唯物論者

唯物論の再構築

唯物論5(ヘーゲル弁証法)

2012-02-04 15:25:41 | 唯物論

 旧時代の支配層は、封建的身分制度における自らの社会的地位を、生来の神からの恩寵と宣言し、聖霊や天上界の後光で自らを粉飾した。カントが先験理論における純粋悟性概念の地位を先天的なものとする動機も、これとほとんど同じに見える。形而上学の出自を下賤な世俗経験に置く経験論に対し、カントは形而上学が扱う抽象概念を意識の純粋形式に祭り上げ、形而上学を世俗経験から遊離した。しかしそれは、論理サービスに特化して世俗から遊離しただけの抽象概念の地位を、生来の神からの恩寵に扱う概念版の封建的身分制度になっている。

 直観に現れた対象を単なる意識の印象に扱う場合、その対象は客観ではなく、単なる主観となる。カントは、直観の対象が支えを失った純粋な主観になるのを嫌い、因果律に従う形でこの直観を基礎づける意識の他在を想定した。カントはそれを物自体と呼び、この物自体だけを客観として扱った。ところが一方でカントは、ヒュームにならって直観と物自体の相関を全て疑い、直観における対象の存在以外の全ての確実性を否定した。この不可知論により最終的に物自体は、のっぺらぼうの存在となった。質料も形相も失ったその存在はせいぜい無に等しい空なのだが、空であるならそれなりの空間的領域を得てしまう。それだと物自体は大きさをもつことになる。したがって物自体は完全に無でなければならない。つまり物自体は、存在しないことになる。
 カント版不可知論の弁護論として、物自体は形状をもたないのではなく、形状をもつのだが、その形状は不可知としただけだとの見方もできる。対象の形状をなす時空的大きさは量にすぎず、重さや熱と同様に疑わしいものだからである。しかし物自体が形状をもつなら、物自体を構成する各点も同様に存在しなければならない。カントは物自体と感覚の因果的相関を認めているので、当然ながら物自体の各点も感覚の各点に対応する。仮に両端の2点の感覚があるなら、その2点をもとに物自体の大雑把な大きさを空間に描くことが可能となる。ここで物自体の大きさを不可知にしようとするなら、物自体における各点の位置関係も全て不定となる必要がある。その場合、物自体の形状と現象の形状に一致点は無くなり、両者の形状的相関自体が無意味になる。つまり物自体の想定自体も無意味になる。また物自体の大きさを空間的大きさに限る必要はなく、時間的な大きさで考えても良い。この場合、今度は物自体の生成と消滅が無意味になる。つまり物自体は実質的に不変体となり、プラトンの考えたイデアと全く同じものになる。カントの不可知論においてこれらの無意味化を回避するためには、現象世界で成立する形状は、すなわち物自体世界でも成立する形状となる必要がある。
 このようなカント不可知論への批判に対して、時空は有限者の直観形式にすぎず、時空的大きさは有限者にしか意味をもたないとの別の角度の弁護論があるかもしれない。しかし物自体と現象の両世界における存在が記号的に対応する限り、現象世界で成立した関係は、すなわち物自体世界でも成立する関係でなければならない。したがってカントの不可知論を考えた場合、物自体が形状をもつ限り、その形状の不可知論は成立しない。物自体が形状をもたない限りにおいて、その形状の不可知論は成立する。結果的に不可知論は、少なくとも機械的かつ物理的な物自体に対して成立しない。逆の言い方をすれば、不可知論は自由で偶発的な物自体に対してのみ成立する。しかしすぐわかるように、自由で偶発的な物自体が不可知であるというのは、単なる同語反復である。
 かくしてヘーゲル以後の哲学では、カントの物自体を「背後世界の錯覚」とみなすようになり、哲学は物自体の代わりに、現象のうちに客観を見出す時代へと突入した。形式の先験性は、現象に超越的な論理前提ではなく、現象に内在的な自己生成する論理として理解されるようになった。つまり哲学は、本能を本能として満足するだけのカントを許さなかったのである。しかし現象のうちに客観を見出せるなら、現象は常になんらかの形で客観でなければならない。現象を客観に扱う方向は、二通りある。現象を常に進化する客観として扱うか、現象のうちに常に世俗へと堕落する傾向を見出すかである。

