唯物論者

唯物論の再構築

唯物論18(人間6)

2012-12-16 00:24:11 | 唯物論

 無化とは、対象から意識を切り離すことであり、切り離すことで意識自身が対象から自由になることを指す。すなわち無化とは、自由化のことであり、対象からの意識の独立、すなわち自己の成立を意味する。
 フッサールにおいて無化は、エポケーすなわち判断停止として示された。判断停止とは、意識が自らを対象から切り離し、中立的判断を可能にする行為である。このことは、意識の自由が正しい認識を成立させる条件なのだと言う至極当然な正論に従っている。ところが彼はこの正論の前提に、意識の自由を意識のうちに基礎づけるという観念論を用意する。つまりフッサールにおいて意識は、判断停止を行う以前に、常に既に判断停止を行うだけの自由を得ている。したがって意識は、自由を実現する以前に、既に自由だったこととなる。このことは彼の正論を、正しい認識を実現する苦労を必要としない妙な楽観論へと転じてしまう。ここで彼が自明のものとして立てた前提は、自由の起源が意識のうちにあるというカント流の信念である。意識が自由を規定するというその信念は、認識主体としての意識が、認識対象としての物質に対して規定的優位にあるという観念論の原則を表現している。
 このようなフッサールの妙な楽観論に対して、ハイデガーは無化を、認識正当性の実現という枠を飛び越えて、本来的存在の回復として理解する。ただしそこでの意識は、判断停止を待つまでもなく、既に否応なしに即自存在から切り離されたものである。つまり意識の自由は、意識の可能ではなく、意識の現実であり、意識の存在を構成している。ただしハイデガーはこの自由を、素直な解放感において捉えず、むしろ居場所の無い不安感において捉えている。意識の前には楽観的状況は広がっておらず、意識は常に本来への回帰を目指し、自らの決意を試されているためである。このような意識におけるアプリオリな自由に対してサルトルは、無化を即自存在としての物質が、対自存在としての意識にかけた呪いのごとく表現した。しかし認識の正当性を実現する自由が既に意識のうちに存在するなら、言い換えるなら意識が本来的に自由であるなら、なぜ意識は自由から遠ざかっており、認識の正当性を自ら毀損しているのであろうか? ハイデガーが意識の頽落理論を構築したのは、この説明をするためである。そして頽落理論によりハイデガーは、フッサールにおいて簡単に現れた認識正当性の実現を、やはり苦難に満ちた行程なのだと示すことに成功した。しかもフッサールにおいて自明にされていた意識の自由を、より明確な形で意識の構造として宣言した点で、彼の現象学は格段に進歩している。しかしハイデガーにおいても、フッサールと同様に、自由は意識のうちに基礎を持ったままにいる。観念論の基本は、ハイデガーにおいても維持されたわけである。
 フッサールは、自明のこととして、無化を意識のアプリオリな権利として提示する。この楽観的なフッサールに対してハイデガーは、なぜそれがそんなに簡単なのかと疑問を持つ。しかしこの疑問に従い、無化を意識のアプリオリな権利として承認することを阻むことは許されない。それだと意識は自由を失い、ただの物体になってしまうからである。そこでハイデガーは、意識の絶対的自由を謳ったフッサールへの憤慨と意識の絶対的不自由を謳った機械的唯物論への憤慨の間で、両者の折衷へとはまり込んでゆく。結果的に彼の現象学は、一方で本来的意識の自由、他方で日常的意識の不自由という相反する事象を、同時に承認することとなった。ただし基調としてフッサールに始まる現象学は、ハイデガーにおいても、さらにサルトルにおいても、無化を意識のアプリオリな権利として提示し続けている。したがって逆にハイデガーに対してフッサールは、認識の正当性の実現がなぜそんなに簡単ではないのかという疑問を持つべきである。なぜなら意識が持つ無化の権利は、常に既に意識が世界から受け取る時間推移を言い換えただけのものにすぎないからである。

