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 言わなければよかったのに日記

 私が見たこと、聞いたこと、感じたこと、頭にきたこと・・・を(ありのまま)に伝えます。

東間小へ

2021年04月03日 | 歴史探偵

 午後から東間小へ行ってきました。ムスコの調査にお付き合いでした。東間小に教材室(郷土資料室)があります、私の10数年前の記憶ではちょっと珍しいものが集められていました。ムスコの興味は錦町の発掘出土品でした。残念なことにありませんでした。

   

          

 今日は休日でしたが、年度初めの仕事があるからと教頭先生に対応してもらいました。4月に赴任されたばかりのNakamoto先生でした。教材室のあと、会議室(資料室)を覗かせてもらったら、「出藍」石碑の写真がありました。調査目的のひとつでした。赤池水無町の天神溝に架かっていた石橋を転用されたのが(記念碑)になっているのです。移動の顛末が写真アルバムにしてありました。写真をコピーさせてもらいました。ほとんど忘れ去られている石橋転用のことなのです。歴史を知ると当時の人のご苦労が分ってその意味合いがもっと深くなります。ムスコがその移設顛末記をまとめると言っていますので、何らかの役に立つと思われます。学校には写真を中心とした“歴史資料”が残されているものです。機会と協力を得て写真のデータ化をしたらよいなあ思ったことでした。

 昼間はポカポカ陽気になりました。

 今日の天気(時々


歴史ウオーキングに

2021年03月27日 | 歴史探偵

 今日は毎年いま時期に行われる“人吉街道ウオーキング”があったので参加してきました。9時に東関コミセン集合で赤池方面を巡りました。昼前まで約3時間弱・・いい運動と脳トレになりました。

    

 赤池観音 いつもは閉じられているため堂内には初めて入りました。町内会長さんに連絡してあったので堂を開けてもらっていました。33観音巡りのお堂で主尊もはじめて直に見ることができました。

 赤池菅原神社へ。そして天真寺に。ここいら一帯が“赤池城”です。中世城なのではっきりした遺構はみれませんが天然の地形そのものが城址といってもよいところでした。近くの集落も城下町風に(町立て)されたのではないかと思われるような道路の通じ方でした。

           

 今日歩いた1㎞周辺に9つの庚申塔がありました。なぜ集中してあるのだあろうとmasudaくんと喋りましたが二人の意見は(一向宗禁制)につながりました。

 天気もよくて、参加者も多くてよかったです。わが家の愚息が案内説明役をしていましたが上手くこなしていたのでビックリしました。

 今日の天気(


照角へ

2021年03月21日 | 歴史探偵

 今日は計画していた「照角探訪会」に出かけました。いちおう呼びかけてはいたのですが(わずか)7名の参加でした。ちょっと呼びかけが上手くできなかったですが人が多いとたいへんだったと思いました。結果的にはちょうどよい参加者でした。

 照角(てるかく)と書きましたが古い表記です、今の地図では(照岳)とあります。しかし、地元の人は(てるかく)と呼んでいる山です。この山は中世から江戸時代までの八代へ抜ける道路が通っていました。「殿さん道」とか呼ばれています。西南の役で薩摩軍、官軍も通った道です。

            

             照岳頂上 標高506m

 前から気になっていたところだったので地元matumotoさんに案内を頼んで実施したのです。殿さん道がどうなっているかを確認すること、その途中に(鬢水びんみず)といわれる場所や西南の役台場跡を確認することでした。思ったよりも(殿さん道)はきちんとしていました。

   

 (鬢水)は、鎌倉初めの頃、相良頼親が「承久三年剃髪シテ観仙大徳ト號ス」して「庵ヲ照角山ニ結ビ文永元年五月二十二日逝ク。乃チ馬草野ノ正持寺ニ葬リ併セテ照角山ノ一宇及ビ影佛ノ地蔵菩薩ヲ移シ以テ墓石ニ代フ。」という記録があります。この鬢水周辺に庵を置いて過ごされたのだそうです。その跡と思われる場所に地蔵碑が建てられていました。

         

           途中、切通しと思われるようなミチもみられました

 ちょっときついトレッキングでした。でも(道)は歩けるし、少し整備すれば観光にも使えると思いました。私は途中コースを外して急登で照岳を目ざしたので膝が痛くなって“コンドロイチン”が必要なくらいにはなりました。西南の役台場跡は確認できませんでした、また計画して確認しなければ、です。

 今日の天気( 時おり小雨)


古屋敷へ

2021年03月01日 | 歴史探偵

 3月1日です、広報配布日だったので朝から町内会館へ、いつもの6名で準備をしました。いろんな情報交換をしながら配布準備です。約760世帯分を地区ごと、班ごとに仕分けです。広報紙とあと2種類あったのですが約1時間ほどで終わりました。

 昼から水上村“古屋敷”へ。気になっていた地区だったので無理して行けてよかったです。“中世鰐口の新発見”もありました。・・このことは慎重を期したいので後日に・・もっと歩き廻る必要を感じました、人吉球磨にはもっと“中世鰐口”が出てくるような気がしました。

