唯物論者

唯物論の再構築

唯物論14(人間2)

2012-06-30 15:21:51 | 唯物論

 唯物論において真理が存在するという確信は、意識を離れて独立した客観的な現実世界が存在していることの確信であり、動かしがたい事実として物質が意識を規定するという信念である。言い換えれば、唯物論とは物質の独立自存、および物質の意識に対する規定的優位をアプリオリに認めるという信仰なのである。一般にこのような物理的事実に帰依する意識は、コペルニクスに代表されたような、科学者の良心とみなされている。したがって唯物論における物質の果す位置は、宗教における神の果す位置とそれほど変わらない。唯物論と宗教は、どちらも真理の独立自存、および真理の意識に対する規定的優位をアプリオリに認める点で、意見が一致している。唯物論者は、現実世界の真理が人間に自ら歩むべき道を導くと確信する。一方の宗教者もまた、神の慈愛が人間に自らの魂の救済の道を導くと確信している。この意味で両者の対立は、異なる神を擁立したことに起因しただけの、宗派対立の一種にすぎないという把握も可能である。もちろん唯物論は真理を迷信とダブらせることをしないし、宗教は真理を物体とダブらせることをしない。唯物論と宗教の宥和を狙った唯一の哲学的例外として、神即自然とみなしたスピノザの機械的唯物論もあるが、実際には唯物論と宗教は、真っ向から対立した関係にある。
 唯物論における現実世界の実在の確信は、唯物論に性善説をもたらす。現実世界は善悪の彼岸にあり、善悪を見出す場所は人間の中にしかない。もし人間が悪であれば、正義は人類の死滅を要求することになる。それは人間にとって明らかに不合理である。このために唯物論において性善説は、人間の本性理解に対してアプリオリに要請された理屈として現われる。逆に宗教における神の実在の確信は、宗教に性悪説をもたらす。なぜなら神は絶対的に善であり、悪を見出す先は人間の側にしかないためである。このために神の世界において人間は、常に脇役として現われる。世界の主役は神であり、神にとって人間は哀れな罪人なのである。筆者は、宗教の性悪説としてユダヤ/キリスト教の原罪伝説を念頭にしているが、フロイトのエディプス・コンプレックス、さらに実存主義の頽落理論の類も同じものと考えている。
 なお筆者は、マルクスとエンゲルスの性善説を、真理の勝利を確信した信仰として見る限りで、長所であって欠点だとみなさない。彼らは人間の善性を、妥協において労働者の善性に移植した。しかし労働者は明らかに資本主義社会の圧倒的な多数者であり、彼らの妥協はそれほど問題とは言えないからである。

 マルクスとエンゲルスにおいて、労働者階級は真の人間である。そして労働者は無条件に善である。労働者は無産者であり、失うものを持ち得ない。労働者におけるこの無所有の運命は、当人の意志と無関係に、労働者をいかなる誘惑からも強制的に解放する。彼らの無所有は、彼らの属する階級の逃れられない歴史的役割となっている。この歴史的役割が労働者に対して与える使命は、人間的真理の実現である。
 このような労働者観は、大時代的かつ理想主義的であり、あまりに労働者を美化し過ぎに見える。ただしマルクスとエンゲルスの労働者観は、単なる労働者への同情や共感に依拠したものではなく、唯物弁証法からの哲学的要請に従っている。唯物論において社会機構とは、経済を含めた社会的諸関係の調整システムであり、究極においてその物理的諸関係を成立させるための構造や理屈を指す。もっぱらこの構造や理屈は、階級社会において支配階級の存続を目指しており、その目的のために事実さえも捻じ曲げ、必要とあれば事実を消去さえする。真理が支配者によって消去されたのであれば、消去された真理は被支配者の中に自らの居場所を見出すしかない。このために労働者階級は、支配され虐げられているというその運命において、単なる被支配者ではなく、真理を具現する宿命を持たされる。つまり階級闘争理論とは、現実世界における真理の具現という自然の弁証法を示した理屈なのである。
 もちろん実際には被支配階級が、自らの正義を誇示するために、逆に事実を捻じ曲げる場合もあるはずである。しかしマルクスとエンゲルスは、敢えてそのことを不問にしている。労働者はその無所有において、事実を捻じ曲げるためのいかなる要請からも、自由だとみなされたからである。またそのように扱わないと、階級間の力関係において善悪が決定されることとなり、さらには事実までが力関係で決定されるという別の非合理が生まれてしまう。この非合理を受容した場合、現実世界における異なる事実の並存とは、事実と虚偽の並存ではなく、異なる意識の並存であるほかにない。それは実質的な事実の不可知宣言である。そのような不可知論は、世界に厳然たる事実、つまり真理が存在しないというニヒリズムをもたらす。それは、観念が世界を規定するだけの、事実上の観念論である。マルクスとエンゲルスの考えでは現実世界自らが、この非合理を避けるために、社会を二分して対立する階級の片側に真性を集約させる。しかしその考えは、半ば消去法的な選択であり、妥協でさえある。彼らは分裂した社会の片側、すなわち労働者に人間の未来を託したと言うべきであろう。それは、労働者の運命に人類の運命を重ね合わせるという妥協、さらには真実の運命を重ね合わせるという妥協なのである。そしてこの妥協に真性をもたせるべく、マルクスが半生をかけて挑んだ著作こそが資本論だったのである。

