唯物論者

唯物論の再構築

唯物論6(現象学)

2012-02-12 12:41:30 | 唯物論

 妥当な認識とは、認識において対象の現れが真理と一致することである。しかし認識が妥当であるためには、認識主体はあらかじめ真理を所持していなければならない。カントはこの真理を、不可知な物自体と扱った。これによりカントにおいて対象の現れは、真理と常に一致し得なくなった。つまり妥当な認識は、不可能とみなされた。次にヘーゲルはこの真理を、認識を媒介にして成長する絶対理念とみなした。これによりヘーゲルにおいて真理は可知となったのだが、今度は対象の現れが常に真理と一致するようになってしまった。つまり妥当しない認識の方が、不可能とみなされた。このようなヘーゲルの見解に対し、自らを妥当しない認識と悟った意識は、行き場を失なった。それらの意識は、一方に観念の支配からの脱出を企てた共産主義、他方に本質の支配からの脱出を企てた実存主義に転じ、ヘーゲル弁証法のもとから飛び出して行った。前者の系譜は、ほぼ最初から自らを弁証法的唯物論と称している。それに対し後者の系譜は、依存し得る思想を探し求め、それを占拠する形で自らを現象学と称するようになった。

 現象学では、現象こそが真理である。ただし現象は常に歪曲され、その本来の姿を留めていないとみなされている。ハイデガーはこの歪曲を、現象の場としての現存在の構造が引き起こす非本来化として扱った。したがって現存在が本来化しない限り、現象の真理も復元され得ない。しかし本来化に成功する限り、その現象は常に真理に等しい。つまり現存在の本来化は、失われた真理の回復行動なのである。このことは、現象学が不可知論を、その成り立ちから拒否しているのを意味している。
 現象学において認識を妥当にするものが認識主体の本来化であるのに対し、旧来のカント超越論やヘーゲル弁証法における認識を妥当にするものは、物自体や絶対理念である。現象学からすれば、それはそもそも現象と真理が不一致であるとみなしたことの当然の帰結である。この前提がある限り、カント超越論やヘーゲル弁証法は、物自体や絶対理念という、真理の代用品を生み出さざるを得なかったのである。またそれらの代用品を想定するのが、因果律の要求に応える世俗的方法なのである。しかし現象学の場合、理念と現象の一致はすでに与えられており、代わりに認識の成否は、認識主体の本来化に委ねられている。一方で相変わらず因果律は、認識に対して認識自らを基礎づける真理を要求する。ハイデガーはキェルケゴールにならって、この因果律の要求を良心の声、または不安とみなした。最終的に現存在の本来化を促すのは、意識の他在が発する因果律の要求なのである。これは至極まともな見解である。ところが実存主義は、客観的基礎に向かう因果律の在り方を拒否した。つまり実存主義は、認識を物質にではなく、また客観的理念にでもなく、自らの恣意的理念に基礎づけたのである。
 なおカントは自らの不可知論において、認識世界の外側に有限者の理性が及ぶのも拒否しているが、同様にこの考え方の正当性も、現象学では不可知論と関係をもたない。なぜなら認識世界の外側は、最初から無だからである。現象学において神や魂や自由などの理性概念も、それが現象する限り、最初から認識世界の内側にある。

 現象学は、上記要領で不可知論を克服した。しかし現象一元論というなら、現象学はヒュームの経験論と同じになりそうにも見える。ヒュームの経験論も、根なし草のようなめくるめく印象が世界を支配する現象一元論である。そしてそこでの印象が果たす地位も、少なくとも感覚された時点において、感覚の真理だからである。またサルトルも、フッサールの現象学がヒュームの経験論の復刻版にすぎないのを指摘している。しかしヒュームは、不可知論において真理の必当然性を放棄し、経験至上主義において蓋然性に安住した。それに比べるとフッサールは、同じ現象論からカントを目指している。もちろんフッサールは、それ以上に先へと進めなかったが、フッサールにおけるこのようなヒュームとの違いは、サルトルが自覚していないだけで、ハイデガーにもサルトルにも受け継がれている。
 また現象への回帰という点では、現象学はヘーゲル弁証法と同じになりそうにも見える。ヘーゲル弁証法においても、現象学においても、現象はすでに真理だからである。しかし両者の差異は、現象がもつ対象の現れ方の不安定さをどのように解釈するかにある。ヘーゲル弁証法において現象は、対象の単なる一つの断面にすぎない。現象のもつ偶然性と現実性は、客観の特殊な一面を意味するだけである。それは神のごとき宇宙的視野にとって興味の対象外である。これに対し現象学は、現象のもつ偶然性と現実性の方をむしろ問題にする。現象学における現象は、対象の単なる一つの断面ではない。断面は、そこを切り開き、それに対峙する主体を抜きに存在しない。またこの主体自身にとっても、その断面こそがおのれの自己同一の証しである。フッサールの表現で言い換えるなら、志向対象と志向作用は切り離せない関係なのである。もちろんここで言う志向作用とか主体とは、人間的意識を指している。当然ながら現象学では、人間的意識を離れて客観も存在しない。そして実存主義ではこの人間的意識だけを、偶然性と現実性そのものを体現した現実存在だとみなした。したがって実存主義は、その始まりからすでに合理的客観主義の影であり、ヘーゲル弁証法に対抗する哲学なのである。
 ヘーゲル弁証法は常に対象の全面的把握を考えるが、実存主義にとってそのことは興味の対象ではない。実存主義は、一般的知識を知り得たことをもって、それを知り得たとみなさないし、自らにとって知るべき内容が得られなければ、不可知を克服したと考えない。したがって実存主義から見たヘーゲルのような客観主義は、天を見て地を見ず、目の前にぶら下がった人参をどこまでも追いかける馬であり、目指したはずの不可知論の克服を、永久に果たすことができない理屈である。さらに実存主義は、物自体に代わる意識の規定者、つまり恣意的な理念を提示した点で、ヒュームとはもちろん、フッサールとも異なる。具体的には、ハイデガーはそれを歴史性として、サルトルは人間として提示し、それぞれ民族主義と革命的共産主義に連携した。一方でヤスパースは彼らと違い、神への信仰を提示したが、これこそが始祖キェルケゴールの意図であり、実存主義の本道である。大事なのは、これらの提示がヘーゲル弁証法のような合理的客観主義への挑戦だということである。このために実存主義は、非合理主義と受け取られることになる。

 ヘーゲル弁証法は、純粋悟性概念を含む概念の経験的生成を説明した。しかしヘーゲルの「精神現象学」は、精神が現象するのを説明しただけであり、概念の現象学であって、直観の現象学ではない。つまりそれは、直観における対象認識についての説明とは無縁である。そもそも直観では、眼前の物体において過去の経験的蓄積が瞬間的に再現されるはずがなく、そこにバージョン更新を確認することは不可能である。このために対象認識における新たな発見は、ヘーゲル弁証法では常に否定される運命に置かれる。直観における対象認識の扱いは、ヘーゲル弁証法より現象学の方がはるかに勝っている。もちろん現象学には問題がある。すでに示したように、現象学は結局のところ主観的観念論だからである。それは、ヒューム同様に、過去を含めて客観的基礎づけの全てを拒否する。この極端な自由思想は、実存主義をも変容した。実存主義は、自らの自然、自らの社会、自らの生活、自らの肉体、ついには自分自身からも自由であろうとするようになった。メルロ・ポンティは、実存主義が肉体をもたない意識だと指摘した。しかしそれはどちらかと言えば、キェルケゴールに起因するのではなく、フッサールに起因している。
(2012/02/12)


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