さわやか易

人生も歴史もドラマとして描いております。易の法則とともに考えると現代がかかえる難問題の解決法が見えてきます。(猶興)

良寛の学識

2014-04-22 | 名僧たちの求めたもの

亀田鵬斎。1752~1826


50代の良寛は越後では群を抜いた学識を身につけていた。漢詩、和歌、書において当代一流の教養人と言って過言ではない。良寛の学識の高さを証明する逸話がある。

江戸で千人を擁する塾を開いていた儒学者・亀田鵬斎がいた。老中・松平定信が行った寛政異学の禁(朱子学以外は認めないとする)により、塾を閉鎖することになる。豪放磊落で知られる鵬斎は酒を友に東北へ2年間の旅に出る。越後に滞在したとき、良寛を五合庵を訪ねる。59歳の鵬斎と53歳の良寛は意気投合した。街に出て大いに酒を飲んだ。

そのとき良寛は鵬斎を詠じて
鵬斎は倜儻(てきとう)の士/何に由ってか此の地に来る/昨日、閙市(どうし)の裡(うち)/手を携へて笑、咍々(かいかい)
一方、鵬斎も良寛を詠じて
爾(なんじ)を羨む能く超脱/僧と雖も僧に類せず/酒盃、千万鈞(きん)/談笑、一龕灯(がんとう)/去住、心に着くる無く/人天に事へて憑(よ)るべし/我を伴うて五獄に終り/彼岸且(しばら)く登ること遅し

その後江戸に帰った鵬斎は良寛のことを喜撰(きせん)法師以来の傑僧だと周囲に語っている。(喜撰法師は平安初期の僧で六歌仙の一人。「わが庵はみやこのたつみ鹿ぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」百人一首)

五合庵の良寛は座禅もしたが、勉強も半端ではない。詩は唐の寒山、書は唐の懐素(かいそ)、歌は万葉集を手本にした。全て書は人に借りたが、貸してくれる知人は何人もいた。最も世話になったのは前回登場した阿部定珍(さだよし)である。例えば当時出たばかりの20巻の万葉集を定珍が買ったと聞くと、早速後半の10巻を借りてむさぼるように読んだ。良寛は恐るべき記憶力の持ち主だったとみえ、歌を殆ど暗記してしまう。そして早く前半の10巻を貸してくれと手紙を書いている。「正月には」と言われ、こんな歌がある。
なんとなくこころさわぎて いねられず あしたははるのはじめとおもへば

~~さわやか易の見方~~

******** 上卦は天
******** 広い社会
********
******** 下卦は火
***  *** 文化、文明、才能
********


「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする人。同人雑誌などに用いる。ある文化に集まる同人たちが、高い天に向かってはばたくことでもある。君子はいかに良い同人を集めるかが大事なところである。

良寛は涙を流して「正法眼蔵」を読んでいる。祖師・道元に心から随っているが、道元は「修行者は詩や歌に心を奪われてはいかん」と言ってる筈だ。そこだけは考えが違っていたようだが、だからこそ良寛の魅力は輝きを放つのではないか。
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