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分かったつもり 1/2  

2021-08-09 18:07:52 | 文化

>369341        人はわかったつもりになる  >匿名希望       21/08/08 PM07

>私達の周りには普段からたくさんの情報が広がっている。 >それは人との関係や物など様々。>それらを分かったつもりになっていないか?

 

そうですね。我々は分かったつもりになっている。もっと謙虚な態度が必要ですね。   

 '私は、私が何も知らないということを知っている'。 (ソクラテス)     [無知の知] 'I know that I know nothing'.  

 

>以下リンク(リンク)

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>「相手の1%」を見て、人はわかったつもりになる >「レッテルを貼る」と本来の姿は見えにくくなる > 脳は、相手にレッテルを貼るのも大の得意です。

 

そうですね。馴れ合いとか なあなあ主義 とは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることですね。  

見ることのできる内容は本当の事である。見ることのできない内容は嘘である。誰しも嘘つきにはなりたくない。だから、自分の頭の中にある非現実の内容は語らない。これが、日本人の思考停止の原因である。

現実と非現実 (考え) は区別して語らなければならない。そうでなければ、現実の内容は白昼夢と区別できない。これはキチガイ沙汰に違いない。だから、日本人は自分の持つ非現実 (考え) を語らない。これは子供と同じ状態である。日本人の考えの内容は筋の通った哲学にはならずして、支離滅裂の空想・妄想の類になる。だからわが国では英米式の高等教育が成り立たない。お陰様で、わが国は '漫画・アニメ' の大国になっている。  

現実の内容は頭の外にある。だから、見ることが可能である。見ればわかる。アニマルでもわかる。だから、考える必要はない。これは楽ちんである。正解はただ一つである。これは人とアニマルが共有する非言語の世界である。

非現実 (考え) の内容は頭の中にある。だから、見ることができない。それは、ただの話である。その内容を知るには文法に基づいて単語の内容を逐一理解しなくてはならない。これは、骨の折れる仕事である。だから、通常、日本人は理解をしない。忖度 (推察) で代用して済ませている。理解は人間だけが持つ言語の世界である。その対極は ‘なれ合い’ とか‘なあなあ主義’ である。これらは、真の意味での検討や意見の交換などをせず、お互いに「なあ、いいだろう」ぐらいの話し合いで全てを済ませることである。

理解と忖度は似て非なるものであるから注意が必要である。忖度 (推察) は聞き手の勝手な解釈であるから、話し手には何の責任もない。たとえ両者の間に齟齬が存在しても議論にもならない。現実直視になっていないことを忖度の主に指摘しても、'だって、私は本当にそう思ったのだから仕方がないではないか' と懸命に反発するので話にならない。かくして、日本人の対話は不可能になる。

 

>この人はこんなタイプのひとだというレッテルを貼ることで、その相手とどんな風に自分が付き合うかをサッと判断してしまいます。 >「血液型がB型だからマイペースなんだろう」 >「すごく強面でケンカも強そうだなあ」 >ちょっとした言葉のやり取りや行動などから、色々なレッテルを勝手に貼ってしまうことは誰でもあると思います。  

 

それは第一印象ですね。   

 

>しかし、長い付き合いの中で相手を深く知るようになると、意外にそのレッテルが間違っていることに段々気づきます。  

 

人は見目よりただ心。   

 

>「マイペースのように見えてたけど、意外と協調性もあるんだ」「強面だけど、じつは優しい部分もあるよね」など、何気ない言動から相手に対するイメージが変わる瞬間があるのではないでしょうか。>ただし、出会ったばかりの頃に一度相手にレッテルを貼ってしまうと、相手の本来の姿をそのまま100%で見れなくなってしまいます。>つまり、相手の表面・表層に現れている1%の部分だけを見てコミュニケーションをしてしまうので、99%の潜在意識を深く理解することからは遠ざかってしまうのです。  

 

私は絶対に日本人を信用しない。昨日までの攘夷論者が今日は開港論者となり、昨日までの超国家主義者が今日は民主主義者となる。これを信用できるわけがない’  (あるアメリカの国務長官

変わり身の早さは日本人の得意芸ですからね。目先・手先の事柄に神経を集中させていますね。現実があって非現実 (考え) の無い人間の特徴ですね。  

 

>たとえば、「うつ」というレッテル。 >ある女性は、ちょっと元気がないときに仲のいい同僚にランチの席で「わたし、うつかも~」と冗談半分に話したセリフを、たまたま近くの席で耳にした同じ部署の男性社員が本気にしてしまい、「部長、Aさんうつらしいですよ」と報告されてしまったことがありました。 >その部長は、丁度父親がうつ病で入院していたので「そうか、うつか…」と深刻に受け止め、その女性の上司を呼び出して「Aさんに厳しく指導していないか?」とかなり厳しい口調で叱責をしたそうです。  

 

早合点は怪我のもとですね。    

 

>コミュニケーションでは主に「言葉」を使いますが、同じ言語を使う人間同士でも、同じ単語から必ず同じイメージが浮かび、同じようなものの見方をするとは限りません。 >単語から連想するイメージは、人それぞれバラバラなのです。>一般的な定義がある程度固まっている単語ならともかく、定義があいまいの言葉なら、なおさらイメージはバラバラになってしまいます。  

 

司馬遼太郎は、<十六の話>に納められた「なによりも国語」の中で、片言隻句でない文章の重要性を強調している。

「国語力を養う基本は、いかなる場合でも、『文章にして語れ』ということである。水、といえば水をもってきてもらえるような言語環境 (つまり単語のやりとりだけで意思が通じ合う環境) では、国語力は育たない。、、、、、、ながいセンテンスをきっちり言えるようにならなければ、大人になって、ひとの話もきけず、なにをいっているのかもわからず、そのために生涯のつまずきをすることも多い。」      

 

>ビジネスの世界でよく見聞する「パワハラ」という言葉に関しても、その一つです。

>上司に精神的に苛められ、人格まで否定されるイメージをする人もいれば、やりたくない仕事を頼まれただけでパワハラだと受け取る人もいるなど、レッテルや名前に対する認識は様々だと思います。 

 

そうですね。個人のリーズン (理性・理由・適当) が問題になりますね。    

 

>有名な話ですが、自動車メーカーの日産をV字回復させたカルロス・ゴーンは日産の立て直しの際に、まず社内で使われている言葉の「辞書」をつくったと言います。 >たとえば、「期末までに利益をこれだけ出すことに対してコミットメントする」という話をしたときに、日本人は「できるだけ努力する」というイメージでコミットメントという言葉を使っていました。 >しかし、ゴーン氏はそれではダメだと強く言ったのです。 >「我々がコミットメントと使うときは、それが達成できなければクビが約束される。 >それぐらいの覚悟でやることを指すのだ」、と。>日本人はコミットメントと口で言いながら、達成できなくても何も変わらずそこにいる。>それはおかしいのではないか。 

 

そうですね。敗戦の日本に敗戦の責任者が出ないようなものですね。日本人には自他共に責任感というものがない。     

 

 

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