幾度となくご紹介したファニー・クロスビーの詞。
盲目の詩人たる彼女にとり、
十字架は特別な場所でした。
それをうたうこの詞は、最初に
日曜学校の歌集に収められていたといいます。
作曲はウィリアム・ハワード・ドーン。
524番もこの二人の手による讃美歌でした。
実業家でもありましたが、音楽の才に秀で、
ファニー・クロスビーの多くの詞に曲をつけました。

――愛のしたたる 十字架さして
原詩では、それを「癒しの流れ」とし、
貴い泉から誰にでもただで与えられ、
それはカルバリ山から出ずる、としています。
――我はほこらん
私は誇ります。
わが栄光をただ十字架に捧ぐ、ということです。
――天ついこいに 入るときまで
「つ」は格助詞で「の」の意味。
今も「まつげ」は「目の毛」として残ります。
神の国の安らぎの中に入るときまで。
原詩では「天」という語はなく、
「その川の向こうに」と暗示されるに留まります。
――今ぞ知りぬる ふかきめぐみ
今まさに分かりました。十字架の深い恵みが。
「弱い」というより「へりくだった」の感じが原文にあり、
明星が自分を照らしてくれる情景が描かれています。
――たえず御蔭に よらせたまえ
いつも神の守りの中に頼らせてください。
そういうふうな意味なのでしょうが、
原詩もともに、神の小羊の影が自分の上にさしかかり、
そこを歩かせてください、となっています。
まさに私たちは、小羊の影の中を歩いているというのです。
――十字架のもとに 立ちてぞ待たん
十字架のそばで見つめ、待ちましょう。
望みと信頼を抱き、あの川の向こうにある
黄金の岸辺にたどり着くまで、と。
詞のタイトルが
「イエスよ、私を十字架のそばにおらせたまえ」
というような意味で、
各節は「十字架のそばに」で始まり、
おりかえしの部分が「十字架において、十字架において」と
繰り返し歌われる、
霊的で印象的な歌詞となっています。
日本語もそのように努力していますが、
おりかえしの最初を「十字架、十字架」と
繰り返すと、原文の感じがよく出ていてかもしれません。
盲目の詩人たる彼女にとり、
十字架は特別な場所でした。
それをうたうこの詞は、最初に
日曜学校の歌集に収められていたといいます。
作曲はウィリアム・ハワード・ドーン。
524番もこの二人の手による讃美歌でした。
実業家でもありましたが、音楽の才に秀で、
ファニー・クロスビーの多くの詞に曲をつけました。

――愛のしたたる 十字架さして
原詩では、それを「癒しの流れ」とし、
貴い泉から誰にでもただで与えられ、
それはカルバリ山から出ずる、としています。
――我はほこらん
私は誇ります。
わが栄光をただ十字架に捧ぐ、ということです。
――天ついこいに 入るときまで
「つ」は格助詞で「の」の意味。
今も「まつげ」は「目の毛」として残ります。
神の国の安らぎの中に入るときまで。
原詩では「天」という語はなく、
「その川の向こうに」と暗示されるに留まります。
――今ぞ知りぬる ふかきめぐみ
今まさに分かりました。十字架の深い恵みが。
「弱い」というより「へりくだった」の感じが原文にあり、
明星が自分を照らしてくれる情景が描かれています。
――たえず御蔭に よらせたまえ
いつも神の守りの中に頼らせてください。
そういうふうな意味なのでしょうが、
原詩もともに、神の小羊の影が自分の上にさしかかり、
そこを歩かせてください、となっています。
まさに私たちは、小羊の影の中を歩いているというのです。
――十字架のもとに 立ちてぞ待たん
十字架のそばで見つめ、待ちましょう。
望みと信頼を抱き、あの川の向こうにある
黄金の岸辺にたどり着くまで、と。
詞のタイトルが
「イエスよ、私を十字架のそばにおらせたまえ」
というような意味で、
各節は「十字架のそばに」で始まり、
おりかえしの部分が「十字架において、十字架において」と
繰り返し歌われる、
霊的で印象的な歌詞となっています。
日本語もそのように努力していますが、
おりかえしの最初を「十字架、十字架」と
繰り返すと、原文の感じがよく出ていてかもしれません。