ネットで見かけたのだが、安倍元首相の死に「因果応報」という言葉をあてはめる人達がいるとか。
それで考えてしまったのが。「因果応報」ではなく「自己責任」があてはまらないのだろうか、ということ。
安倍元首相も元首相を支持する人達も多用してきた言葉だ。
一昨日辺りから、後藤健二氏殺害の実行犯がアメリカで無期懲役という判決を受けた、というニュースが報じられていた。最近書いたばかりの後藤氏の拉致・殺害の件の続報が久しぶりに流れた。これも何かの縁?
・・・というわけで、安倍氏・後藤氏のことを比べさせてもらう。
(1) 共に、仕事中に事件に巻き込まれた。
(2) 共に、危険な地帯に踏み込んでいた。
(2)については説明したい。
後藤氏は、危険だから行くな、と指定された国・地域で拉致され殺された(もちろん安全確保の手段は講じていたが、相手に裏切られた)。
しかし、そういう地域での取材も仕事。「仕事」というだけでなく「使命感」もあるだろう。そういう姿勢の人でないとできない。命がけで真実に近づいて報道する。
一方、安倍氏はどうか。
「危険だから行くな、と指定された国・地域」に足を運んではいない(演説地点については危険だったが)。
だが。旧統一教会やジャパンライフという法的にも罪を重ねた集団と関わり続けた(暴力団か何かに謝礼が足りないとかで自宅に火炎瓶が投げ込まれたこともあったような・・・)。国内の、反社会的な暗黒な領域に踏み込んでいたわけだ。
一般人としては、たとえとっても有能でも、反社会的な人達に関わりたくないだろう。「後が怖い」と「素人」は思うわ〜(昭和末期の上場企業だと、「総会屋」対策に「その筋の人」を呼んだりしていたかもしれない。当時の株主総会なんて「目標10分で終了」みたいな方針があったし。隣の部署が担当だったのでよくわからないが)。
また、日本国内で主に経済的に苦しむ人達にも「自己責任」は容赦なくぶつけられてきたし、本人も「自己責任」という概念を内在化している場合もある。
つまり、「危険だから行くな、と指定された国・地域」は「自己責任」の決定的な要因ではない。日本国内でも該当する。
(1)に戻って。
「戦場にも行くジャーナリスト」はいかにも危険な仕事だ。で、日本の政治家はどうだろう。
多くの人から恨まれだり怒(いか)られたりたりする立場だ。
与野党政治家に対するどろどろした文章はネット上で大量に見られるし。現実に、最近では立憲民主党の辻元議員は事務所に侵入した男に危害を加えられそうだったし、同じく福山議員も該当活動中に男に殴られたし、前長崎市長は選挙演説中に射殺された。昭和時代には、与野党問わず刺殺や刺殺未遂事件の被害者となった政治家は何人もいた。
安倍元首相にも言えるのだが、生きた個人としてではなくシンボルまたは加害者の意に反する問題の構成要素として、狙われることもある。ただの八つ当たりもありそう。
つまり。
日本の政治家には、戦場にも行くジャーナリストほどではないだろうが、上のような危険がある。だから政治家の幹部クラスにはSPがついている。
・・・ということは、日本の政治家も危険な部類の仕事だろう。
背負ったものの大きさが違う? それは職業で区別するってこと? 私は賛成できない。
功績の大きさで差をつけるのは有り、かもしれない。だが、多くの人が言うように、元首相の功績は評価が分かれている(国内に分断を作ってきた安倍氏なので、死後も分断が続くのは自然な気がする)。
なお、後藤氏はオバマ氏などからも讃えられていた。
・・・と、書いてきたが。
私、「自己責任」という言葉が今ひとつ理解できてないもので。
「自己責任だ」と見捨てられる人達の「責任」とは? 見通しが甘かったとか準備不足だったとか?
しかし。運の悪さが分かれ目って場合もあるだろうし。
単純すぎる分類・曖昧すぎる言葉、と思っている。
そう思いつつ。後藤氏は「自己責任」と突き放されたけど、それなら安倍元首相も同じような判定をされるのも有りでは・・・と上のように考えてみた。
なのに。安倍元首相は国葬される(弔問外交という利点を唱える人達はいるが。費用対効果は低そう)。後藤氏の遺体はどうなっているのだろう。遺族に引き渡されてすらいないのでは?
元首相と後藤氏に対する扱いの違いがこんなに大きいのは妥当だろうか?
