唯物論者

唯物論の再構築

唯物論20(人間8)

2013-01-05 15:03:23 | 唯物論

 物質が意識を規定することは、意識の能動性を阻害するか? 前の記事(人間7)で筆者は、意識の自由と因果、および動機の相関を整理してきた。そこで筆者が示したのは、自由は因果を必要とし、動機の存在を前提にすることである。しかし動機を自由の前提に扱うのは、因果が自由の制限として現れることと矛盾するように見える。そのことに対して筆者は、自由の前提として現れる動機、および自由の制限として現れる因果の二者の差異を、動機の真性の差異として捉え直した。そして筆者は、動機の真性の根拠を私的経験の内に見出し、それを自由の真性と同一視した。したがって行為選択と私的経験の両者が親密なほど、自由の真性は増大し、逆に両者の相関が疎遠なほど、自由の真性は減少して虚偽性を帯び、さらにその相関が険悪なほど、自由は虚偽となってゆくこととなった。このことから筆者は、ただ単に因果と遊離しただけの自由、すなわち物理的偶然を、虚偽性を帯びた自由として捉えている。
 ただしここで言う自由の“真性”は、実現した自由の合理的正当性や倫理的正当性を表現しない。例えば意識は、不当な行為選択であっても、自らの行為選択がなんらかの事情で頓挫すれば、そのことに不快感を感じ、それを不自由と理解する。つまり意識は、自由の真性が損なわれたと理解する。このときの行為選択の不当性は、意識における自由の真性を毀損していない。このような自由の真性の現れ方は、因果の“真性”、または動機の“真性”についても変わらない。したがってそれらの“真性”の表現も、真性と表現するのではなく、ハイデガーにならって“本来性”と表現すべきかもしれない。ただしハイデガーにおける本来性は、頽落概念と一対になった概念である。したがってここでは、頽落概念と区別する意味で、行為選択と私的経験の親密性を“真性”のままで表現する。
 一方でこのような真性は、自由の真実を単なるわがままに変える。なぜなら動機の真性は、繰り返すように、動機の合理的正当性や倫理的正当性を意味しないからである。しかし自由の真実が単なるわがままであるなら、意識はそのまま自らの過去を超え出る必要を持たないことになる。ハイデガーは日常的な意識を、一般的経験に根差す虚偽的自由の中に自ら埋没し、自由の真実から逃避するものとして扱った。そしてその人間的堕落は、意識の構造に起因する一種の宿命だとみなした。しかし自由を放棄し、自らのわがままを正すことは、必ずしも人間的堕落を意味するものではない。また人間的堕落について実存主義のような宿命論を、唯物論が想定しないなら、筆者もハイデガーと異なる観点から、同じ問題に答える必要がある。ちなみにハイデガー流にこの問題を否定的に表現するなら、どのようにして意識の自由は、自らの虚偽を目指すのか?となる。そして反対に同じ問題を肯定的に表現するなら、どのようにして自由の真実は、単なるわがままを超え出てゆくのか?となる。

 わがままを欲しつつ、現実に対して屈服し、“自由の放棄”という自由を行使するような意識の運動は、どこにでも見られるありふれた風景である。そのことを説明するために、わざわざハイデガーの頽落理論のような、遠回しの人間性悪説を構築する必要は無い。現実世界への屈服という全面的受動性は、物質としての肉体、または動物としての人類という人間の原始の姿にすぎないからである。マルクスは、「ドイツイデオロギー」における唯物史観の中で、貧困が人間の旧時代の汚物を復活させることを指摘した。このマルクスの言葉は、ハイデガーの説教よりはるかに、人間による人間破壊の真実を言い当てている。ただし人間の物体化についての論及は、筆者の以前の記事(人間4:人間の疎外)でも取り上げているので、ここでは取り上げない。むしろ重要なのは、自らのわがままを超克して現実と対決し、平穏な自由を放棄するような、意識が見せる一種不自然な運動の方である。その運動の内実は、意識の実存が個別を放棄して、一般へと屈服する姿ではない。その運動における意識の実存は、意識が動機の真性を保持したままに、動機自体の無効化を目指している。したがってこのような意識の運動の底流にあるのは、個別が自らを一般に同化させるという主体性欠如や奴隷根性ではない。そこにあるのは、一般の方を自らに同化させるための自己改造であり、世界を我がものにするのを目指す一種芸術的な意志である。
 自らのわがままが正当であるのを信じ、現実を屈服させるために自由を行使するという意識の運動は、意識の他在が持つ権利の無効化を必要とし、その存立条件として意識自身の物理的自由を必要とする。ただし所有が自由の前提として現れることについての論及も、筆者の以前の記事(人間6:無化と無効化)で取り上げているので、ここでは取り上げない。ここでの関心は、わがままから謙虚へ、私的経験から一般的経験へ、さらに言うなら善から真理へ、または偶然から必然へと、意識がなぜ自らの居場所を移すのかという点にある。自由を得た意識が必然を目指すというのは、意識の能動性に反するように見える。しかし自由の前提として動機が現れるなら、また動機の真性を保障するものとして私的経験が現れるなら、動機の必然性に従う形で意識が必然を目指すのも同時に必然となる。したがって自由を得た意識が必然を目指すというのは、意識の能動性に反しない。むしろその逆である。またそもそも意識は、わがままと謙虚、私的経験と一般的経験、善と真理、および偶然と必然を区別できない。それらの区別は、単なる所与として意識の前に現れるからである。意識は、所与を通じて自らのわがままを謙虚に、私的経験を一般的経験に、善を真理に、そして偶然を必然に超出せざるを得ない。もちろんそれは、意識が対象についての自らの錯覚を、対象の現実感覚を通じて修正すると言うありふれた話である。したがって意識から独立した意識の他在が存在するなら、意識はアプリオリに謙虚を目指し、一般的経験に身を置くことを欲し、真理を愛し、必然を目指すこととなる。そのことは、唯物論の前提が必然的に意識の性善説をもたらすのを示している。結果として世界の我有化を目指す意志は、物理的自由を得た意識の必然的な結末として現れる。
 ただしこの説明における意識の必然への屈服は、現実世界の必然を前にした意識の否応なしの屈服である。むしろそこに現れるのは、意識の自由の実質的な消滅である。それは石で殴られたことで石の実在を納得するだけの話であり、自由の真性に反した内容である。このような意識の自由は、現実世界の枠を越えることが無く、現実世界の限界に達した段階で自らの動きを止めてしまう。実際に意識が真理を希求する道筋は、これとは異なるところにある。

