五合庵
1796年、39歳の良寛は郷里・越後に帰る。前年に父・以南が京都で入水自殺で亡くなった。雲水修行とはいえ、各地の寺からその情報はあったと見え、良寛は京都での四十九日・法要に参列している。どんな境地であったろうか。名主を捨てた自分を見つめ直したのだろうか。郷里への郷愁もひとしお感じたのだろうか。
来てみれば わがふる里は 荒れにけり 庭もまがきも 落ち葉のみして
良寛は網代笠から生家を見たが、そのまま通り過ぎた。自分の責任で没落した生家に入る訳にはいかないと思った。その足で三里ほど離れた郷本(ごうもと)という集落に無住の庵を見つけそこを住み処とした。狭い郷里である。家を出た名主の息子が乞食坊主で戻ってきたことは直ぐに生家にも伝わる。生家からは弟の由之がやって来て、「兄さん、頼むから家に帰ってくれ。」と言ってきた。しかし良寛は帰らないという。それでは着るもの、食べるものを運ぶという。それも良寛は断る。托鉢でやっていくという。
良寛の生家は名主なので、それなりに人脈はある。落ちぶれたとはいえ財力もある。少年時代に一緒に学んだ友人たちも皆その土地では有力者になっていた。円通寺の国仙和尚から印可を受けていることも伝わっているので、住職を望めばその道はいくらでもあったであろう。ここで一つ疑問が残る。郷里に帰って乞食坊主のままではますます生家の恥になるではないか。何故、良寛は郷里に帰ってきたのだろうか。
「17年前の自分と今の自分は違う。仏道の何たるかを知った上で帰郷したのだ。自分は堂々と本当の坊主の生き方を貫くだけだ。馬鹿にされ、蔑まれることは承知の上だ、それも仏道修行なのだ。その為、敢えて自分は故郷に帰って来た。乞食坊主と言わば言え、決して卑屈にはならない、悪びれず、毅然と生きるのだ。いつかは人に慕われる、尊敬される坊主になってやる。」そんな覚悟で良寛は帰郷したのではないだろうか。
翌年、40歳になった良寛は友人の勧めもあり、国上山の中腹にある五合庵に住むことになった。五合庵は頂上近くにある国上寺の住職が隠居するときに使う場所として用意されていたが、一時期を除き良寛が60歳まで定住する。ここで良寛は托鉢に出、座禅を組み、「源氏物語」「万葉集」「永平録」などを読み、漢詩、短歌、長歌を作った。
~~さわやか易の見方~~
*** *** 上卦は地
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*** *** 下卦は雷
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「地雷復」の卦。復活、復興、復縁の復である。長い冬の後に再び春が廻ってくるのである。陽気はいままさに伸びようとしている。積極的に行動するのが良い。将来の大計を立てるべきときである。
国仙和尚から印可を受けたといっても、その値打を知るものはごくわずか。殆どの住民は落ちぶれた乞食坊主にしか見えなかったであろう。そんな処を托鉢しながら歩く。余程自分に信念と勇気がないと出来ることではない。
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