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ジャン=ノエル・ロベール氏  

2024-10-05 23:37:14 | 文化

>現代ビジネス   >ユダヤ教・キリスト教・イスラム教との決定的な違いはなにか?「不世出の語学の天才」が解明した仏教の「計り知れない奥深さ」。   >学術文庫&選書メチエ編集部によるストーリー・   >8時間・   

>約2500年前のインドに生まれた仏教が、アジアに生まれた他の無数の宗教とは異なり現在の世界に広がっているのは、なぜなのだろうか?    

>唯一神を信仰するユダヤ教・キリスト教・イスラム教との大きな違いとは?    

>講談社選書メチエの『仏教の歴史 いかにして世界宗教となったか』(ジャン=ノエル・ロベール著/今枝由郎訳)は、多言語に通じた著者の視点で、「仏教の強さ」を明らかにしている。   

>コーランはアラビア語、カトリックはラテン語、では仏教は?   

>本書の著者、ジャン=ノエル・ロベール氏は、仏教を中心とした日本文化の研究で国際的に高く評価されるフランスの東洋学者で、2021年、第3回人間文化研究機構日本研究国際賞を受賞している。    

>ロベール氏は、母語であるフランス語のほかに、中国語・日本語・英語はもちろん、朝鮮語、サンスクリット語、チベット語、ラテン語、ギリシャ語…などに通じた「ポリグロット(多言語話者)」で、学生時代から「不世出の語学の天才」と称されていたという(本書「訳者解説」)。   

>そして、その能力は、仏教研究においても存分に発揮されてきた。   

>ロベール氏は、さまざまな言語の仏典と言語資料を読み込むことで、仏教の世界的な広がりと多様性を明らかにしてきたのである。    

>ではなぜ、仏教には「さまざまな言語の仏典」があるのだろうか?   

>実は、「さまざまな言語に翻訳されてきた」ということこそが、世界宗教としての仏教の大きな特徴なのだ。   

>一方、一神教であるキリスト教やイスラム教、ユダヤ教は、必ずしもそうではなかった。   

>〈言語の問題は経典と切り離すことができない。   

>コーランはその原語であるアラビア語でしか学習されないし、ヘブライ語のモーセ五書だけが今日でも書写されるということを知らない人はいないだろう。   

>また今から数十年前までは、カトリックでは聖書はラテン語で読まれていた。   

>言語と宗教は密接に繫がっている。〉(『仏教の歴史』p.25)   

>仏教と同じくインドに生まれたヒンドゥー教でも、〈神々と人間の完全な言語〉としてサンスクリット語が尊重されてきた。   

>ところが仏教は――    

>〈諸々の精神的伝統の中で、仏教は開祖がその教えをある特定の言語に限定してはならないと規定した最初であり、ブッダは各々の民族の言葉で教えを伝承することを推奨した。   

>仏教の伝道者たちが、その教えをインドの内外に伝えた時、彼らの最初の仕事は受け継いだ教えをまずは口頭で、次いで文字で翻訳することであった。〉(同書p.25-26)   

>開祖であるブッダ自身が、他言語への翻訳を推奨していたのである。   

>言語からみた仏教の「意外な歴史」は、まだある。   

>原始仏教といえば「梵語」すなわちサンスクリット語、と連想してしまうが、どうやらこれは日本人特有の「誤解」らしいのだ。   

>日本の仏教寺院では、よく「梵字」を見かけるが、ブッダ自身が梵語(サンスクリット語)で教えを説いたわけではなかった。   

>むしろ〈サンスクリット語は最初は仏教徒に軽蔑されたが、そのうちに主要な伝道言語の一つとなった。〉(『仏教の歴史』p.26)という。   

>〈ブッダ在世当時およびその後の何世紀にもわたって、インドの宗教的、知的で偉大な言語はサンスクリット語であった。   

>ブッダは明言してはいないが、弟子たちに彼の教えをサンスクリット語にしないようにと忠告していたと伝えられており、初期の仏教徒たちは意識的にサンスクリット語を避けてきた。   

>その理由は、サンスクリット語とバラモン教との繫がりがあまりにも強かったからであろう。〉(同書p.118-119)   

>バラモン教とはヒンドゥー教の前身で、仏教以前からインド宗教の主流だった。   

>しかし紀元1世紀頃から、バラモン教の聖典以外でもサンスクリット語が使われるようになると、そうした状況に追随して、仏教もサンスクリット語を用いるようになった。   

>そして――   

>〈中国文化圏では、そして不思議なことに日本では、サンスクリット語は「ブラフマー神〔梵天〕の言葉〔梵語〕」として真言を記すのにもっとも有効な言葉となり、それを記すインド文字〔梵字〕も同じように見なされた。〉(同書p.119

>中国語よりヨーロッパ語の方が翻訳しやすかった?   

