かみなり

心臓に人工弁を、耳に補聴器をしている昭和23年生まれの団塊世代です。趣味は短歌です。日々のよしなしごとを綴っていきます。

テレビを観ていた

2018-12-30 20:29:29 | ブログ記事
昔は年末というと頑張っていた。

おせち料理の材料の買い物は無論、お掃除もそれなりに頑張っていた。


が、最近は頑張らない。特に今年は。

それで押し詰まった今日もテレビを観ていた。

テレビを観ていると、テレビはテレビで面白いので、パソコンは観ない。

また新聞を読み始めると、新聞は新聞で面白いのでテレビもパソコンも見ない。

小説を読みだすと、小説が面白くなり、テレビも新聞もパソコンも見なくなる。

旅に出ると、外の景色が面白いから景色ばかりを見て、
テレビも新聞もパソコンも本も読まなくなる。

本当は、どれもこれもしたいのだが、時間が足りない。体力が足りない。

だから、絞らないといけない。

で、どれを一番除外したらいいのかということになる。

これが私にとっては非常に難しい。

いやいや、それより先に、家事をしなければならない。

が、これが一番したくないことかもしれない。

だから一番後回しになる。

主婦としては失格なのだろう。

が、子育てのさなかは家事もそれなりに楽しかったが、現在は楽しくない?

だから楽しいことを優先したい。

世の中には家事だけじゃなく、孫の世話を熱心にしている人も多い。

私には真似できない。

祖母としても、私は失格なのかもしれない。

明日は大みそか。

明日は少しは頑張るか、自分。

鯨肉の思い出・・・高知市内の魚の棚の思い出とともに

2018-12-30 09:44:03 | ブログ記事
と書いても、私が鯨肉を食べた思い出ではない。

好き嫌いの激しかった子供の頃の私は、肉類はいっさい口にすることができなかった。

皆がおいしいおいしいと食べるすき焼きでさえ、肉の横で煮られた野菜を食べるだけであった。

まして鯨肉など食べるはずもなかった。

が、思い出はある。

父方祖父の田舎は海沿いの丘の集落であった。

余談になるが、
場所的に、たぶん大昔の南海地震のあと津波が襲ってきて、住民が大勢亡くなってから、
平地を避けて丘に集落を作ったのではなかったと思っている。

そんな集落が祖父の故郷であったのであるが、

私が幼かったころは、まあ食べ物も十分あったわけではなかったので、
その田舎に行くとき、義理祖母は祖父の親戚に鯨肉を買ってお土産にしていた。

それを田舎の親戚の人たちが、たいそう喜んでいたことを覚えている。

あれは鯨肉の皮に近い部位だったのではなかろうか。

黒い皮に黄色っぽい脂肪のようなものがついている代物であった。

肉の嫌いな私は見るだけでも気持ちが悪かった。

それを親戚のお婆さんは喜ぶのである。

その鯨肉を買うのは実家の近くの「魚の棚商店街」であった。

当時の魚の棚商店街というのは高知市内で一番高級な食材のそろうことで有名な商店街で、
そこに鯨肉専門店もあったのだ。

これを書きながら、あの当時の魚の棚商店街の賑わいを思い出している。

小さな商店街なのだが、活気があって、常に大勢の人が歩いていた。

が、現在はさびれて、生鮮食品を商う店もほとんどなくなった。

歩いている人がいないわけではないが、買い物客ではなく、ただの通行人である。

県外に住んでいる私には、魚の棚の風景は思い出の原風景であるとともに、
鯨肉を買う義理祖母の姿も私の幼いころの原風景なのである。

義理祖母と書いているのは、この祖母は祖父の後妻だった人だったからだ。

当時は義理とは知らず、祖母だと思い込んでいた。

そのくらい私のことを可愛がってくれて、どこかに行くときはよく連れて行ってくれた。

祖父の田舎の親戚に泊まるときも、この祖母と一緒のことが多かった。

祖父の親戚というのは祖父の弟の家で、そこには私と同い年の”また従妹がいた。

それで義理祖母も私を連れて行っていたのかもしれないと今頃おもったりもする。

そういうふうによく泊りがけで行ったりしたから、その”また従妹”は従妹くらい親しかった。

ブロ友さんの捕鯨の話から昔の鯨肉を思い出して、
自分の幼かったころのことまで思い出してしまった。

こうして昔のことを思い出すのは私が年寄りになったせいだろう。

*

★義理祖母が土産に買ひゐし鯨肉の黒き鯨皮と黄色き鯨油と

★親戚の人ら歓びゐし鯨おさなきわれは食べたことなし

★土電とふ電車で赤野といふ村に泊まりし記憶きのふのやうに

★義理祖母と知らずにあちこち行きしかな田舎の親戚町の親戚

★魚の棚商店街も思ひ出の街でありしが今はさびれて