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経済大国のこれから

2015-12-02 11:18:17 | 教育
書物を通して広く自分の考えを伝えることが大切である。それには、読む人に親しみのある文字を使うことが必要である。
漢字の通用する範囲は、特亜三国 (日本・韓国・中国) 内だけである。だが、我が国の技術を高く評価する領域は世界規模に達しているから、我々の言葉には世界規模で通用させる価値がある。そこで、その価値に見合った国際語にふさわしい表記法が必要になってくる。さすれば、我が国民の考えは世界に広く影響力を持ち、人類の進歩に貢献できる。
目先・手先の事柄ばかりに気を取られていると、’とかく話がちいせえのう’ ということになる。我々には世界観が必要である。グローバル (global: 全世界的) な、ユニバーサル (universal: 全宇宙的) な観点からの考えが必要である。
現在は、’グローバルIPアドレス’ が世界の電算機をつないでいる。我々の文字もグローバルに通用するものにしたほうが良い。その方が、日本人の考えを広く世界に伝えることになる。細かな心遣いも必要であるが、大きな視野に立った決断も必要である。

今や、知識はアジア大陸から入るのではなく、欧米から入ってくる。漢字文化の輸入時代は、遠く過ぎ去った。我々は、縦文字でなく、横文字の恩恵を多く受けている。
我々がアラビア文字の練習をする暇が無いように、非漢字圏の人たちには、日本に来て漢字を習う暇が無い。漢字を覚えても、最新技術の方は欧米からのものである。漢字は国内で遊んでいる。
表記が難しい言語には、親しみが持てない。日本語をローマ字表記にすれば、日本語に親しみが持てる。技術はローマ字表記の英語についている。だから、日本語のローマ字化は、日本人を英語に近づけるためにも、非漢字圏の人々を日本語に近づけるためにも役に立つ。我が国の国際化は目に見えて進む。堪え難きを堪え、忍び難きを忍んで、我々は日本を世界に近づける努力をしなくてはならない。

日本人も、英米流の考え方をもっと知らなければならない。現今の英語のカタカナ表記では、英語の理解が十分得られない。カタカナの表記による外来語を単に ‘てにをは’ で結んだだけでは、日本語の考え方の枠を出ることはできない。カタカナ表記の英語では、英語の辞書が使えない。地図の索引が引けない。手紙の内容もあて先も書くことができない。入手できる英語の内容は、全て日本語にゆがめられた二番煎じのものとなる。だから、外国の考え方を受け入れたことにはならない。カタカナ英語に安住してはいられない。ガリガリ勉強する人は暗記力を使うけれども、日本語の考え方に終始する。だから、創造力を伸ばせない。勿論、議論もできない。

国産車も横文字の名前のものが多い。その名前は車体には金具で表記されるが、そのカタログの方はカナ文字表記で出ている。日本語を学ぶときには、ローマ字表記をそのままにするのがよい。漢字・かな変換を使わない。英語を学ぶときには、カナ表記は使わないで、英米流のローマ字表記をそのままにする。表記法の変更は一時的な混乱をもたらすけれども、それは明治維新のようなものである。その恩恵は、莫大なものになる。避けて通ることのできない我が国第三の開国の道である。

日本人は、正しい考え方を知らない。正しい考え方とは、矛盾を含まない考え方である。これは、言葉遣いを教える我が国の国語教育とは次元を異にする。
日本語には、階称 (言葉遣い) というものがある。言葉遣いは文法ではないが、これを知らないと日本人社会の日常会話にも差支えが起こる。だから、日本人の誰もが学ばなくてはならない内容である。私も子供の頃、’言葉遣いが悪い’ と再三注意を受けていたが、正しい考え方とは関係がないことを薄々感じていた。事実、大人たちは、正しい考え方とは別なことを話していたのである。
山本七平は「『空気』の研究」のなかで、そのことを指摘している。
「驚いたことに、『文藝春秋』昭和五十年八月号の『戦艦大和』でも、『全般の空気よりして、当時も今日も(大和の)特攻出撃は当然と思う』という発言が出てくる。この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人びとにはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確の根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全くなく、その正当性の根拠は専ら『空気』なのである。最終的決定を下し、『そうせざるを得なくしている』力をもっているのは一に『空気』であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である。」と書いている。

我が国は仏教国とされているが、国民は果たして本当にインド人の考えを理解しているのであろうか。
ヒンズー語には時制があり、インド人は瞑想を基にして前世・現世・来世の内容を発想し展開させている。輪廻転生の発想が生涯ついて回り、その内容に心を悩ませることも多い。だから、解脱が必要である。釈迦牟尼を頼りにしている。時制が無ければ、涅槃の状態になる。

