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 言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

合戦峰天子祭りに

2020年12月20日 | 歴史探偵

   

 今日は(合戦峰天子祭り)でした。朝9時から準備と聞いたので出かけてみました。合戦峰天子という山江村の文化時指定史跡があります。そのずーっとむかし、景行天皇が熊襲征伐に来られたときに(輿を降ろして休憩された)という場所です。人吉球磨に20ヶ所ほど‘天子’地名が現存しています。

 どこからか聞きつけて熊大のO先生が見にやってこられました。民俗等の専門ではなく生命科学の理学博士の先生です。3月に退職されて好きなことのひとつに(天子/天神)のことをっ趣味のようにして調べ歩いているとのことでした。合戦峰のことを聞かれて見に来られたのです。いろんな話ができました。熊本、大津、菊池などでの(天神祭り)で合戦峰のように縄を7回半廻すというのがあるのだそうです。(なぜ、7周半なのか)が疑問で調べておられるのだそうです。

      

 

            

 寒い中に合戦峰の方(17軒)の方が寄られて縄うち→縄づくりと供えるための道具作りなどの準備をされました。大繩は40mほどなわれました。1時間以上かかってのたいへんな作業です。そのあと、天子の所へ行ってその縄を7周半廻されて取り付けられました。すぐ近くの天子水(湧き水)の所にも供え物をされました。

 珍しい行事です。O先生も珍しいと感想を述べられて帰られました。終わったのは12時過ぎ、去年よりも長くかかったようです。地域の方にはたいへんなことですが無くしてはならない地域の行事です。行事そのものも村の指定にしようと準備をしています。天気は良かったのですが寒かったです。

 今日の天気(

 


文化財の衰亡のこと

2020年12月17日 | 歴史探偵

 むかしのものがこうやって無くなっていくという話です。無くならせてはいけないということを前提に語ってみます。しかし、ちょっと間違ったり手遅れすると無くなるかもしれないということです。

        

 先日、電話が間接的にあったのです。相良村柳瀬、八ツ田薬師堂の近くの墓地のことです。7月の水害でお墓等が倒れているということでした。八ツ田薬師堂は水害前もその後も何度も行っていましたが200mほどしか離れていないのに、ここにはこれまで行ったこともありませんでした。八ツ田薬師堂は、元実相庵というお寺で明治のはじめ頃に廃寺になったということです。その近くにお坊さんのお墓等があったのを河川改修等の理由で移されたという記録は残っています。しかし、元の場所がどういう位置にあったのかは分かっていません。郷土研究会の調査記録を見ると、「六角塔婆」や「法身塔」などあまり見れないものもあるようです。

 先日、行ってみました。倒れていたりしていました、水害前の状況が分からないのではっきり分かりませんでしたが、このまま放置しておくと草むらに埋もれて分からなくなると思いました。無縁墓地になっているので荒れ放題なのに、この水害で追い打ちをかけたということになりそうでした。誰かが何処かで手をかけなければ無くなると思います。墓地なので難しい問題もありますが、関係機関に話しかけて、どうにか立て直しだけでもしたいものだと思いました。

 今日も一日中寒い一日でした、朝も-3℃くらいまで下がって起きるのがやっとでした。

 今日の天気(


万江 西福寺に

2020年12月16日 | 歴史探偵

      

 今日は午後から万江 西福寺に。毎年、仏像を1体ずつ3D撮影しています、仏さまには怒られそうなのですが、グルグル回しながら写真撮影をして映像3D化しています。資料館のHPではバーコードから見ることができますのでぜひご活用を。上から下から横から斜めから見れることができます。いつでもどこでも見れます、再生も可です。まだ撮りためている段階でどう活用していくかはこれからの課題です。今日は西福寺の阿弥陀如来像です。製作年がはっきりしませんがたぶん江戸はじめ頃の作と思われます。京都辺りで造られたと思われるような仏さまです。そのうちにHPにUPしますのでぜひご覧になってください。

 西福寺はりっぱなお堂で、今の建物は江戸はじめ頃に造られたものだと思います。総代さんがおられたので棟札のことを聞きましたが⇒知られませんでした。たぶん屋根裏にあると思うのですが、そのうちに見てみたいと思われるものです。