命の価値は変わらないはずなのに、どうしてこうなるのだろう。
両者の差は、もっとなだらかでいいのでは。少なくとも、社会を二分するよりも建設的な気がする。
つまり、安倍元首相の国葬には反対です。
(蛇足。
「旧統一教会の名称変更の法的な是非」がこんなに論争されているのに、元首相の国葬は法律をすっ飛ばして行なわれるのね〜 「分断」というより「別世界」な感じ)
それで考えてしまったのが。「因果応報」ではなく「自己責任」があてはまらないのだろうか、ということ。
安倍元首相も元首相を支持する人達も多用してきた言葉だ。
一昨日辺りから、後藤健二氏殺害の実行犯がアメリカで無期懲役という判決を受けた、というニュースが報じられていた。最近書いたばかりの後藤氏の拉致・殺害の件の続報が久しぶりに流れた。これも何かの縁?
・・・というわけで、安倍氏・後藤氏のことを比べさせてもらう。
(1) 共に、仕事中に事件に巻き込まれた。
(2) 共に、危険な地帯に踏み込んでいた。
(2)については説明したい。
後藤氏は、危険だから行くな、と指定された国・地域で拉致され殺された(もちろん安全確保の手段は講じていたが、相手に裏切られた)。
しかし、そういう地域での取材も仕事。「仕事」というだけでなく「使命感」もあるだろう。そういう姿勢の人でないとできない。命がけで真実に近づいて報道する。
一方、安倍氏はどうか。
「危険だから行くな、と指定された国・地域」に足を運んではいない(演説地点については危険だったが)。
だが。旧統一教会やジャパンライフという法的にも罪を重ねた集団と関わり続けた(暴力団か何かに謝礼が足りないとかで自宅に火炎瓶が投げ込まれたこともあったような・・・)。国内の、反社会的な暗黒な領域に踏み込んでいたわけだ。
一般人としては、たとえとっても有能でも、反社会的な人達に関わりたくないだろう。「後が怖い」と「素人」は思うわ〜(昭和末期の上場企業だと、「総会屋」対策に「その筋の人」を呼んだりしていたかもしれない。当時の株主総会なんて「目標10分で終了」みたいな方針があったし。隣の部署が担当だったのでよくわからないが)。
また、日本国内で主に経済的に苦しむ人達にも「自己責任」は容赦なくぶつけられてきたし、本人も「自己責任」という概念を内在化している場合もある。
つまり、「危険だから行くな、と指定された国・地域」は「自己責任」の決定的な要因ではない。日本国内でも該当する。
(1)に戻って。
「戦場にも行くジャーナリスト」はいかにも危険な仕事だ。で、日本の政治家はどうだろう。
多くの人から恨まれだり怒(いか)られたりたりする立場だ。
与野党政治家に対するどろどろした文章はネット上で大量に見られるし。現実に、最近では立憲民主党の辻元議員は事務所に侵入した男に危害を加えられそうだったし、同じく福山議員も該当活動中に男に殴られたし、前長崎市長は選挙演説中に射殺された。昭和時代には、与野党問わず刺殺や刺殺未遂事件の被害者となった政治家は何人もいた。
安倍元首相にも言えるのだが、生きた個人としてではなくシンボルまたは加害者の意に反する問題の構成要素として、狙われることもある。ただの八つ当たりもありそう。
つまり。
日本の政治家には、戦場にも行くジャーナリストほどではないだろうが、上のような危険がある。だから政治家の幹部クラスにはSPがついている。
・・・ということは、日本の政治家も危険な部類の仕事だろう。
背負ったものの大きさが違う? それは職業で区別するってこと? 私は賛成できない。
功績の大きさで差をつけるのは有り、かもしれない。だが、多くの人が言うように、元首相の功績は評価が分かれている(国内に分断を作ってきた安倍氏なので、死後も分断が続くのは自然な気がする)。
なお、後藤氏はオバマ氏などからも讃えられていた。
・・・と、書いてきたが。
私、「自己責任」という言葉が今ひとつ理解できてないもので。
「自己責任だ」と見捨てられる人達の「責任」とは? 見通しが甘かったとか準備不足だったとか?
しかし。運の悪さが分かれ目って場合もあるだろうし。
単純すぎる分類・曖昧すぎる言葉、と思っている。
そう思いつつ。後藤氏は「自己責任」と突き放されたけど、それなら安倍元首相も同じような判定をされるのも有りでは・・・と上のように考えてみた。
なのに。安倍元首相は国葬される(弔問外交という利点を唱える人達はいるが。費用対効果は低そう)。後藤氏の遺体はどうなっているのだろう。遺族に引き渡されてすらいないのでは?
元首相と後藤氏に対する扱いの違いがこんなに大きいのは妥当だろうか?
命の価値は変わらないはずなのに、どうしてこうなるのだろう。
両者の差は、もっとなだらかでいいのでは。少なくとも、社会を二分するよりも建設的な気がする。
つまり、安倍元首相の国葬には反対です。
(蛇足。
「旧統一教会の名称変更の法的な是非」がこんなに論争されているのに、元首相の国葬は法律をすっ飛ばして行なわれるのね〜 「分断」というより「別世界」な感じ)