 物理的所有を通じて自らの自由を確保した意識は、、一般的経験から自らを解放し、そこから遊離する。つまり意識は、世界の呪縛を無効化する。ところがこの無効化は、意識自らに対しても作用している。自由を確保した意識は、私的経験からも自らを解放し、そこから遊離する。そしてこの二重の無効化は、自由の無意味化を推し進める。そのことは、私的経験と一般的経験のどちらが意識の実存を占拠するかを、不定にする。それどころかこの自由の無意味化は、意識の能動をも無意味にする。このために世俗から遊離した意識は、活力を失って痴呆化する可能性さえある。ただし自由の無意味化とは、意識の無意味化に等しく、意識の自然死にほかならない。したがって意識は、自らの死滅を避け、自ら意識であり続けようとする限り、少なくとも観念的独善を目指す必要がある。もちろん先に示したように、現実的真理が意識の他在として存在する限り、観念的独善はいずれ自らを否定する運命にある。このことから結局、動機の必然が意識を現実的真理に向かわせたように、動機の消滅もまた意識を現実的真理に向かわせる。この場合でも、意識の必然への屈服の結果は変わらない。しかしこれは、私的経験の一般的経験への成長転化ではない。これは私的経験と一般的経験の差異の自然消滅である。言い換えるなら、意識の決意が無私を生むのではなく、所有の現実が無私を生んでいる。また個別の一般への成長転化は、意識に対して義務として現れたのに対し、私的経験と一般的経験の差異の消滅は、意識にとって権利として現れる。その差異が意味するのは、先の形の意識の一般化と違い、ここでの意識の一般化が自由の真性を得ていると言うことである。このような意識の能動性は、現実世界の枠さえも自らの枠に変え、現実世界の限界に達しても、自らの動きを止める必要を持たない。現実世界と一体化した意識は、自らを含めた現実世界の改造を始めることになる。意識の現実世界との一体化は即座に分解するであろうが、意識の自由を基礎づける物理的所有が存続する限り、意識の能動性は自らを保持し続ける。それどころか、能動性として自らを物象化した意識は、自由を基礎づけてきた物理的所有が存続不能となっても、自らの自由を保持するようになる。もちろんこの観念的自由は、その最低限の物理的基礎、すなわち肉体の存続限界を超えることはない。しかしそのときに意識は、自らの肉体を放棄してでも自らの自由を守る。このときの意識は、自らの存在を、自らを生み出した肉体の中にではなく、自由の中に見出している。

 このような意識の自立は、より多くの愛を世界から受け取るほど、確固たるものとなる。自立した意識は、最後には世界の愛が無くても、自ら愛を与える力とその意欲を持つ。この意識の完全な能動は、受け取った分の数倍の愛を世界に返すことになる。逆に世界から受け取る愛が少ないほど、意識は自立せず、物体と同様の姿を晒すことになる。自立できなかった意識は、受動としていつまでも世界の愛を追い求め、地獄を彷徨うことになる。
 この文章に登場する愛を、所有や権利として読み換えるなら、これまで述べた論述と同じ内容が成立するはずである。
(2013/01/05)


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