唯物論者

唯物論の再構築

唯物論12(意識5)

2012-03-03 16:51:29 | 唯物論

 意識は、作用主体による作用対象への関わりを目指すものである。ここでの作用主体とはもっぱら意識の宿る肉体であり、また作用対象とは意識が相手にする世界である。しかし意識にすれば、作用主体も作用対象も自分ではない。それらは意識以外のものであり、すなわち物質である。つまり自らの眼下に陣取る肉体も、今それを見ている自分と別物である。しかしこの判断の正当性は、意識が自由である間にだけ成立する虚しいものである。というのは、肉体を傷つけると、その痛みが続く間、意識は客体の支配下に入る形で消滅してしまうからである。このとき作用主体を襲う苦しみは、自由と無関係な物理作用にすぎず、意識ではない。似たようなもので意識を探すとするなら、肉体の傷が癒えた後の後悔が、意識に該当するかもしれない。しかし後悔にしても、対象化された苦しみに支配されており、意識ではないとも考えられる。いずれにせよ意識とは、敵が現れるまでは勇ましいのだが、敵が現れると消えてしまうような、か弱く情けない存在なのである。
 苦しみが意識ではなく、後悔さえも意識ではないとすれば、それらは作用主体か作用対象に分類されるべきである。結論から言えば、それらはまず作用主体に分類されるべきである。一方でこれまでこの考察は、作用主体をもっぱら肉体に扱ってきた。その扱いで言えば、苦しみも後悔も肉体に属することになる。一見するとこの分類は、不自然に見えるかもしれない。しかし苦しみや後悔が関わりの原因として現れ、関わりを目指すものとしての意識を生む限り、この分類は正当である。同様に、意識の所与として現れる全ての存在者は、関わりの原因として現れる限りで、作用主体に分類されるべきである。それは目の前にあるパソコンでもあり得るし、聞こえてくる車の走る音でもあり得るし、襲ってくる睡魔でもあり得るし、老いた体の痛みでもあり得る。したがって現象する世界の全てが、作用主体になり得る。
 次に苦しみや後悔は、除去対象として、作用対象でもあり得る。これまでこの考察は、作用対象をもっぱら意識が相手にする世界に扱ってきた。その扱いで言えば、苦しみや後悔もこの世界に属することになる。一見するとこの分類も、不自然に見えるかもしれない。しかしそれらが関わりの対象として現れる限り、この分類も正当である。同様に肉体も、関わりの対象として現れる限りで、作用対象になり得ることになる。
 このような世界の全てを作用主体と作用対象に扱う見解に対して、これは唯物論的独我論にすぎないのではないのか、あるいは唯物論的な世界意識や絶対理念の理屈にすぎないのではないのか、という疑念も当然出てくるはずである。しかし唯物論は、独我論でも、世界意識や絶対理念の理屈でもない。なぜなら唯物論は最初から、物質を異なる意識の共通の基盤として認定しているからである。それは、唯物論が異なる意識の存在を承認することを意味する。そしてさらにそのような意識の偏在を承認することは、神的意識の存在を拒否することに帰結しているからである。

 意識において自らと異なる他者を認める起源は、単純に考えれば意識独自の因果律を拒否するような客体の因果律との遭遇である。しかしこの説明は、石の実在について、石で殴られれば痛いので、石の実在を知るという説明と同じであり、理屈の体を為していない。実を言うと、意識は自らが他者なのである。そのことが、意識における他者の起源なのである。
 “我思う”と言う文章では、“我”は志向主体であり、“思う”は志向作用である。もちろんこの“思う”は、意識である。一方で“思う”という志向作用の唯一確実な志向対象は“我”自らである。したがって“我思う”とは“我は自らのことを思う”と言う文章でなければならない。このとき志向主体としての“我”と志向対象としての“我”は、既に分裂して現われている。ただし実際に現実存在する“我”は、常に主語に置かれている志向主体としての“我”である。少なくとも、志向対象としての“我”は、物象化した“我”にすぎない。それに対して言えば、志向主体としての“我”は、志向作用としての“思う”と一体化している。とは言えこの志向主体としての“我”と、志向作用としての“思う”にしても、異なるものである。そのことは、文章の上で見ても、両者が主語と動詞として分かれていることに現われている。結果的に作用主体としての“我”にしても、志向作用としての“思う”に対して、物象化することになる。それは、志向主体のもっていた作用的要素の全てが“思う”に移されており、作用主体は抜け殻にすぎないためである。ただしこのような主語と動詞の分離も、“我”が志向主体と志向対象に分離したことの単なる反映にすぎない。志向対象としての“我”が無ければ、動詞としての“思う”は成立しないからである。それでは、“我”における志向主体と志向対象の分離は、一体誰が引き起こしたのか? その答えは、時間である。
 意識における主体と客体の分裂は、時間推移が生み出す。“我”が思う相手の“我”は、常に物象化した自らの過去である。このことは、意識が既に常に自らの他者、すなわち物質を必要とし、物質に随伴する存在であるの示している。したがって意識において自らと異なる他者を認めるのは、何も困難なものではない。むしろ逆に、物質を随伴しない意識を想定する方が、はるかに困難なのである。
(2012/03/03)


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