唯物論者

唯物論の再構築

唯物論7(弁証法的唯物論)

2012-02-13 00:45:25 | 唯物論

 ヘーゲル弁証法が現象を対象の単なる一つの断面として扱ったのに対し、現象学は現象を認識主体が対峙する対象そのものとして扱う。例えば、月は地球にその裏面を見せないが、その実体は裏面をもっている。ヘーゲル弁証法なら、地上から見た月はその裏面を隠した一面的現象にすぎない。しかし現象学なら、その裏面の無い月こそが、地上の人類にとっての本来の現象である。文学的とも見えるこの現象学の考え方は、認識における現象と真理の一致を可能にする唯一の方法である。もちろんヘーゲル弁証法でも、現象と真理の一致は果たされている。しかしその一致は、意識に陣取る古い真理と、直観が指し示す新しい真理との間の戦いで、新しい真理が勝利した後にようやく実現されるものである。古い真理が勝利する場合は、直観が指し示す新しい真理は虚偽に扱われる。実際にはヘーゲルにおける絶対理念は、この意識に陣取る古い真理にすぎない。一方で弁証法的唯物論における物質とは、この直観が指し示す新しい真理である。この新しい真理が体現するのは、概念に対抗する直観であり、一般に対する個別であり、観念に対する事実である。このことは、現象学と唯物論の両思想は、その哲学体系が全く異なるにも関らず、出発点が同じであるのを示している。

 カントも含めた懐疑主義は、認識主体それぞれの直観における対象の現れが同じではないのを理由に、現象の虚偽性を訴えた。しかし認識主体それぞれにおける対象の現れは、相互に異なったにせよ、認識主体それぞれにとって真理である。このことから認識主体それぞれの真理を積分する形で、対象の概念を生成するヘーゲルの考えが生まれた。しかしその一般化された概念の真理は、本来の真理ではない。それは認識主体それぞれにとっての真理と別物である。また同じ認識主体であっても認識主体の状態が異なれば、直観における対象の現れは同じではない。このことから認識主体それぞれの在り方の真性に従う形で、対象の真理を占う現象学の考えが生まれた。しかしその異なった現象でさえも、やはり認識主体の各状態それぞれにとって相変わらず真理なのである。
 現象学の考えでは、対象の真理は認識主体と常に連携する。それどころか現象学は、認識主体が対象の真理を創造すると考えている。例えばサルトルは、ヘーゲルにおける超出という表現に創造的意味合いをかぶせた。結果的に過去さえも意識の創造物になった。これはサルトルに限られた傾向ではない。そもそものフッサールの現象学が、現在を過去から切り離し、意識の完全自由を謳った独我論である。実存主義は、現象学が持っていた独我論的性格に能動性を追加しただけである。もちろんこのように認識対象を認識主体の一部に扱うのは、認識主体の傲慢でしかない。認識主体と認識対象の連携を説明するのに、このような独我論は不要である。ただ単に認識対象を、全ての認識主体に対し、そのそれぞれに向けた自らの顔を見せる百面相に扱えば良い。
 この見方はヘーゲル弁証法における絶対理念への回帰にも受け取れそうである。しかしヘーゲル弁証法と違って、この見方における真理は、意識に陣取る古い真理ではなく、直観が指し示す新しい真理である。したがってこの見方の真理は、むしろカント超越論における物自体への回帰に受け取れそうである。しかしカント超越論と違って、この見方における真理は認識主体に対して自らを現わしている。したがってこの見方の真理は、よほどヒューム経験論における印象に近い。ただしヒューム経験論と違って、この見方における真理は即自存在する客体、すなわち物質を指している。
 したがって認識主体それぞれの直観における対象の現れが同じではないことも、相互に異なるその現れが認識主体それぞれにとっての真理であることも、また認識主体のさまざまな状態での直観における対象の現れが同じではないことも、認識対象となる物質の方がその全ての責任を請け負う。物質とは、認識主体に相応する新しい姿で、直観に自らを現わすような、意識の他在である。
 色は、対象の表面の形状や光の強さや光線の波長、さらに認識主体の視覚構造によりその現れが変化する。そのことをもって観念論は、色を対象から切り離そうとする。しかしそれでは、色がそもそも何によって根源的に基礎づけられていたのかが謎になってしまう。簡単に言えば、色とは対象自体の属性なのである。唯物論者は、それを前提にした上で、認識対象と認識主体の関係から色の変化を説明する。もし対象がスクリーンのように白であるなら、その対象は光線の色をそのまま反映した色を見せるであろう。しかしそれこそが対象のもつ白という色なのである。また対象が無色透明であるなら、その対象は光線を通過させ、色を見せないかもしれない。しかしそれこそが対象のもつ無色という色なのである。