       

     ご本尊の阿弥陀如来立像です。

 撮影はwadaくんと写真屋さんに任せて万江の奥地に出かけてみました。白嶽まで行こうと思ったのですが、寒くなってみぞれ風になってきたので荒神の庚申塔の写真を撮って引返してきました。たぶん、今日は山は雪が降ったのではないでしょうか。寒い一日になりました。

 今日の天気( 一時 小


山城の季節~山田城

2020年11月18日 | 歴史探偵

 冬場は(山城探索)の季節です。この冬になって初めて登りました。土曜日に求麻郷土研究会からのお願いがあって山田城探索をします。半年ぶりなのでルートの確認等のことをNakayamaさんにお願いしました。

  

    城の下には高速道路、高速の向こう側が山田平野と人吉盆地 

 この城は南北朝時代に活躍した城で典型的な山城です。「郭」「土塁」「堀切」がよく見れます。高速道路で東面が断ち切れたので、途中部分から一気に山登りしなければなりません。しかし、主部分は高速道路には壊されなかったのが幸いでした。しかし“堀切”と“土塁”を上り下りしなければならないのでちょっとたいへんです。

      

        3番目の堀切です、小さい堀切です、ここの杉を切りたいのですが。

              

             安全対策 トラロープを張りました。

 一昨日からNakayamaさんには探索ルートづくりをしてもらいました。今日の午後、手伝って私も登ってきました。危ない箇所にはトラロープを張ってきました。明日明後日と雨が降るようなので土曜日は足元は悪そうですが、実施します。どなたさんでも参加してください。

 21日 午前9時集合 山江村役場駐車場集合 午前中の予定 ちょっときついハイキング的な服装がよいです。

 午前中は、医療センターでした。行き付け病院になっています。9時ころ行って1時くらいまでかかりました。たいへん待たされました。

 今日の天気(一時


(続) まだまだ・・ Wanted

2020年11月17日 | 歴史探偵

 昼過ぎに4人で来館されました。先日、連絡をもらった方でした。写真の仏像を持ち込まれました。松橋の方でした。三角・戸馳島・若宮に行かれたときに拾われたとのことでした。わが家に保管していたが、TVニュースで企画展のことを知って電話した、今日は行ってみよう!と持ってきたとのことでした。

       

 手はもぎ取れて川に流され海を漂って傷だらけの仏さまでした。お堂の仏さまではなく、たぶん家庭で拝まれていた仏像のように見えました。できることならば(元の居場所に帰ってほしい)と願っておられました、企画展で展示してその旨を紹介して持ち主さんを探そうと思っています。どうしても見つからなかったときは、(私が預かります)(これも何かの縁だから)と話されました。

 世の中、火事場泥棒もいますが、このような人もおられるのです。“拾う神さま”がおられるということです。しかし、仏さまからすれば、元の場所に帰りたいと思っておられるはずです、できうる限り探し出したいと思っています。(人吉)か(球磨村)か(坂本)だと思います。

 被災された家庭は、まだまだわが家の復旧が精いっぱいで流されたものを探し出すという所まではいっておられないと思います。そこをどうにか探し出せないものか、無い知恵を絞る必要があります。なにか情報がありましたら教えてください。Wantedです。

 暖冬が続いています。私は寒いよりいいですが、世の中的には影響が出て困るのでしょうか。

 今日の天気(薄い霧 →  )


まだまだ・・

2020年11月14日 | 歴史探偵

 渡の(大黒さん)は人吉新聞に掲載してもらったおかげで持ち主さんが見つかりました。家から流されていたとのこと、4か月ぶりに見つかったことになります、ところがわが家も被災されていて安置する場もないことから見つけられたお宅に一時保管することになったそうです。持ち主さんも大黒さんもしばしの仮住宅住まいなようです。

    

 昼から資料館に行ったところ、一王子神社から(男神像)と(蟇股かえるまた)が持ち込まれていました。片付けておられたところ出てきたのだそうです。まだまだ、今回のような例があるのかもしれません、球磨村では片付けがずいぶんと進んでいるようです、川に流されていた木材片などの流失物が多量に流れ着いています。その片付けがされています。その中に貴重なる仏像等があってゴミと一緒にされて処分されることを心配しています。今回は見つかってよかったです。

