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日本人の知的能力を増進するための提案をするブログです。

苅谷剛彦氏 3/7  

2021-02-11 22:30:14 | 文化

 

>100年前の報告書が示す「知に対する謙虚さ」

>苅谷:新著『コロナ後の教育へ』の中でも書いたのですが、100年前にスペイン風邪の流行が収束した際に、当時の内務省衛生局が『流行性感冒』というタイトルで報告書を書いています。 >この報告書を読むと、当時の公的部門の専門家たちがこの大流行をどう捉えて、どういったふうに記録として残したかということがよくわかります。 

 

全ての考えは文章になる。文章にならないものは考えではない。  

 

>彼らは、その報告書を歴史的資料にしようとは思っていなかったと思いますが、100年後の現在の視点から見ると、彼らの知的な態度はとてもフェアなんです。 >当時はまだウイルスという概念がありませんから、細菌学の知識から菌を発見し、感染症に対応しようとします。 >現在の医学の知識からいえば、これは根底から間違っているわけですが、当時トップレベルと言われた北里研究所は、細菌学の知識に基づいた感染症対策を日本でリードします。>当時のマジョリティは、細菌学に基づいた、北里研究所の細菌説でしたが、『流行性感冒』の報告書は、細菌説に反対する立場の人の意見も公平に記しながら、他国では細菌説を否定する議論もあることや、細菌説が必ずしも確たる事実によって認められているわけではないことも書き記しており、どちらかの側に立つのではなく、未知の感染症を多元的な見方で捉えようとする態度をとっています。

 

人により考えの内容は様々ですからね。  

 

>須賀:特定の立場に立とうとしないわけですね。  

 

公的部門の専門家達は党派的ではなかったですね。   

 

>苅谷:『流行性感冒』のレポートは、学者だけの抽象的な議論ではなく、私たちの生活に直結する問題を提起しています。 >私は、この、特定の立場に立たないフェアネスを「知に対する謙虚さ」とパラフレーズしましたが、一般の人たちが読むことを前提とした報告書の中で、このようなフェアネスを示すということは、ある種の「知に対する謙虚さ」を表していることでもあると思います。  

 

そうですね。   

 

>私たちは、それぞれの場面で決断を下さなくてはなりませんが、社会には、唯一のベストな選択肢というものは存在しません。  

 

全ての考えは文章になる。矛盾を含まない文章は、すべて正しい考えを表している。だから正解は多数ある。      

 

>ですが、自分たちで情報を集め、それらを組み合わせる中で、少しでもベターな判断をすることはできます。 >そして、多元的な見方で、多様なベターな選択肢の中から、さらにベターな選択肢は何なのかと考えることが、「知に対する謙虚さ」だと思います。  

 

中庸の徳ですかね。    

 

 

 

 

>苅谷剛彦(かりや・たけひこ) ノースウェスタン大学で博士号取得(社会学)。

>東京大学教育学部教授を経て、2008年よりオックスフォード大学社会学科およびニッサン現代日本研究所教授。

>専門は社会学、現代日本社会論。

>主な著書に『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『階級化日本と教育危機』(有信堂高文社、大佛次郎論壇賞奨励賞)、『教育の世紀』(弘文堂=ちくま学芸文庫増補版、サントリー学芸賞)、『教育と平等』(中公新書)、『追いついた近代 消えた近代』(岩波書店、毎日出版文化賞)、近刊に『コロナ後の教育へ:オックスフォードからの提唱』(中公新書ラクレ)(写真:本人提供)

 

>須賀千鶴(すが・ちづる)/世界経済フォーラム第四次産業革命日本センターの初代センター長を務める須賀千鶴。

>現在は「グローバル・テクノロジー・ガバナンス・サミット」の準備に明け暮れる。

>同サミットは世界経済フォーラムが「テクノロジーの恩恵を最大化し、その力を統御する」ことをテーマに掲げた国際会議。

 

 

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