トラカリコン!

「虎・借り・コン!」。虎の威を借りた狐。虎の威を借りて吠える狐が私…。虎が何であるかは、本人にもわからない。

「国民の皆様の目線」という言葉

2007-11-15 23:29:18 | 政治や経済
11/13のブログでリンクした演説に「国民の皆様の目線に立って」という言葉が使われた。(むすび ― 自立と共生の社会に向けて)の第3段落にこんなふうに出てきます。 「将来のあるべき日本の姿を見据え、どのようにその姿に近づけるかを常に念頭に置きながら、国民の皆様の目線に立って、改革を続行してまいります。」(下線は私がひいた)それまでの項目で、特に官僚の「国民の立場に立った行政」・社会保障制度は「国民の立場に立ったもの」・年金をめぐる問題は「国民の立場を軽視したこと」・「消費者の立場に立った行政」…というように、国民の立場を意識すると宣言している。<今現在の多数の国民の立場・そしてそこからの目線>と<指導者の目線>のギャップはどう考えたらいいだろう?政治・行政がそのギャップやむなしと宣言する際の根拠は、(建前である場合も多いが)国全体としての利益じゃないかなあ…。そのギャップを肯定的に受け入れる覚悟がある人達は(そう、小泉元首相が「米百俵」で例えた演説に「よっしゃあ!」と応じた)多いし、今もやむをえない犠牲だとわかっている(だって、例えば少子高齢化は明らかだもの)。私はそうです。ただ、その犠牲が予想外の形と長さで、また、政治と行政が唱える国全体としての利益が多数の国民の思惑とは違うらしいので、ためらいを感じる。指導者層の目線は、被指導者層のそれよりも、広く深く、そして遠い先まで届くものであってほしい。そういう目線が国単位での妥当な利益を探り出すという前提があるから、指導者層・被指導者層の二手に分かれてこの社会を支える…という制度がとられているのだと思う。同時に、「権力は腐敗する」といった事実が紀元前から繰り返され、永遠になくならないんだろうなあ、とわかっている。なくなったら、それはSFです。弱かったりせこかったりずるかったり惨めだったり。意識的にしろ無意識的にしろ、どの人間にもそういう部分は必ずある(と、私は思いますが…)。21世紀の日本の改革に限らず、そういうのはないという前提で法や制度が作られることがある。ほんとにSFです。今の日本では、各自・各組織が内蔵・制御・解消してきた弱さ・せこさ・ずるさ・惨めさの一部が、「国民の皆様」の間を婆抜きのジョーカー状態で巡っているように感じる。社会保障制度なんて、年齢等で利害が対立する選択しかあり得なくなっている。知事同士でも地方と大都市で仲間割れ状態だ。両方とも長く続くんだろうなあ。嫌だなあ。こういう条件の下で仮定される「国民の皆様の目線」って、演説者の立場で考えると玉虫色で使えるんだと思う。偽装請負で派遣労働者を使っていた企業の経営者の政府への発言権は、弱まったようには見えない。この、大企業経営者という国民の目線は、あの所信表明演説では対象外にされていると私は思った。が、あくまで演説の中でのこと。そいういった現実を充分踏まえている例えば官僚達が、「国民の皆様の目線」を本気で仕事に活かす姿勢に転じるものだろうか?私個人の思い出をここで推測材料として出すのは、ものすごく狭い了見なんだけど。職場に委員会もできて「セクハラは悪事」と認めざるを得ない仕組みがいよいよ作られてしまった、前の勤務先のおじさん達のことです。部下のセクハラを注意するよう指示された上司は、「最近はうるさいから仕方ない」という文脈で語るのだった。おじさん同士でわざとぶつかっては、「あ、セクハラ!」と言い合い、言葉の意味をどんどん薄めるのだった。「セクハラ対策委員会」で処分された重症な件は、委員会の外では処分された加害者が庇われるのだった。「建前」に対して仲間内ルールが余裕で優る、そういう組織はある。面従腹背で嵐をやりすごす。難関試験を突破した官僚と程度の低いサラリーマンを同類に考えたらひんしゅくかしら?ロシア革命で経営者が・中世欧州のペスト蔓延時にはユダヤ人が・関東大震災発生直後の東京では朝鮮半島からの住民が、不満や恐怖を解消するための生贄にされた。今の日本では、特定の集団をそのような人柱にする大きな流れは目立たない。落ち着いた立派な国民だと思う。(…と、大昔の日本人が言霊というものを信じていたことにならって、書いてみる。だって、ああいうの、ほんとに嫌だもんね…。状況の異常さが段違いな出来事と比べるのは間違ってる、とわかっていますとも)家庭内での怨恨とか、個人に対する犯罪とか、自殺者が依然として多いとか、明らかに何かが壊れている。「国民の皆様の目線」というのは、言葉としては謙虚で心がこもったものだと思う。だが、扱いによっては情けないほどに色褪せて、自嘲やあきらめやからかいの意味で使われそうだ。指導者というのは、誓った言葉を貶めないように力を尽くすべき職業なのではないだろうか?福田首相は、大風呂敷を広げない所信表明演説をした。だが、こういった無難な平凡な言葉までもが今の世の中で色褪せてしまったら、政治の大部分が嘘っぽくなってしまう。そう、言葉の力がまた殺されるのだ。いや…。「美しい国」みたいなハイテンションな言葉なら、最初から嘘っぽいから実害は小さいんだけどさ。福田さんの堅実さが裏目に出ませんように。
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