 

そうでしょうね。印欧語という同じグループの言語ですからね。印欧語の文法には時制 (tense) というものがある。  

時制のある文には世界観が在る。世界観とは、過去・現在・未来とか前世・現世・来世とか呼ばれるそれぞれに独立した三世界の内容である。これらの内容は非現実の内容であり、考え・哲学  (インド哲学・スコラ哲学) の内容である。   

日本語の文法には時制がない。だから現実の内容があっても、非現実の内容が無い。人々は実学 (技術) に励む。哲学が無い。これは子供の状態と同じである。         

 

未来時制の文があれば、自己の意思の内容が表現できる。すると加害者意識も経験する。罪の意識に苛まれることもある。それで深い反省に陥ることもある。その原因究明にも手が着けられる。それで学習効果が上がる。人類の進歩に繋がる。      

意思の無い人間には責任も無い。日本人には意思が無い。だから何か事故があれば、責任者を出すなの大合唱が起こる。かくして原因究明の努力は沙汰止みになる。そして学習効果も無くうやむやに終わる。兎角この世は無責任。        

‘誰も責任を取りたがらず、誰も自分に責任があると言わなかった。・・・・・ 一般国民が軍部や文民官僚の責任と同等の責任を負っていると心から考えている人はほとんどいなかった。’ (ジョン・ダワー 増補版 敗北を抱きしめて )  

 

>それでは、初期の仏教では、いったい何語が用いられていたのだろうか。   

>最古の仏教テクストとされるテーラワーダ(東南アジア系仏教)の仏典は、「パーリ語」で記されている。   

>パーリ語は、アショーカ王の帝国で用いられていた言語に近いといわれるが、現在は使われておらず、仏典や仏教儀式の用語として伝わるのみだ。   

>しかも、〈パーリ語はブッダ自身が話した言葉ではないことはほぼ確実である。   

>それゆえに、これはすでに翻訳ということができる。〉(同書p.118)という。   

>また、仏教は「アジアの宗教」と思いがちだが、それも結果からみた思い込みらしい。   

>〈かつて仏教がインドから中国に伝播したことは、文化的には(中略)度肝を抜くことであった。   

>ヨーロッパの諸言語は、中国語、日本語、チベット語よりもインドの諸言語に近い関係にあり、仏教概念の翻訳はそれ以上に難しくはないはずである。〉(同書p.18)   

 

インド・ヨーロッパ語族は文法的に互いに似ていますね。文法に時制 (tense) というものがあって、意思があって、加害者意識があって、罪の意識があって、地獄がある。地獄の落ちないために宗教がある。      

 

>パーリ語やサンスクリット語と同じ「インド・ヨーロッパ語族」に属するヨーロッパの言語のほうが、中国語よりも翻訳しやすかったはずだ、というのだ。   

>こうして仏教は、中国語やチベット語、東南アジア諸国の言語をはじめ、モンゴル語、コータン語、トカラ語、西夏語…など様々な言語に翻訳された。   

>そしてその言語に新たな文字文化を誕生させたり、その土地の文法学や論理学、さらに言語文化や文学・思想の源泉にもなった。    

>その結果、〈仏教の計り知れない多様性は他の宗教に見られるものを遥かに超えている〉(同書p.18)といい、〈仏教を一律に語ることはほとんど不可能である〉(同書p.27)という。   

>〈仏教は、多様な文化に対する並はずれた適応能力によって、特異な豊かさを呈している。   

>それゆえに、仏教徒ではなくても、仏教研究は魅惑的である。〉(同書p.27)   

>この巨大な翻訳活動から生まれた多様性こそが、「世界宗教」としての仏教の「深さ」であり、キリスト教やイスラム教、ユダヤ教とは大きく異なる「強味」なのだ。    

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