唯物論者

唯物論の再構築

唯物論2(対象の形式)

2011-11-17 23:21:04 | 唯物論

 物質は意識の他在である。この物質を論理の基礎に置く思想が、唯物論である。したがって唯物論は、意識が自らにより自らを基礎づけるような観念論の自己満足を認めない。筆者はさらに、カント超越論のように、他在の形式を意識の形式と扱うのも、ハイデガー現象学のように、他在の構造を意識の構造と扱うのも、ともに他在の意識化を企てる観念論の欺瞞と見る。

 超越論では、意識の対象がもつ質料を対象に帰属させることに独我論的疑問符をつける一方で、質料間の関係を意識の先天的な形式と扱う。形式が先天的と言うのは、それが意識にとってどうにもならない対象であるのを意味する。一見するとそのことは、形式自体が意識の他在であるのを示しそうである。ところが独我論では、意識の他在は意識に現象できない。もし形式が意識の他在であるなら、形式も同様に意識に現象できない。このために超越論において形式は、意識の他在ではなく、意識の形式となった。
 一方で先天的形式を意識の形式に限定する理由に、神も一役演じている。神は無限者である。そして形式とは、有限者においてのみ固有な制約である。つまり神は、形式を超越して、事象と交流できなければいけない。無限者は、光を満ち溢れさせるのを空間的制約の中で実現する必要は無いし、蝋燭が燃え尽きるのを時間的制約の中で待つ必要は無いのである。形式の他在化は、この神の領域を有限者が侵犯するのと同じである。したがってあくまでも形式は、有限者においてのみ有効な制約でなければならない。
 カントにおいてこのような意識の先天的形式は、空間と時間である。しかもそれら時空間は、すでに均一に展開する理想形を整えている。もし時空間が均一でなければ、それらの時空間は、別の時空間において不均一を示されるしかない。しかしそれは、時空を形式と規定した最初の想定に反する。このような時空版の第三人間論を排除しようとするなら、時空間は、最初からすでに均一に展開する理想形を整えたものでなければならない。
 このような超越論における形式の扱いに風穴を開けたのが、ヘーゲルである。形式は存在以前に存在せず、存在から導出されるようになった。そしてフッサールとベルグソンでは、神も自らの目で物を見なければならず、蝋燭が溶けるのを座して待たなければならなくなった。また現象学は、オブジェクトとメソッドの一体性を示し、そのことにより色や熱や重さなどの無限な方向で内包量の形式を外延化させる可能性を拡げた。とはいえ現象学も、そこまで話を拡げる度胸は無かったようである。

 意識は異なる二点を認識した時点で、すでに時空間を生成している。対象の左右を判別するなら、そこにはすでに空間が存在しているし、対象の過去現在を判別するなら、そこにはすでに時間が存在しなければならない。一方で原初的な意識には、二点の位置関係などわからない。対象は近いの遠いのか、また対象が現在なのか過去なのか、両者が左右逆転していようが、発生順序の前後が逆順なのかも怪しい。もしかしたら二点の認識で正しいのかまで疑われる。それでも意識が対象を二点と認識するなら、意識は時空間を生み出したとみなされ得る。このような時空間の生成は、目を閉じて自らの腕の二点を刺激するだけで擬似的に再現可能である。当然ながらこの原初的な時空間は、対象と一体化しており、均一なものなどではない。
 しかしこのように一度崩れた時空間の均一性は、そのまま崩れて終わるわけではない。相対論のような特殊な世界を除けば、実際に誰も日常生活の時空の均一性を疑わない。そこにあるのは、時空間は各人の意識の原初において均一では無かったのだが、知らぬ間に均一なものに補正されているという事実である。実際には時空間は、繰り返される比較検証の中で均一なものに転化したのだが、端的に言うとこの意識の形式は、何者かに制御を受けたのである。一般的な答えを言えば、認識は存在に基礎づけられたのである。しかし唯物論は、このような制御を与える存在を、意識の他在としての物質に扱う。この結論は、意識の形式に制御を与える存在を、再び意識の形式とする同語反復を避けるために必要なものである。意識の形式に制御を与える存在を意識の構造と言い換えても、同語反復に差異は無い。むしろそれは単なる欺瞞である。
 形式の先天性は、意識の他在により基礎づけられなければならない。またそうであってこそ、意識が存在するしないに関わらず意識を制約するものとして、形式が現象可能になる。
(2011/11/17)


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