全ての言葉は、言葉として異なる意識の間を流通するために、異なる意識の間でも共通な形式を保持している必要がある。そうではないと、異なる意識の間で同じ言葉が別様に使われてしまう事態が発生し、そもそも言葉の伝達が成立しないからである。この流通する言葉の全体は、その各部分の構成形式として文法を持っている。当然ながらこの文法も、異なる意識の間で共通な形式を得ている必要がある。しかし文法が未整備な状態でも、言葉の各部分が単独で異なる意識の間で共通な形式を保持するなら、文章構成が無くても言葉の伝達は可能である。ただしこの場合でもその言葉の各部分は、異なる意識の間で共通な形式を保持している必要がある。このときの単独な言葉における共通形式とは、単独な言葉それ自身の意味を指している。つまり言葉の意味が異なる意識の間で共通なら、異なる意識は会話可能である。逆にこのことから、言葉が異なる意識の間で流通する限り、次のことが既に成立していると見込める。すなわち、或る言葉の持つ形式を明らかにするなら、その言葉の意味も明らかになると言うことである。
例えば「椅子」と言う言葉が持つ形式は、坐ることによる肉体の位置固定とそれによる労力軽減の度合いとして、椅子以外の存在者を含めた全ての存在者に現れるものである。このとき各存在者における椅子らしさは、この評価基準に対する親近性として表現されている。この親近性を形式として判り易くイメージするためには、空間座標をそのまま踏襲して表現するのが良い。例えば、存在者が椅子の評価にそぐわないのであれば、その存在者は椅子座標の中心点から遠くに位置し、椅子の評価に合うのであれば、その存在者は椅子座標の中心点付近に位置する。このような椅子座標を例えば一次元図に表すと次のようになる。
椅子らしくない 椅子に近い 椅子らしい
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↑ ↑ ↑
単なる木 切り株 椅子
この椅子座標は、空間座標が空間形式を表現するのと同様に、椅子の形式を表現している。もちろんこの椅子座標は、海や石や動物、または色や音や空間などの全ての感覚の直接知を座標点として包括可能であり、座標点表示においてそれらの椅子らしさを評価する。当然ながら「椅子」と言う言葉が示すこの椅子の形式は、椅子の意味と一体のものである。したがってこのようなものとして形式を理解するなら、世界には形式が存在者の数ほど存在することも同時に露わになるわけである。例えば山らしさに従う山座標、赤色らしさに従う赤色座標、空間らしさに従う空間座標のようにである。言い換えれば、形式は言葉の数ほど世界に存在する。しかしカントは、この形式と言う言葉を先験的なものに限定して使用し、感性的直観形式として空間と時間、および悟性的認識形式として各種先験的カテゴリーだけを許容した。ただしカントが示した各種先験的諸形式は、アリストテレスからスコラ哲学までの哲学史の中で哲学的カテゴリーとして取り上げられた各種カテゴリーを羅列的に踏襲したものに過ぎない。それらのカテゴリーは、カテゴリーとしての抽出経緯の必然性も不明瞭であり、相互にどのように連携しているのかも明らかにされず、したがってカテゴリー自身の意味も実際には判っていなかった。そこでカント以後の哲学では、意識の発達においてそれぞれのカテゴリーがどのように生成し、他のカテゴリーへと連繋していったのかを検討する作業が始まることとなった。
「精神現象学」における知覚の弁証法についての記述で、ヘーゲルは「存在」、すなわち「在る」と言う言葉が持つ形式を露呈させるために、直接知の多様を免れた一群の言葉を抽出した。具体的にヘーゲルが例示した一群の言葉は、「これ」「いま」「ここ」「私」である。これらの言葉は、眼前の椅子や机の直接知に匹敵する直観でありながら、既に自らの多様な直接態を喪失しており、そのくせ「椅子」や「机」のような概念に到達することも無く、感覚と概念の中間表現に留まっている。これらの言葉は、代名詞として多様な直接知を指し示すだけであり、言葉自身がその多様性を廃棄した特殊な表現となっている。例えば「これ」と言う言葉は、指し示す先が椅子なのか机なのか人間なのか、そもそも物理的概念なのか虚偽観念なのかについて無頓着なまま使用可能である。ヘーゲルは、このような代名詞を「椅子」や「机」の概念のような存在者の評価基準の前身だとみなしている。すなわち感覚における直接知が、その多様を整理して概念へと進化する最初の姿が代名詞なのである。ヘーゲルは代名詞として分離されたこのような感覚を、感覚と区別して知覚と呼んでいる。ここでの「これ」が示す形式を、上記の椅子概念の椅子座標と同様に図示すると次のようになる。
これ これ これ
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↑ ↑ ↑
単なる木 切り株 椅子
