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最明寺(伊豆長岡)

 『成福寺(伊豆韮山)』や『円成寺跡(北条氏邸跡)・・・伊豆韮山』の項目でも触れたように、伊豆韮山の地は、鎌倉時代の北条氏発祥の地でもあり、北条氏ゆかりの場所も数多くあります。
 この『最明寺』も同様で、その名前からもわかるように、鎌倉幕府第5代執権「北条時頼(法名:最明寺道崇)」ゆかりの寺院となります。
 「北条時頼」は、1263年に鎌倉の「最明寺(現在の『明月院』)」で、わずか37歳の年齢で亡くなりますが、その遺徳を偲んだ伊豆韮山の人々が、鎌倉幕府に願って、鎌倉のお墓より分骨してもらったのが、伊豆長岡にある『最明寺』となります。

 

「最明寺」

 

「北条時頼の墓」



「若宮八幡大菩薩社」
 奉祀されている「若宮八幡大菩薩」は北条時頼が常に兜の八幡座に奉安して国家の安泰を祈念された御尊象だそうです。

 

 『北条時頼』については、『明月院』の項目で触れましたが、今回は、謡曲「鉢の木」で知られる「時頼の廻国伝説」について触れてみたいと思います。
 「時頼の廻国伝説」とは、北条時頼は1256年に29歳で出家するのですが、その出家した時頼が、諸国を廻り、各地の民衆や没落した御家人を救済したというのが、廻国伝説となり、「太平記」や「増鏡」に記載されています。
 廻国伝説で特に有名な話が、謡曲「鉢の木」となります。
 「鉢の木」の話とは・・・
 「身分を隠して諸国を廻っていた時頼が、ある大雪の日、上野国(現在の栃木県)の佐野にて、ある貧しげな民家に一夜の宿を求めた所、家の主人は、手厚くもてなしてくれ、大事にしていいた盆栽を薪にして、暖をとらせてくれました。感激した時頼が色々と事情を聞くと、名は「佐野源左衛門尉常世」という御家人であり、身内に所領を押収されたため、今は貧しい生活をしているが、鎌倉に一大事があった際には、ただちに駆けつける旨の決意を時頼に語るのでした。
 後日、鎌倉に一大事があり、「いざ鎌倉」とばかりに、関東の御家人達が召集されますが、その中には当然、佐野常世の姿もありました。時頼の前に呼ばれた常世は、あの時の僧が、北条時頼と知って驚きますが、時頼は、常世があの時の約束を守って駆けつけたことを褒め、押収されていた所領を返還させたばかりでなく、薪にしてくれた鉢の木(梅・桜・松)にちなんだ所領(加賀国・梅田の庄、越中国・桜井庄、上野国・松井田庄)も与えます。
 この「鉢の木」は、室町時代頃に能で有名な「世阿弥」の父・「観阿弥清次」の作とも云われており、この作品を通して「いざ、鎌倉」の言葉は、広く一般化されることとなります。
 日本各地には、この時頼が廻ったとされる話のある場所がいくつもありますが、ここ伊豆長岡の地にも、「最明寺」の案内を見ると、時頼が杖を留められたとありますね。



『最明寺』
住所:静岡県伊豆の国市長岡1150
電話:055-948-0304

 

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