許容する限り、特段の虚偽ではない。実際に半月は、月の物理的実体の一つの現れであり、その映像自体は最初から感覚上の真理を得ている。半月が虚偽として現れるのは、半月の物理的実体を見えたままの半球として理解した場合に限定される。このようなヘーゲル弁証法における真偽判定の理解は、一般論として考えるなら、おおよそ妥当なもののように見える。しかしこのようなヘーゲルの理解水準に対して、唯物論や実存主義は真偽判定の観念性を嗅ぎ取ることになる。実際そこに見出せる観念性は、かなり重大な局面において真偽判定を冤罪に変える危険を抱えたものだからである。

 唯物論において概念は、物理的実体が意識に反映したものである。したがって本来なら物理的実体と概念は、同じ内容を表現すべきである。ところがそもそも概念は有限存在であり、物理的実体が体現する無限な属性の全てを取り込むことができない。当然ながら概念の満たすべき要件は、物理的実体の特徴的な属性だけを取り込むことになる。そのように物理的実体と一致しない点で、概念はそもそも自らが仮象でさえある。さらに概念において物理的実体の意識反映に誤りが混入するなら、概念は物理的実体と同じ内容を表現することができない。とくに紆余曲折を経て成立してきた概念を考える場合、その紆余曲折の歴史性においておそらくそれらの全ては、概念として最初に登場した時点で既に間違いが混入していたのではないかと見込まれる。例えば古代世界では、地表は球状ではなく、平たい円盤だったようにである。ところが最初に登場する概念は、自らと物理的実体との差異を自覚できない。概念が自らとの差異を確認するための物理的実体は、まだ自らと等しい姿で現れているからである。しかも困ったことに概念とは、間違っているなりに自らを真理として申告する権利を持つものである。つまり最初に半月映像を基準にして月が半球として理解されたなら、その半球としての月の概念は、逆に全球としての月の概念を虚偽として扱う権利を得ている。しかもこの間違った半球概念の傲慢は、それだけに留まらない。今度は自らに似た半月さえも仮象ではなく実像として宣言し、満月を仮象へと格下げする。概念の不遜は、歴然とした事実を逆に虚偽にまで扱う事態を招くわけである。ところがこのような恐るべき事態は、真理基準に概念と言う理念的実体を設定した段階で、もともと常に発生可能なものである。またそのような例は、実際にいまだ世界の至るところに、例えば歴史評価や領土問題の対立のような形で発現している。それらの事象で事態の解決を阻むものは、物理的実体から遊離した概念である。すなわちそこに登場する捏造概念の出生地は、物理的事実の中ではなく、人の意識の中にある。人間は、物理ではなく意識の側に現象の規定的優位を与える限り、意識によるこのような冤罪の誘発を防止できない。
 上記の月の概念の例で言えば、最初に半月映像を出発点をして半球の月が概念として擁立されたとしても、次に満月映像を基準にした全球の月が対抗概念として擁立される事態は必ず到来する。この全球としての月の概念は月の満ち欠けに応じて生まれるかもしれないし、望遠鏡による月の確認において生まれるかもしれない。いずれにせよ間違った半球としての月は、後から擁立される全球としての月と余儀なく対立を迫られる運命にある。しかし既に述べたように、先行して擁立された半球としての月は、後から擁立された全球としての月を虚偽に扱う権利を持つ。この限りで先行概念が常に優位であるのは変わらない。ただし二つの概念の対立が、概念擁立の順序関係で決着せず、概念擁立者相互の力関係で決着したとしても、事実捏造の危険性にそれほどの変化は起きない。異なる概念同士の確執とは、常に異なる意識の間の相互対立にすぎないからである。発言順序の先行後続関係は物理的事実を変える力を持たないし、発言者間の軍事的勝敗も物理的事実自体を変えたりできない。人間の意識にそのような権利があることを是認するのは、結局のところ真理の不在を容認することと全く同じである。
