牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月11日(水) 「聖書的説教とは?⑦」 渡辺善太著

2013-12-11 05:23:06 | 日記

 本からの引用。「聖書的説教とは「キリスト証言的説教」と呼びかえる方が適当である。、、、、この説教は繰り返して言うように、まずテキストが「与えられ」、それから発想せられ、それに即して、発展的に構想される。」

 渡辺善太全集6で旧約聖書は「キリスト証言的」に解釈するのが一番ふさわしく優れていることが詳しく論じられていた。


 「この説教者が与えられたテキストは、聖書の一部分であるとともに「キリスト証言」としての聖書の一部分で、その意味で「キリスト証言性」を担っている。ゆえに端的に言うと、この証言なるテキストは、説教者をとらえ、彼を媒介として、それ自身の証言を、その時点において、「生起させる」のである。この関係をもう少し細かく述べよう。
まず(1)テキストが与えられる。これがこの説教の「上から」の性格を暗示する。しかしこの語は
(2)それが「説教者をとらえる」ということを意味している。「与えられる」というと、それが死物のように響くが、実はそれは「活ける証言」だから、「捉える」と言った方が正しい。
(3)したがって、このテキストは、彼を捉えた上、彼を圧倒的に「引きずって」、聖書中に沈潜させる。
(4)次に彼をして、聖書におけるそのテキストと異なるものを対立させたり、またはそれと相似たものを選び出させる。
(5)その結果、選ばれたものが、重要な「救済論理」によって、その説教の内容全体が構成される
。」

 「この意味で、今まで述べてきた「聖書的説教のみ」が、狭義のそして本来的な「キリスト証言的説教」と呼ばれるべきである。もう一度言うが、この説教においてこそ、テキストが担わせられている「活けるキリスト証言」が、その時点において、その説教者を媒介とし、「証言する」のであり、原初的証言が、その時そこで、「新たに生起する」のである。」
 
 説教者は聖書を通して、聖霊の働きを通して、今も生きておられるキリストに出会い、聖書に啓示されているキリストに圧倒されなければ、本来的には説教をすることはできないであろう。


 「ここまで考えてくると、教会の聖書的説教(キリスト証言的説教)というものの、神学的にして具体的であり、その意味において牧会的な意義が明らかになってくる。すなわち端的に言うと、この説教が効果的に働く時、聴衆は決断に導かれる。、、、、もう一度言う。「キリスト証言」という神の言葉が人を捉える時、捉えられた彼は、被造者的主体性における全くの個人として決断させられるのである。」

 アメリカの伝道者(牧師の働きはしていなかったが)のビリー・グラハム師の説教はまさにキリスト証言的であった。だから多くの人々に決断させたのである。教会の牧師もビリー・グラハム師のキリスト証言的説教から多くを学ぶべきであると思う。すなわち現代の説教はキリスト証言的説教が減り、人々に決断をさせる説教が減ったということである。それは私も含めて牧師たちが聖書に深く捉えられていないところに大きな問題があると言える。反省をしなければならない。