 自由は意識の存在であり、意識の固有の権利である。しかし無化は意識に固有の権利ではない。世界はいたるところで無化を推し進め、自由を醸成している。言い換えれば、物質はいたるところで自らを無効化し、そこに意識を生み出している。しかし生み出された自由は、もっぱら再び世界のべたつきの中に埋没し、不自由へと退行してゆく。この事情は、人間的意識であっても変わらないし、むしろ人間的意識にこそ当てはまる。意識は現実世界の中に埋没し、意識としての自らを物体へと退行させるし、現実世界の困難の前にそのようにならざるを獲ない。自由を意識のアプリオリな権利として示した宣言も、意識が意識として存在する限りでのみ有効なのである。また逆に自由を喪失した意識は、既に意識ではなく、単なる物体にほかならない。現象学は、無化を意識の固有の権利とみなすことで、観念論の孤塁を守ってきた。しかし無化が意識の固有の権利ではないのであれば、無化を阻む相手を意識自らの中に見出そうとしたハイデガーの試みも、同時に頓挫することとなる。意識であるのを許されない意識に対して、頽落の責任を追及する試みは、個別意識が抱えた事情への配慮に欠けた無慈悲なものへと変わる。そこでの無化を阻む相手は、意識の他在として、現実世界の中において人間の前に立ちはだかっているからである。逆に無化をもたらす主体も、意識の中だけに存在しているわけではない。それは意識自らだけではなく、神の恩寵のごとく、意識の作用者として現実世界の他在の姿のまま現れる。それは意識にとって、生存競争の只中における幸運であり、または束の間の休息であり、自らを呪縛する世界のべたつきからの解放である。そこにおいて現れる自由は、ハイデガーの語るような不安として意識に現れることは無い。それは解放感として、至福として、さらには一つの福音として意識に現れる。
 無化とは、もっぱらサルトルにより使われた意識の能動性を表現した言葉である。この表現は、人間の尊厳として自由を意識の内に見出し、意識の中にだけ世界の動因を見出す観念論を背景にしている。したがってハイデガーとサルトルの実存主義は、サルトルが述べるように、即自存在の能動性を拒否した観念論版の無神論と見ることもできる。もちろんそれは、意識の中に神を見出す汎神論と受け取るのも可能なものである。しかし一方でキェルケゴールやヤスパースのように、意識の他在にも世界の動因を見出す実存主義も存在している。しかし彼らの実存主義もまた、意識にだけ世界の動因を解読する役割を認めたものである。しかも彼らの哲学において、動因として現れる意識の他在は、神として宣言されている。いずれにせよ実存主義において無化は、意識の能動性を越えることは無い。そしてそのことは、能動性としての自由の基礎を隠蔽したまま、その放置をもたらした。
 自由の基礎とは、所有である。所有において人間は、世界の呪縛を無効にする。この所有の対象は、意識の他在として現れる物質であり、第一に肉体として現れる。所有において意識の他在は、意識に対して他在としての権利を失う。物質が他在としての権利を消失することは、意識における他在の権利の無効化にほかならない。したがって無化の正しい表現は、無効化である。このような所有が意識の自由を基礎づけており、所有なしに自由は存在しない。口が無ければ、言葉を話せないし、足が無ければ、歩き回れないし、金が無ければ、商品を買うこともできない。所有が無ければ、意識は意識として現われ得ないし、そもそも自由そのものが存在しない。そのとき意識は、自ら単なる物体であることを超えることができない。つまり意識は、考えることもできないわけである。そのような意識は、最初から意識などではない。

 自由の基礎に意識の他在を持ち込むことは、実存主義を唯物論に改変することである。ここで予想される観念論の危惧は、意識を意識の他在により規定するなら、意識の能動性も一緒に毀損されるのではないかということである。サルトルの状況概念は、それに対する実存主義からの回答であった。筆者は状況概念の問題点について前の記事(人間5:状況と過去)で触れている。次の考察では、今回の記述を前提にして、意識の能動性について再度振り返ることにする。
(2012/12/16)


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