   

       白水阿蘇神社

              

 古屋敷の“白水阿蘇神社”に初めて行きました。拝殿までは入れましたがむろん本殿には入れませんでした。記録によると“古い神像”があるようです、一度、ご拝観したいものです。すぐ近くにお堂が在りました。老夫婦がで椎茸原木の切り出しをしておられたので尋ねたら(うちで祀っている)とのことでした。弘法大師像や仏像数体が祀られていました。山の中でひっそりとっ信仰されていることに感動しました。老夫婦が居なくなったらどうなるだろうと要らぬ心配をしました。

 たぶん十数年振りの古屋敷探訪でした。すっかりとさみしい集落になっていました。

 今日の天気(一時 夜


万江谷 屋形へ

2021年02月22日 | 歴史探偵

 午後から屋形へ、屋形で工務店経営のYくん宅へ。じつは7月豪雨で自宅が被災して既に解体して借家住まいです。その借家がume先生の実家です。近い親戚なので借りているとのこと、納屋等を片付けていて、農具等が出てきたので見てほしいといわれて出かけたのです。はじめて見たもので(特許 伊達式製茶焙乾機)と書かれた高さ1mちょっとの道具がありました。製茶は釜炒り茶が主だったと思っていたので、面白いな、調べてみようと思いました。声かけてもらってよかったです、処分は(捨てるのは)簡単なのですが、無くしたものは二度と帰ってきません、資料館でできうる限り保存していきたいと思っています。捨てる前にぜひ声かけてください(古物商人になっていますので)

 帰りに柚木川内のYaさん宅に寄ってきました。自宅庭に写真の庚申塔があるのです。文化財看板を取り付けるのでその承諾を得てきました。ビックリしたのは7月の豪雨で床上1m以上浸水されたとのことでした。まさかと思ったので驚きでした。万江川流域もあちこちと被害があったことを遅かりしですが知ることができました。島田商店も解体されて無くなっていました。

 今日の天気(→一時

   

   柚木河内の庚申塔

     所在地 山江村万江柚木川内

     正保四年(1647年) 高さ117㎝ 幅35㎝

     左右の面に人名、元禄九年の燈籠にも多数の人名がみえる。右の燈籠はいぼの神様として祀られて       います。

 


1月25日

2021年01月25日 | 歴史探偵

 写真がボケていますが白髪神社の三十六歌仙の絵馬です。いま、絵馬に興味があって神社に行ったら見ることにしています。と同時に絵馬の勉強をしなければとオークションで本を買っています。今日、「筑紫路の絵馬」という本が届きました。送料も入れたら1500円ほどでしたが(ちょっと高いのですが)九州のものはあんまりないので入札しました。この本の序文の絵馬について「絵馬を社寺に奉納し、所願成就を祈る習俗は古く奈良時代に始まるといわれています。時代の推移にともない、絵馬本来の馬を描いたものから種々多様な画題が描かれるように・・」とあります。

 まだ勉強中なのではっきりしたことはわからないのですが、人吉球磨の特徴ではと思うことに(鯰絵)があるのです。他の地域とは違ったものではと思っているのですが調べてみたいことです。写真の三十六歌仙はこんな田舎にあってはエリート的な不思議な画題です。万江阿蘇神社にもあります。庶民の習俗とはかけ離れていると思うのですが・・何故なのでしょうか。面白いです。

 多くの絵馬は劣化しています。何が書かれてあるのかすらわからないものも見たことがあります。これから多くの神社を見て歩いて記録しようと思っています。今年の歴史探偵家としてのひとつの仕業にしようと思っています。見て歩いて記録して、そして資料館で「人吉球磨の絵馬展」につなげようと思っています。

 今日も3月くらいの温かさだったのではないでしょうか。今週末には寒がぶり返すという予報が怖いくらいの昼間でした。

 今日の天気(()


引継がれてきたことが

2021年01月12日 | 歴史探偵

     

 写真は先日初めて行ってみた中神町馬場の子安観音堂内の板書きです。地域の観音堂を守るために地域の方で約束事が書かれてあったのです。

(観音さま御茶立て覚え書)・・内容は(お茶たての日 旧暦6月17日)(当番 馬場婦人会にて班ごとのもち廻りとする、班員の増減により当番班の分割・合併は、その時の状況により話し合って決める)(大豆は二升(約3キログラム)準備する)(平成7年7月14日 慣例を記す)

と書いてありました。これを読みながら何となく微笑ましく思いました。ここの集落ではこの観音堂を中心にまとまっている、地域のつながりを感じたのです。みんなで協力し合って地域のお堂(仏さま)を守っていく・・そして仏さまに守られて毎日を過ごしていくというのを感じたのです。お堂の中もきれいに掃除してありました。供え物もきちんとあげられていました。

 各集落には必ずと言っていいほどお堂やお地蔵さまが座っておられ、地域の安全を守っておられます。しかし、残念なことに、ほおっておかれているのではと思われるお堂を見かけることがあります。いつ掃除されたのだろうという所にもしばしば出くわします。人が少なくなったのか信仰心が薄れたからなのか分かりませんがお堂のご本尊さんは嘆かれているのではないでしょうか。