 現象を常に進化する客観として扱う考え方、すなわちヘーゲル弁証法では、不変の客観がそもそも存在しない。現在の客観は常に、過去の客観を包括した新バージョンであり、進化する客観の現在として現象する。したがって客観の進化は常に現時点が最終形であり、現時点の現象は常に現時点での物自体の現われとなる。つまり不可知論は拒否される。同様に過去に誤った認識があったにしても、過去においてそれは真理だったとみなされる。今それが真理ではなくなったのは、新バージョンの真理に置き換わったためである。言い換えるなら、誤りは訂正されることにより誤りとなるのであって、それまでは真理でなければならない。誤った認識はそれ自身が客観の一部となり、客観が現象する際の現れ方の一つに数えられるようになる。したがってヘーゲルにおいて現実は、常に現在において完成している。ヘーゲル弁証法は、現実的なものは理性的であるとみなす現状肯定論なのである。
 ヘーゲルは、上記要領で不可知論を克服する。しかし上記のままの説明は、ヒュームの経験論とそれほど大差が無い。ヒュームの経験論は、根なし草のようなめくるめく印象が世界を支配する現象一元論である。しかしその印象は、少なくとも感覚された時点において、感覚の真理だからである。カントが先験理論を語る理由の一つも、この根なし草から認識を解放することにあった。そして認識の根拠としての物自体が存在するとカントが考えたように、客観は存在するとヘーゲルも考えている。またそうでなければ客観の変化は、単なる変化のままであり、進化となり得ない。一方で因果律においても客観の変化は、客観の進化でなければならない。そのことからヘーゲルは、客観の変化に目的因を見出す。しかし変化する客観が目的因に支配されることは、客観の進化に対して目的因による制限を与える。客観の進化は、目的因を超え出ることは無く、目的に到達した段階で自らの歩みを止めざるを得ない。しかもヘーゲルは観念論の基本に則り、この目的因の由来を意識の内に認める。すなわち客観の変化を規定するのは意識であり、意識こそが目的因である。目的因を規定するものは目的因だけしかない。目的因を外から規定するものが無い以上、目的因は不変の実体とならざるを得ない。結果的にヘーゲル弁証法は、目的実現に邁進するだけの目的論的弁証法へと収束する。この目的因は、それ自身が認識の根拠でもあり、客観そのものである。ヘーゲルは、それを絶対理念と呼んだ。それはリニューアルしたカントの物自体、またはプラトンのイデアである。この絶対理念とは、主観を媒介にして自らを現わす客観である。つまり絶対理念の方が主人であり、逆に個々の主観は偶然に使用された単なる媒介にすぎない。このために客観だったはずの絶対理念は、今では自らが主観として意識のうちに君臨するようになる。
 ヘーゲル弁証法は現状肯定論であり、否定的現実の説明に困難がある。現状肯定論は、現在の誤りまでも肯定するためである。しかし誤りは誤りであり、それは正されるべきである。つまり誤った認識は、再び正しい認識で置き換えられるべきである。ヘーゲル弁証法は絶対理念を基準にして真偽判断を行い、唯物論は意識の他在としての事実を基準にして真偽判断を行う。なるほど事実が客観であるように、もともと絶対理念も客観であった。しかし今では絶対理念は主観にすぎず、変化する客観に即座に対応し得ない。またそれだからこそ絶対理念には常に超出が必要なのである。この絶対理念の超出を規定するものは、やはり客観である。それは意識の他在としての物質にほかならない。
(2012/02/04)


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