 残念ながらと言うべきか、マルクスとエンゲルスにおける理想化された労働者と違い、現実の労働者は無産者ではない。とくに現代先進国の労働者は、マルクスとエンゲルスの時代と違い、わずかとはいえ生活私財を有し、形式的とはいえ雇用も保証されており、自らが所属する国家との関係も一方的な支配隷属関係では既に無い。また労働者が無産者であるとしても、労働者が人間である限り、労働者は既に肉体を所有している。つまり人間は、抽象的意識ではない以上、無所有になるのは不可能である。むしろ極貧の労働者は、極貧であるがゆえに、わずかな所有を目指して一般的な労働者と対立せざるを得ない。したがって労働者の無所有は、労働者を宗教的聖人に変えるものではない。
 なるほど支配者の側に人間的真理は存在しない。しかし被支配者の側にも人間的真理が存在しないとすれば、階級闘争理論は自らの闘争の始まりで頓挫してしまう。マルクスの予想では、資本主義社会は、貧者の大量発生による所有の一極化、および階級の二分化を通じて、自らを純化させる。明らかに彼は、資本主義での人口の階級分化において、善悪の人倫的分化が同時に起こると考えている。ところが現実世界の運動は、マルクスの予想とかなり違う。資本主義社会は、自らの純化と本源的蓄積の再始動という対立した二つの動きを内在させながら、それにより生産力発展の桎梏となる諸問題を隠蔽する形で成長を続けたのである。マルクスの予測は的外れに終わった。ただしそれは、資本主義的所有の問題消滅を示すものではない。つまりマルクスの予測が外れたことそれ自体は、共産主義に致命傷を与えるものではない。ところが労働者の性善説は、予想外の変貌を遂げ、意外な形で共産主義に致命傷を与えることとなる。レーニンが自ら主張する外部注入論によって、マルクスの労働者革命論を前衛党革命論へと転換したためである。
 レーニンは外部注入論において、労働者の性善説を前衛党の性善説にすり換えた。しかし前衛党が絶対的に善であるなら、悪を見出す先は人間の側にしかない。この意味でレーニンは、共産主義を実質的に人間の性悪説へと転じた。人間の性善説を労働者の性善説へと移植したマルクスに倣って、レーニンは労働者の性善説を前衛党の性善説へと移植しただけのつもりかもしれない。しかしレーニンによる前衛党の絶対化は、ロシア革命を変質させ、ロシアに激しく人間を憎む地獄の収容所国家を生み出した。しかもレーニンは唯物論的楽観論を自己都合に合わせて理解している。旧時代の共産主義者は、生産手段の国有化を背景に置けば後はどうにかなると楽観的に考えており、レーニンもこの共産主義特有の唯物論的楽観論を心の励みにして、目的は手段を浄化するという悪魔の囁きを実践した。結果としてロシア革命では、革命が自己目的化し、その革命後の社会では、常に人間が革命に劣後した。言い換えれば、目的が手段に劣後したのである。この意味で、レーニン主義は、共産主義というよりも、革命第一主義だったのである。

 マルクスの予測では、資本主義の先進国で共産主義革命が勃発するはずであった。そしてこの予測を支えたものが、唯物史観であった。ここでの人間論から外れた話題となるが、レーニンがロシア革命によって打破したのは、この唯物史観そのものである。ロシア革命は、共産主義から唯物史観を追放し、代わりに資本主義的所有と関係の無い革命史観をすげ替えた。このような革命理論では、革命をもたらすのは軍事技術の優位であり、革命の正当性も単なる被支配者の怨嗟の上に措かれた。端的に言えば、革命は意識により産み落とされたわけである。ここで言う革命史観とは、具体的に言えばトロツキーの永続革命論を念頭にしている。レーニン主義がロシア革命を実現して以後、もっぱら資本主義的所有の問題と異なる次元で、共産主義革命が勃発するようになった。毛沢東やカストロ、さらにはポルポトなどがレーニンの隊列に続いた。しかし困ったことにいずれの革命でも、ロシア共産主義における人間が革命に劣後する構図が再生産されており、今ではそれこそが共産主義とみなされている。共産主義革命に限定して言えば、自ら起こした破壊を凌駕する成果を上げた暴力革命は、残念ながら今のところ無い。そもそも暴力的共産主義革命が生みだした国家で、まともな社会主義国家に育った例そのものが無い。このような世界史的教訓から言えば、今のところ、あるいは将来にわたっても、先進国において暴力的共産主義革命が必要とされることは無いように見える。
(2012/06/30)


   唯物論      ・・・ 総論
             ・・・ (物質と観念)
             ・・・ (素朴実在論)
             ・・・ (虚偽観念)
   哲学史と唯物論
             ・・・ 対象の形式
             ・・・ (存在の意味)
             ・・・ 対象の質料
             ・・・ (唯名論と実在論)
             ・・・ (機械論と目的論)
             ・・・ カント超越論
             ・・・ (作用因と目的因)
             ・・・ (物理的幸福と道徳的満足)
             ・・・ ヘーゲル弁証法
             ・・・ (仮象と虚偽)
             ・・・ (本質と概念)
             ・・・ 現象学
             ・・・ (情念の復権)
             ・・・ (構造主義)
             ・・・ (直観主義と概念主義)
             ・・・ 弁証法的唯物論
             ・・・ (相対主義と絶対主義)
   唯物論と意識
             ・・・ 関わりへの関わり
             ・・・ 意識の非物質性と汎神論
             ・・・ 意識独自の因果律
             ・・・ 自己原因化する意識
             ・・・ 作用主体と作用対象
   唯物論と人間
             ・・・ 猿が人間になる条件としての自由
             ・・・ 性善説
             ・・・ 意識と自由
             ・・・ 人間の疎外
             ・・・ 状況と過去
             ・・・ 無化と無効化
             ・・・ 因果と動機(1)
             ・・・ 因果と動機(2)

唯物論者:記事一覧


コメントを投稿