 昨日は宇城市三角から電話で、海岸に仏像が流れ着いていて保管しているとの連絡がありました。写真等を送ってもらうように連絡取り合っているところです。

 4か月を過ぎました、被災文化財も見つかったりすることの方が稀で、まだまだ行方不明なものばかりです。まだまだ・・なのかもしれません。

 今日の天気(霧→


お墓掃除

2020年11月08日 | 歴史探偵

   

        before

           

                after

 masudaくんが主宰している「阿吽の会」があります。平重盛の墓五輪塔群の整備の立役者さんたちです。今日はその阿吽の会が例年おこなっている(了清院墓地)の清掃ボランティアに参加してきました。もう25年くらい続けているボランティア活動です。この墓地には江戸時代の藩主や武士のお墓がたくさんあります。了清院というお寺がありましたが幕末の寅助火事で焼失した後、建て替えられることなく廃寺になった処です。そのあと荒廃したまま長い間無縁墓地になっていたのをmasudaくんが見つけ出して、仲間を募り毎年春秋に清掃ボランティアをしているのです。私は時おり手伝うくらいです、今日は久しぶりでした。

 8人ほどの参加でした。しかし約2時間ほどで大まかキレイにすることができました。20数年前はやぶ状態ですごかったそうです。いまは毎年2回ほど草払いが為されているのでずいぶんと楽になったようです。私も鎌を1本握って草や竹を切り払いました。草の中に埋もれてしまったお墓などもあって踏みつぶしたりもします(ドキッです)しかし久しぶりにお天道さんの下に現れたお墓もありました。

 多くは江戸時代のお墓です、いちばん新しいのは?と聞いたら(明治10年西南の役で亡くなられた人の墓)でした。150年で無縁墓地になるのかと嘆いたところ、いまはもっと早く無縁になるばいと誰かが語りました。少子、高齢化、過疎化・・田舎の哀れさがこんなところにもあるのです。阿吽の会も70歳代です、たぶんこの墓地もそのうちに再荒廃の道を歩むはずです。しかし、できるところまで先人の魂の宿る場所を日に当てたいもだと思いました。そんな気持ちで鎌をふるいました。

 今日の天気(→一時


文化財にもメジャーとマイナーが

2020年11月02日 | 歴史探偵

     

 

  マイナー(minor)をネット辞書で引いたら(小さいこと、少ないこと、あまり重要でないこと)とありました。メジャー(major)はその反対語で(大きい、多い、主流だ、重要だ)のようです。大小、多少はありうることですが、主流とか重要とかはだれがどのように判断するのでしょうか。

 マイナー、メジャーを文化財から考えてみようと思っています。文化財でいうメジャー、マイナーは指定、未指定と云ってもいいのかもしれません。メジャーは重要で、最も重要は国宝になっているようです。しかし数的のは少ないはずです(ここがちょっと違う)

 最近の文化財に関するニュースで(青井神社の池掃除にボランティア300人)、(熊本城に1個人で1億円寄付)のことです。平重清の墓復元には37名です。八ツ田薬師堂のお堂再建にはまだ2000円ほど、です。

 これが日本の現状です、300人もいらない・・・もっと人手が欲しいところはたくさんあります。1億円もいらない(あればあるほどいいのは当たり前)・・・10万円でもいいからほしいお堂はたくさんあります。

 メジャーとマイナーの違いは何でしょう。宣伝力の差なのですか、力がある人がいると集めやすいのですか・・たいへんなる疑問を持ち始めました。被災しているのに拝殿が片付けもなされていない神社がまだまだあるのです。全壊したので再建したいのに金繰り「0」のお堂がほとんどなのです。

 熊本は地震でも水害でも強者は立ち直り、弱者はしぼんだまま、と言われてしまいそうです。こんな変なこと、みんなでどうにかしませんか。マイナーなところは訴えがヘタなだけなのです。文化財的価値はそんな変わらないです。こんなことをネチネチとやっかみ(ひがみ根性)で訴えていこうと思いました。

 山江村歴史民俗資料館では被災した神仏像やお堂の再建のため、寄付を募っています。1億円なんて(欲しいけど)いりません。100円、1000円で充分です。ただし1人ではなく10人、100人、1000人のお力が必要です。ぜひ、ご協力を。