上記に示した「これ」の座標は、見て分かるように先の椅子座標と違い、「これ」の評価基準の中心点を持っていない。単なる木も切り株も椅子も、存在者は等しく「これ」として現れている。先の椅子座標において「椅子らしさ」との言い方は単純に可能であったのに対し、この「これ」座標における「これらしさ」との言い方は無い、または「これらしさ」との言い方は不可能ではないとしても困難を抱えている。基本的に上記の「これ」座標は、評価基準として成立していないからである。しかしそうだとしてもこの「これ」座標は、先の椅子座標と同様に、全ての感覚の直接知を座標点として包括可能である。むしろ全ての多様な直接知は、この「これ」座標において、自らの多様性を廃棄し、概念的抽象へと転じることを可能にしている。すなわち上記の「これ」座標は、やはり形式なのである。ただしこの「これ」座標は、椅子座標のような特殊な対象についての座標ではなく、一般的な対象についての座標である。したがってヘーゲルにおける感覚から知覚、そして概念への存在遷移の想定が妥当なのかどうか判断に迷うところもある。感覚から概念、それから知覚への存在遷移が正しいとの想定も可能だからである。とりあえずヘーゲルに従うなら、この「これ」は、形式の萌芽態、そして概念一般の萌芽態である。そしてこの形式性こそが、「これ」に直接知の多様を見出すのを不可能にしている。「これ」と言う言葉は、直接知を包括する形式を指しており、その形式に包括される直接知の質料を表現していないわけである。言わば「これ」は、全ての直接知を包容する一種の空間である。ちなみに先の椅子座標が示したことは、椅子座標が椅子の形式を表現するものであり、椅子の形式は椅子の意味と一体のものだと言うことであった。そしてこのことは、上記の説明にも該当している。すなわち上記の「これ」座標は「これ」の形式を表現するものであり、このような「これ」の形式は「これ」の意味と一体のものである。もちろんここでの「これ」は、「存在」と言う言葉にかなり近いものである。両者の差異は、「これ」が意識の対象に限定して使われるのに対し、「存在」は意識の主体に対しても使われている点だけである。その限りで上記の「これ」座標は、「存在」と言う言葉の持つ意味の一面だけを表現している。したがって先に考えた「これ」座標における「これらしさ」との言い方は、次の形で評価基準として成立可能となる。
「これ」らしくない 「これ」に近い 「これ」らしい
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主体 対象全般(椅子・木など)
上記の補正版の「これ」座標は、先に示したものと違い、「これ」の評価基準の中心点が現れている。この補正版の特徴は、先に示した「これ」座標が、上記補正版座標の右端の拡大図にすぎなかったことを見て取れるところである。このことは、まるでヘーゲルにおける感覚から知覚、そして概念への存在遷移の想定が持つ怪しさを、さらに強めているかのようである。ただし存在遷移を、個別から一般、それから特殊に至るものとみなすのであれば、ヘーゲルの論述展開に齟齬は起きない。また筆者も、この知覚についてのヘーゲルの論述展開を是認しているものである。いずれにせよ上記補正版の「これ」座標は、先のものよりも一層に「これ」の形式を正しく表現するものである。そしてこのような「これ」の形式こそが、「これ」の意味になっている。ちなみに「これ」は、直接知の多様を廃棄した単なる抽象であるにも関わらず、形式としての先験性を得ている。唯物論的には、このような知覚の持つ形式的先験性が何に由来しているのかに興味を引くところである。しかしヘーゲルは、この形式的先験性の由来まで論じることをしていない。結果的にその形式的先験性は、カントと同様に意識の先験的構造に留まっている。すなわち「これ」の形式的先験性は、意識対象の持つ形式的先験性に由来せず、意識主体が持つ形式的先験性に留まっている。もちろん唯物論の想定では、「これ」の形式的先験性は、意識対象の持つ形式的先験性に由来しており、それが意識主体が持つ形式的先験性へと転化しているだけである。
ヘーゲルは、「これ」に続けて「いま」「ここ」そして「私」が持つ形式性に注視する。これらの代名詞はいずれも、「これ」と同様に、直接知を包括する形式を指しており、その形式に包括される直接知の質料を表現しない。そしてこれらの代名詞はいずれも、「存在」と言う言葉の持つ意味の一面を表現している。これらの代名詞と「存在」との差異は、「いま」が意識の時間的現存在に限定して使われ、「ここ」が意識の空間的現存在に限定して使われ、「私」が意識の主体に限定して使われるのに対し、「存在」はいずれにおいても無限定に使われている点だけである。当然ながら、ここで存在と言う言葉の意味を考えるなら、それはこれらの「これ」「いま」「ここ」「私」の構造的総体として現れることも見て取れることになる。ハイデガーは、存在と言う言葉の意味を過去・現在・未来の構造的総体として捉えて、それに時間性と命名している。同じようにヘーゲルの場合では「これ」「いま」「ここ」「私」の構造的総体が存在と言う言葉の意味を表しているわけである。単純な両者の比較を言えば、ヘーゲルには原因と結果の因果に関わる「なぜ」と「いかに」の代名詞が抜け落ちている。すなわちヘーゲルの存在概念からは、ハイデガー的な時間構造が漏れているように見える。このことについての両者の比較は面白い話題なのだが、長くなるのでここではこれ以上論究しない。
(2015/05/03)
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