英語にも時制があり、英米人に経験をもとにして過去・現在・未来の内容を発想し展開させている。
‘我々はどこから来たか’ ‘我々は何者であるか’ ‘我々はどこに行くのか’ など、各時制に対応した内容を個人的に考えるようになる。考えは非現実の内容である。現実の内容は頭の外にあり、非現実の内容は頭の中にある。彼等は非現実をも考える、考え人になる素養を持っている。

英米人には意思がある。意思は未来時制の文章内容である。英語には時制がり、意思があるので加害者意識 (罪の意識) を伴う。罪の意識にさいなまれるので、贖罪の宗教が必要になる。他人の罪まで背負って贖罪に励む奇特な人物が現れたなら、その人を神様としてもよい。罪の意識は深刻な反省を伴って個人の行為を変える。この反省は人類の進歩につながる。

特亜三国の言語には時制が無い。だから、特亜三国人は世界観を持たない。あの世に関する内容に自らの発想・展開を持たない。だから、我々はどこにも行かない。死んでも墓の中に納まっている。(インド人には墓が無い。彼らはすぐ他所に生まれ変わるので墓は必要でない。)
この世の中に変化が無ければ天下泰平である。この世の内容は、見た通り、言われた通り、教えられた通りになっている。そうでなければ、それは嘘である。
意思が無いので、加害者意識 (罪の意識) も無い。反省も深刻なものとはならない。何が過ちかもわからない。安らかに眠ってください、過ちは繰り返しますから。
我々には社会秩序を保つために、修身斉家・治国平天下の教育が必要である。明らかな内容の暗記力がものを言う。だか、その先は暗い。創造力は期待されていない。あるべき姿は、今ある姿と乖離しているから悲憤慷慨が絶えない。世界観が無いので、相手と心を合わせて団結して未来社会を建設するということが考えられない。これまでの日本人は、序列制度を基にした拘束力により団結を維持してきた。

意思は未来時制の文章内容であり、日本語には時制が無いので日本人には意思がない。
意思のあるところに、方法がある。日本人には意思が無いから、意思決定に時間を要する。問題が長引いて、被害がどんどん拡大する。責任者がいても、その人には意思が無いので、責任感を言動により表すことができない。
指導者がいても、誰も責任者の意思決定により、問題が解決されるとは考えてもみない。ただ、問題が長引いて、困ったものだとだけ考えている。これでは指導者は愚鈍で、部下は愚直ということになるのか。日本語脳に意思が無いので機転が利かない。ただ、定められたことだけを繰り返す。この過程が日本人の残酷物語を生み出すもとになる。

<日本はなぜ敗れるのか・敗因21か条> を著した山本七平の指摘する事例からも、大和民族敗退の過程は見て取れる。その一例を以下に掲げる。
私が戦った相手、アメリカ軍は、常に方法を変えてきた。あの手がだめならこれ、この手がだめならあれ、と。 、、、、、あれが日本軍なら、五十万をおくってだめなら百万を送り、百万を送ってだめなら二百万をおくる。そして極限まで来て自滅するとき「やるだけのことはやった、思い残すことはない」と言うのであろう。 、、、、、 これらの言葉の中には「あらゆる方法を探求し、可能な方法論のすべてを試みた」という意味はない。ただある一方法を一方向に、極限まで繰り返し、その繰り返しのための損害の量と、その損害を克服するため投じつづけた量と、それを投ずるために払った犠牲に自己満足し、それで力を出しきったとして自己を正当化しているということだけであろう。(引用終り)
意思が無いところで起こる ‘指導者は愚鈍、部下は愚直’ の仕組みが良く分かる。浅はかである。衆愚の世界から抜け出すためには、意思の重要性を理解し、ぜひ意思を我が物としなければならない。英語を習得すれば、我々にはそれが可能になる。だから、我々は縦文字よりも、横文字の方により親しまなくてはならない。優柔不断・意志薄弱では、この企てには取り掛かれない。意思のあるところに方法がある。清水の舞台から飛び降りるようなものか。Bungee jumping か。

非現実の内容に辻褄を合わせることができれば、哲学ができる。そうでなければ、その内容は、矛盾と同居して空想・妄想となる。真面目になれない。
現在のわが国民は、無哲学・能天気である。だから、我が国はアニメ・漫画大国になった。
哲学を取り入れることができれば、考えに深みが出る。我が国民は、常に自分の ’あるべき姿’ を念頭に於いて判断を下すようになれば、世界基準を提唱できる人になる。


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