 すぐ判ることだが、半球としての月がそのまま自らの真性を維持しようとするなら、その概念は常に月が全球として現象する謎に答える義務を持っている。そしてこの謎に答えることができない限り、実際には半球としての月は、後から擁立される全球としての月に打ち勝つことができない。なぜなら満月映像を基準にした全球の月は、月の満ち欠けのたびに、または望遠鏡による月の確認のたびに、繰り返し天からの福音のごとく半球としての月の概念を責め立てるからである。そしてそれは潮の満ち引きが浜辺の砂の城を瓦解させるように、半球としての月の概念の瓦解をもたらす。すなわち月の概念は、最終的に全球としての月へと落ち着かなければならない。と言うのも、半球の月が満月として現れることの説明は、全球の月が半月として現れることの説明よりも、もともと多くの困難を持つからである。そしてこれらの困難が示しているのは、要するに真理を規定するのは異なる意識の間の力関係ではなく、月の物理的実体だと言うことである。もちろんそれでも半球の月が満月として現象するような理屈を立てるのは、おそらく可能であろう。ただしここでは、そのような半球概念の弁護論を検討するのを省かせてもらう。実際には、半球概念の弁護論の説明上の困難を承知で、半球をあたかも月の物理的実体であるかの如く扱おうとするなら、結局なんらかの形で人の意識の継続的介在が必要だからである。もともと視覚機器に対して満月を見せつけ、意識に全球の月を擁立させるのは、単なる物理の力にすぎない。この物理に対抗して意識が半球の月を維持する方法は、意識による自己欺瞞だけである。もちろんそれは、満月を見る他者の意識を操作する場合でも同じである。満月を見た他者の意識をあたかも半球の月を見たかのように操作するなら、肝心の操作者の意識自身があたかも半球の月を見たかのように自らを騙す必要がある。しかしいかなる悪人も神の視線から逃れられない。自己欺瞞の最大の告発者は、真理を知るおのれ自身だからである。自ら承知の嘘を百万回唱えたところで、嘘が本当になることは無い。一方で全球の月が満月として現象するときに、このような人の意識の介在は不要である。だからこそ月の物理的実体は、半球ではなく全球でなければならない。このような唯物論の現象判断の骨子は、現象から意識の介在を排除し、その排除後に残った対象を実体として認定することにある。このような唯物論的な現象判断は、一見するとフッサール流の判断停止と同じに見えるかもしれない。しかし現象学の実体判断が単なる実体遡及の断念として現れるのに対し、唯物論の実体判断は実体遡及の完了として現れる点で全く異なっている。結局のところ理念的実体は、物理的実体を代替するだけの単なる真理マーカーなのである。そして一方の物理的実体とは、真理マーカーではなく、真理それ自体である。

 ヘーゲル弁証法の観念性に対する実存主義的批判は、上述のような唯物論的批判とほぼ同じ形式で現れる。実存主義においても概念は、現実存在が意識に反映したものだからである。言い換えるなら、実存は本質に先立つからである。ただし実存主義における現実存在は、唯物論における物理的実体ではない。もちろんそれは、本質を基礎づけるような実存であるが、むしろ客観を基礎づけるような主観であり、さらに言うなら概念を基礎づけるような情念として現れている。いずれにせよここでの現実存在は、物体ではなく、意識である。先に述べたように、唯物論がヘーゲル弁証法に嗅ぎ取った真偽判定の観念性は、簡単に言えば事実が意識に屈服させられることの危険性であった。しかし唯物論との比較で言うなら、実存主義がヘーゲル弁証法に嗅ぎ取る真偽判定の観念性とは、主観が客観に屈服させられることの危険性である。もちろん実存主義がそのことになぞらえている図柄は、覚醒した単独者が愚鈍な世俗に屈服させられる姿である。唯物論と実存主義は、多くの部分でヘーゲル弁証法に対する批判を共有する。しかし現象の規定的優位に何を措くのかと言う根本において、両者は全く対立している。
(2014/09/06)


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