 ひがみ根性でこれからも引き続き訴えていきます。やっかみは続くです。

            

 今日の天気(

 


陣の内に捜索

2020年10月30日 | 歴史探偵

     

 

          

           電信柱の右にお堂が在った場所です、向こう側に流れていったようです。

 午前中に陣の内・池王堂の神仏さんを捜索に協力しました。跡形もなくなったお堂のすぐ近くの田んぼに瓦がたくさん散らばっていました。地元の方と一緒に探しました。瓦がたくさん集中しておる場所の瓦をどかしてみました。田んぼも数十cmは土砂で埋まっています。その下にだと見つけることは難しいです。田んぼから数百m下流域の球磨川まで歩きながら見つけ歩きました。それらしきものは見当たりませんでした。お堂の建物の破損残がいすら見当たりませんでした。たぶん球磨川まで流れていったのかもしれないと思いました。大柿まで流れ着いていた‘女神さん’はこのお堂のものなのかもしれません。

             

      まだ、こんな様子です、前は球磨川、先には高速橋が見えます。

 相良村誌をみると、このお堂には5体の神仏像があったと記録されていますが、地元の方は4体だと言われます。この中の1体・女神さんが記録してある30㎝とは一致するのですが、はっきりとは分かりません。市町村で悉皆調査をしてきちんと記録しておく必要性を感じました。

 お堂の近くに“五輪塔があった”ということだったので、近くを探したら地輪だけは見つかりました。上の方は見つかりませんでしたが、石なので近くの何処かに埋まっているのかもしれません。いちおう終わってからお茶を飲みながら‘陣の内’のことをいろいろと話してもらいました。いろんな(わたし的には)面白いことがたくさん聞けました。

    

     五輪塔の地輪(陀 佛)が見えます

 今日の捜索でいい結果はありませんでしたが、地域の方の思いを引き出すことができてよかったです。まだまだ(続く)のことでした。

 今日の天気(


歴史に学ぶ

2020年10月28日 | 歴史探偵

 被災してきた文化財資料をみるといろんなことがわかってきます。先人たちが今の私たちに伝えてくれていることもよくわかります。今日はその一つの例を紹介してみます。

     

 一王子神社から運ばれてきた棟札2枚です。棟札とはお堂や祠や寺社、民家などの屋根裏の高いところに附けられた記念碑的な木の札です。この家(神社、お堂)は誰が何時作ったというようなことが書かれてあるのです。どこの家の屋根裏にもあるはずです。

 今回被災した一王子神社からも2枚の棟札がみつかって運び込まれて見ることができます。神社は整理統合されているものが多いです。一王子神社(渡阿蘇神社)も近くの熊太郎神社が一緒になっています。(合祀と云われています)。 写真の左が熊太郎神社の棟札です。右が一王子神社のものです。

 熊太郎神社のには(貞享3年再興)と書かれています、1686年に造り替えたときの棟札です。むろん、そのときの建物はなく、棟札だけが残されているのですが、今では貴重なる歴史史料になっています。

 一王子神社のは「奉造作一王子大権現宮社者地頭願阿并長直息災安穏子孫 應永四丁卯季・・・」と表面に書かれています。応永4年(1397年)に建てられたときのもののようです、ところが裏面に「当社棟札星霜相積難文字見故新造之書写畢 于時宝暦十四甲申・・」と書かれているのです。要約すると、應永の棟札は字がかすれて見えにくくなったのでそのまま買い写して新しくした、ということのようです。書き写した年が宝暦14年(1764年)とあります。應永のままで600年経っていたら、見えなくなっている文字がたくさんあったかもしれません、宝暦に書き直してもらったので、いまでもきちんと読むことができます。ありがたい判断をしてもらったと思います。おかげで今の時代に一王子神社の歴史が正確に伝わっているのです。記録の大切さを痛感させられる貴重な棟札です。

 その棟札も含めた神社の貴重な文化財が被災したのです。600年で初めての大きな被害だったのではないでしょうか。600年も繋がってきた文化財をここで絶やさないように今の私たちは頑張るしかないのです。復旧復興にご協力ください。

 今日の天気(