亀田鵬斎。1752~1826
50代の良寛は越後では群を抜いた学識を身につけていた。漢詩、和歌、書において当代一流の教養人と言って過言ではない。良寛の学識の高さを証明する逸話がある。
江戸で千人を擁する塾を開いていた儒学者・亀田鵬斎がいた。老中・松平定信が行った寛政異学の禁(朱子学以外は認めないとする)により、塾を閉鎖することになる。豪放磊落で知られる鵬斎は酒を友に東北へ2年間の旅に出る。越後に滞在したとき、良寛を五合庵を訪ねる。59歳の鵬斎と53歳の良寛は意気投合した。街に出て大いに酒を飲んだ。
そのとき良寛は鵬斎を詠じて
鵬斎は倜儻(てきとう)の士/何に由ってか此の地に来る/昨日、閙市(どうし)の裡(うち)/手を携へて笑、咍々(かいかい)
一方、鵬斎も良寛を詠じて
爾(なんじ)を羨む能く超脱/僧と雖も僧に類せず/酒盃、千万鈞(きん)/談笑、一龕灯(がんとう)/去住、心に着くる無く/人天に事へて憑(よ)るべし/我を伴うて五獄に終り/彼岸且(しばら)く登ること遅し
その後江戸に帰った鵬斎は良寛のことを喜撰(きせん)法師以来の傑僧だと周囲に語っている。(喜撰法師は平安初期の僧で六歌仙の一人。「わが庵はみやこのたつみ鹿ぞ住む世をうぢ山と人はいふなり」百人一首)
五合庵の良寛は座禅もしたが、勉強も半端ではない。詩は唐の寒山、書は唐の懐素(かいそ)、歌は万葉集を手本にした。全て書は人に借りたが、貸してくれる知人は何人もいた。最も世話になったのは前回登場した阿部定珍(さだよし)である。例えば当時出たばかりの20巻の万葉集を定珍が買ったと聞くと、早速後半の10巻を借りてむさぼるように読んだ。良寛は恐るべき記憶力の持ち主だったとみえ、歌を殆ど暗記してしまう。そして早く前半の10巻を貸してくれと手紙を書いている。「正月には」と言われ、こんな歌がある。
なんとなくこころさわぎて いねられず あしたははるのはじめとおもへば
~~さわやか易の見方~~
******** 上卦は天
******** 広い社会
********
******** 下卦は火
*** *** 文化、文明、才能
********
「天火同人」の卦。同人とは志を同じくする人。同人雑誌などに用いる。ある文化に集まる同人たちが、高い天に向かってはばたくことでもある。君子はいかに良い同人を集めるかが大事なところである。
良寛は涙を流して「正法眼蔵」を読んでいる。祖師・道元に心から随っているが、道元は「修行者は詩や歌に心を奪われてはいかん」と言ってる筈だ。そこだけは考えが違っていたようだが、だからこそ良寛の魅力は輝きを放つのではないか。
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