 現象学と同様に弁証法的唯物論でも、対象の真理は認識主体と連携する。ただしその連繋は、現象学では意識の側に規定的優位があったのに対し、弁証法的唯物論では物理の側に規定的優位がある。したがって現象学では対象の真理が認識主体に従属しており、認識主体なしに対象は存在しないのに対し、弁証法的唯物論では対象の真理は認識主体から独立しており、認識主体なしでも対象は存在する。現象学では認識主体が日常性へと埋没するのに応じて、現象は真理から遠のいていた。その日常性への埋没は、意識の先験的構造が引き起こすものであり、意識の決意だけが真理の回復を可能にしている。しかし弁証法的唯物論において真理の回復を可能にするものは、認識主体の自由だけである。真理は自由を失った認識主体に対して、そのありのままの姿を見せず、ときとして歪んだ仮象を与える。判り易い言い方をすれば、利害関係に拘束された認識主体には、利害関係に拘泥した真理だけが与えられる。極端な場合、不自由な認識主体は、真理を認識することができない。基本的にこの認識主体の自由は、認識主体の生存保障を前提にする。したがって仮に真理認識が認識主体の生存を脅かすのでれば、認識主体が真理認識から自ら逃避するような非合理さえ発生する。実存主義における日常的現存在が、意識の先験的構造において自ら堕落していたのに対し、弁証法的唯物論における人間は、敵対者からの圧力において否応なしに堕落へと追い込まれている。当然ながら失われた真理の回復も、人間が自由を回復するのを前提にする。しかし人間が自由を回復するためには、あらかじめ人間に真理認識が可能でなければならない。つまりここには、人間が真理認識をする条件として真理認識を必要とするジレンマがある。この入り組んだ課題を解くための古典的な手法は、認識主体の脱俗である。つまり婚姻を含む全ての社会的紐帯と欲望を断ち、超然として仙人の如く対象に対峙する手法である。簡単に言えばそれは、認識主体が無所有になることである。これと同様に、かつて共産主義が無産者としての労働者階級に期待したのは、強制された無所有において自らの歴史的役割を果たすことであった。弁証法的唯物論における人間の歴史は階級闘争の歴史であるが、この階級闘争の哲学的な位置づけは、人間による自らの真理回復の戦いである。したがって過去における階級闘争で被支配者が戦っていた相手も、実際には支配者として物象化した虚偽にほかならない。すなわち労働者の歴史的役割とは、支配者に奪われた自由を取り戻し、失われた真理を人間の内に回復することである。ただしここで問題なのは、無産者としての歴史的自覚が労働者に自由をもたらすと考えたかつての共産主義が抱えた楽観である。その楽観の最大の困難は、労働者が失うものは鎖だけであり、無所有こそが労働者に自由にもたらすと考えた独特の逆説にある。実際には強制された無所有は、自ら臨んだ脱俗と同じものではない。貧民による暴力革命は、フランス革命にしてもロシア革命にしても、革命後に起きた虐殺のテルミドールを避けられなかった。これらの革命は、いずれも確かにそれなりの成果を残している。しかし流れた血の多さに比して得たものは、あまりにも少ない。またその後に起きたいずれの貧民革命においても革命主体の抱えた無所有は、粗暴で無教養な暴力の素地になっており、革命を堕落させる大きな要因になっている。経済発展の桎梏と化した旧支配体制は、その悪しき支配において自らを滅ぼしただけではなく、革命主体の側にもさらに旧時代の汚泥を復活させたのである。結局のところ無所有の認識主体は、無所有ゆえにさらなる利害関係に拘泥した真理を与えられたのである。無所有に自由を見出す発想そのものが間違っていたのである。
(2012/02/13初稿 2014/10/10改訂)


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