 そんなときに出くわしたお堂でした。嬉しく思いました。こんな地域の絆がいつまでも続くことを願っています。これまで引き継がれてきたものを(いま)断ち切ることはできないからです。

 今日の天気(


歴史探偵ごっこ 事始め

2021年01月04日 | 歴史探偵

 午後からすっかり正月でなまくらになった体を揺り動かして‘歴史探偵ごっこ’に。

 気になっていた人吉の‘天子’に。人吉は3か所、葦原の天子はわが家の近くなのですが、残りは(中原)と(原田)とあって私は詳しく知りませんでした。昭和55年刊の報告書に中原周辺の地図があって、⛩(天子)と⛩(天下大明神)と記述してあったので、それを手掛かりに歩き回ってきました。⛩(天子)は中原の天子のようです。7月の豪雨で(大柿地区の川反対)浸水したところです。その痕跡は何もありませんでした。今度の水害ではなくて圃場整備でどうにかなっているのではと察しました。地元の人に聞かないと分からないようでしたので、後日に再度行く必要があります。

 ⛩(天下大明神)は原田のようです。西門という集落でお年寄りの方に聞きましたが分かりませんでした。地名としては(天下山 あもりやま)は知っておられました。“ゴソ山”だった、いまは病院施設が建てられているところだと教えられました。病院建築のときに整備されて無くなったような感じでした。ここももっと聞き取りが必要でした。

     

      右が石造地蔵菩薩立像、左は木造釈迦如来坐像です

 けっきょく2か所ともその存在すら消滅しているのではないと思われました。ちょっと残念なることでした。しかし、天子を捜し歩いていてお堂3か所があったのでお参り&写真撮影してきました。今年はじめての歴史探偵ごっこの収穫でした。上の写真は2mほどもある石造地蔵立像さんです。お堂の名前が分かりませんでしたがそのうちに調べます。りっぱなお地蔵さまでした。他のお堂の仏さまも立派でした。そのうちに紹介します。

 今日の天気(霧→

 


天子のこと 3

2020年12月28日 | 歴史探偵

 孫たちは2学期も終わっり冬休み中です。孫ムスメ②は学童クラブへ、孫ムスコは一日中家の中、孫ムスメ①は今年最後の午前中部活・・送り迎えの役が廻ってきました。12時終了の前に中央高校近くの(京ヶ峰の天下神社)に立ち寄ってきました。(天子探検)の続きです。

     

 はじめて「天下神社」に行ってみました。ここも(景行天皇伝説)の地です。ただ(天下)と書いて(あもり)と呼ばれています。入口の鳥居には(天下神社)とありましたが境内には(八坂神社)の案内板も、合祀されている神社のようでした。また、境内には小さなお堂が(阿弥陀如来坐像)が鎮座しておられました。

 拝殿までは入れましたが本殿はのぞくことはできませんでした。したがってご神体や七周り半のことは不明でした。この場所には‘湧水地’は見れませんでした、ちょっと離れて球磨川なのと小高い山のところなので湧水はあるのかもしれませんが不明でした。(天下)と書いて(あもり)という読み方、すぐ近くには‘京ヶ峰横穴古墳’があって(南限に近い装飾古墳)なんとはなく古代を思わせるような雰囲気のところではありました。今日も答えは出ずに謎は深まるばかりでした。

 今朝はそんなに冷え込みもなく昼間はポカポカ陽気でした。年末の寒波襲来の前の静かな一日になりました。

 今日の天気(霧→

 


天子のこと

2020年12月26日 | 歴史探偵

 10時過ぎに資料館をちょっと覗いて、それからO先生以来気になっていた(天子)のことで、深田、相良まで出かけてみました。

   

     天子の池

       

           天子神社

 深田は草津山に‘天子の池’と‘天子神社’があるのです。はじめて行ってみました。天子の池周辺は公園化されていて、祭りも行われていることを新聞で知ってはいました。湧水地でその周りに菖蒲などを植えて公園にしてありました。草津集落のすぐ下にこの遊水地はあって、そこには当然ながら‘水神さん’が祀られていましたし、たくさんの水が湧き出ていました。集落の上の方に(ちょっと離れてます)神社はありました。この場所にも‘七周り半’らしきものは見当たりませんでした。神社はカギがあって外から眺めた分には普通の神社でむろんご神体を見ることはできませんでした。

 それから相良村三石の天子へ。なにも見当たらなかったので、通りかかられた人に聞いたら、景行天皇の話は知っておられて‘天子’という地名の場所を教えてもらいましたが、そこまででした。この場所にはその形跡すらないのかなと思いました。

       

         三石の‘天子’近くにある相良南小の前身:三石小学校跡地です

 二ヶ所とも合戦峰のような七周り半の風習等は見当たりませんでしたが(水)とは関係するような場所でした。天子という謎はまた深まったばかりでした。しばらく追いかけて見ることにします。

 いよいよ今年も押し詰まってきました。

 今日の天気(霧→一時