青色鉄道模型運転会

一宮市青色申告会ホールで開催されている、鉄道模型運転会公式ブログです。Xアカウントは@railaoiro138a

木綿街道探訪帖(32)

2015-06-08 21:00:00 | 日記
皆様、こんばんは。
事務局です。

8日の一宮市内は、15時頃まで曇りで、それ以降は雨の天気となりました。

私(寺西)の本業は、正確には室内装飾業です。

いわゆる、内装をリニューアルするお仕事をしています。

施主様の都合に左右されますので、夜・深夜・早朝(店舗や工場など)にお仕事をする場合がございます。

前回の続きでございます。

「木綿街道探訪帖」について書いています。

ミニツアー第五の巻、(5)木綿屋「木綿の歴史と機織り体験の巻」に参加しています。

高橋様による、平田の木綿産業の「栄枯盛衰」についてのお話が続いています。

江戸時代末期、塩分を含んだ新田では、綿花の栽培が盛んになりました。

栽培した綿花を、綿(ワタ)から糸へ、糸から布へ加工することによって、平田に木綿産業が発達。

水運が発達していたこともあり、江戸時代末期から明治時代にかけて、平田は、米と木綿の集積地になったそうです。

米や木綿は、宍道湖の水運によって、境港に運ばれ、そこから海路で、京や大阪方面に運ばれました。

それ以外に、木綿衣料は、北前船に運ばれて、北陸や東北でも扱われ、加えて、綿を生産する器具類も販売されていたそうです。

写真は、展示されている木綿衣料です。

平田における木綿の取り扱い量は、松江藩全体の実に40%を占めた、と言われているそうです。

「雲州平田木綿」が、大阪で高い評価を受けますと、さらに脚光を浴び、ますます平田は繁栄して、商家は競って、建物にお金をかけるようになりました。

明治時代中期、海外から安い綿製品が大量に輸入されるようになりますと、木綿産業は、次第に衰退していったそうです。

しかし、木綿に変わって、養蚕を中心とした生糸産業に転換し、明治末期、平田は、県下一の工業都市として栄えました。

明治時代、鉄道が山陰道に沿って開通すると、流通は水運から鉄道に変わっていきました。

産業は次々と、鉄道沿線に移転していき、平田は繁栄の歴史を閉じることになったそうです。

次回に続きます。

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