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かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

補聴器店で補聴器の調整をしてもらう

2018-12-04 20:10:06 | ブログ記事
先月注文した補聴器ができたから、
補聴器店に出向いて補聴器の調整をしてもらった。

そのとき、補聴器を付けて、言語の明瞭度のテストを受けた。

補聴器を付けていると、音ははっきり聞こえるのだが、
一語、一語はよく聞き取れない。

これは音量を上げても同じである。

あまりにも聞き取れないから悲しくなる。

が、言葉にすると聞き分けることができるから、まあ何とかなるとはいえる。

補聴器店の人に聞くと、幼いころから聞こえないと、言葉が獲得できていないから、
音声の明瞭度が悪いと言葉の聞き取りもできず、非常に苦労するらしい。

「それから言えばまだ恵まれていますよ」と言われた。

そうか、そういうふうに生まれつき耳の悪い人は、もっともっと大変なのだと気づいた。

いえ、私も、ひょっとすると、生まれ落ちたときからある程度悪かったかもしれないが、

それでも、子供の頃はよくラジオも聞いていたから、
やはり悪くなったのは、自覚した中学生の時からだろう。

で、言葉をある程度獲得してからだったから、音声明瞭度が悪くても何とかなっているらしい。

これは視力についても言えるらしい。

もともと目の見えなかった人が見えるようになっても、
見る訓練ができていないから、物を見ることができないということを聞いたことがある。

どうしてそういうことになるのかは忘れたが、
人間の視聴覚は、まさに神の領域と思わざるを得ない。

私は、現代のように、補聴器の進歩した時代に生きているから、
こうして、人とも会話できるが、
もう半世紀前に生まれていたら、人との会話もできなかった。

それを考えると、やはり神様に感謝あるのみである。

*

★補聴器がなければ会話できぬほど進みし難聴なれど生きねば

★補聴器の進歩でかうして難聴のわれも会話ができる此れの世

母の恩師と母のその後

2018-12-04 07:14:12 | ブログ記事
昨日、母の女学校時代の話を書きましたが、
その恩師と母のその後を書いておきたいと思います。

母は昨日も書きましたように、女学校を卒業して一年ほど花嫁修業してから、
女学校の校長先生に推薦されて、東京帝大出の私の父のもとに嫁いできました。

それで、その母の恩師だったバスケットボール部の顧問先生も、その後、結婚されたようです。

が、その先生は、一生、私の母が忘れられなくて、それもあって、
その後、発奮して愛知県の大学の教授にまでなられました。
(先生の後日譚より)

が、毎年、夏には高知に帰省して、母に連絡をしてきていました。

母は最初のころは断っていたようでしたが、
ある時期から、私を伴って会ったりするようになりました。

が、逢引ではなく、ホテルなどでお昼ごはんをご馳走になるという他愛のないものでした。

母は、私だけでなく、当時の同級生も大勢引き連れて行っていました。

先生は、大散財だったと思いますが、しかし、かつて片思いをした教え子に会えることが
楽しみだったようです。

そういうことが長い間、続いていましたが、20年ほど前でしたか、
その先生が亡くなられたという風の便りが届きました。

母は、女学校時代は嫌い抜き、その後も決して好きではなかったと思うのですが、
名古屋に行ったとき、その先生のお墓参りに行ってあげていました。

いや、「嫌い抜き」というのも語弊があって、真面目な女学生だった母にとって、
先生という立場の男性から思いを寄せられることが迷惑以外の何物でもなかったのでしょう。

が、亡くなられてからお墓参りをしてあげたということは、母も大人の立場で、

生涯をかけて自分を思い続けてくれた先生に感謝の気持ちを表したのかもしれません。

以上が、母と母の恩師先生の後日譚です。

美人薄命

2018-12-04 02:18:12 | ブログ記事
「美人薄命」と言う諺があります。

これは、美人は長生きできずに早く死ぬという諺ですが、
しかし、必ずしも早く死ぬという意味合いだけではないではないようですね。

美人に生まれたら人に羨ましがられて幸せになれないことも多いことを言っているらしいです。

自分の親のことで言いにくいのですが、私の母もかなりの美人でした。

友人達には女優になれといわれていたらしいから、想像がつくと思います。

が、苦労も多かったようです。

女学生の頃も、バスケットボール部の若い独身の顧問の先生に好意を寄せられて、
母は昔の汽車通学をしていたのでしたが、
その先生が乗り込む駅では窓から見えないよう俯いて先生に見つからないようにしたそうです。

また、
その女学校は師範学校の付属だったから、バスケット部には師範学校の上級生もいたのに、
その先生はまだ女学校の生徒だった母をキャプテンにしたため、
上級生であった師範学校の生徒たちから壮絶な苛めを受けたと言っていました。

女学校を卒業してから、その女学校の校長先生の推薦で私の父と結婚したのですが、
人に羨ましがられるほどの結婚であったにも関わらず、
父の浪費癖に泣かされたらしいです。

お金持ちの三男坊だった父は給料を全部自分の小遣いにしていたという人でしたから。

それで私を生んでからは内職ばかりしていたそうです。

祖父が生きていた頃は祖父と一緒の所帯でしたから食べるのに困ることはなかったけれど、
祖父が亡くなってからは、たちまち生活が困窮したそうです。

嫁入りのときにもってきた大量の着物も大半売り払ったようです。

今から考えると、母は死ぬまで働きづめでした。

娘の私が難聴であったことも、母を頑張らせる理由になったかもしれません。

我が家には、ずいぶん援助してくれました。

一応、92歳という長命は授かりましたが、
その生涯を振り返ってみると、決して幸せではなかったと思います。

それが美人薄命の生涯だったと言えるのかもしれません。