牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

12月12日(木) 「聖書的説教とは?⑧」 渡辺善太著

2013-12-12 06:11:37 | 日記

 本からの引用。「聖書的説教とは、いかなる場合にも、教育的志向を持たなければならない。換言すれば、それは教育的であり、牧会的志向の意味である。この意味で、それは会衆一人ひとりのうちに貯えられている「雑然」たる聖書知識の整理を助ける「論理」を持たなければならない。そしてその論理は、聖書の自己主張している「救済論理」でなければならない。、、、、前にこの説教は、注釈的「基礎」と、聖書神学的「展望」とを持たなければいけないといわれた。これはそこでも明らかだったように、「話し手」の自己に対する心構えである。しかしここにいう「教育的志向」とは、「聞き手」のうちにある聖書知識の整理のためである。、、、したがって話し手にとっては、聖書神学的「位置づけ」となり、聞き手にとっては救済論理的「整理」となる。」

ここで大事なことは、この「整理」はどこまでも、聖書の自己主張している「救済論理」、(くどく繰り返すが)、でなければならない。」

 著者はこのように記した後、整理の種類について書いている。その一は、社会科学的整理である。その二は、文芸思潮的整理である。その三は、宗教哲学的整理であり。その四は、いわゆる神学的整理である。ここにいう「神学的」という語は、厳密に言えば、組織神学的または教義学的という意味である。

 著者はこのようにも書いている「 「聖書知識が神学を整理すべきもの」で、その逆であってはならない。」 

 先に神学がありきでは正しい聖書解釈は絶対にできない。聖書が先にきて、神学が後に来なければならない。そうであれば神学は非常に重要である。神学がなければ説教は整理されたものにならないだろう。そして教育的にもならない。教育的な説教になるためには著者が言うように整理されたものにならなければならないと私も思う。第一に組織神学的にである。説教を聴くクリスチャンでない方々のことを考えると、私は接点として宗教哲学的整理、文芸思潮的整理、社会科学的整理も大切だと思う。

 
 「この神学的整理をする聖書的説教こそ、対外的に、ことに日本ではキリスト者の間に、最も歓迎されるものであり、最も高く評価されるものであることを知らなければならない。では、会衆一人ひとりのうちに持たれている「雑然たる聖書知識」を、聖書の救済論理で整理すると、そこに何が生まれるであろうか? それは一言で言うと、聖書の自己主張を裏切らない、しかも会衆一人ひとりに、彼自身の個性的に味わわれる「聖書神学」が生まれる。」