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2005年07月29日 | 読書感想

 今日は、三重県が運営している電子会議室「e-デモ会議室」に関することが詳しく記述されている書籍の紹介をしようと思い、サイトの内容を確認してみました。
 
 ところが、どうも間が悪かったようで、現在不正アクセス問題で閉鎖されています。  ▲e-デモ会議室事務局▲

 安心してネットを活用できるようになる日はまだまだ先のようですが、こんなことで先駆的なチャレンジを停滞させないでほしいと思います。
 
 という訳で、会議室のことを紹介するのは次の機会にしますが、書籍の表紙だけでも掲載しておきます。
 
  
 以前、当ブログで▲「eデモクラシーへの挑戦 ―藤沢市市民電子会議室の歩み―」▲を紹介させていただきましたが、「eデモクラシー・シリーズ コミュニティ」で分析されている三重県のe-デモ会議室の教訓や、それをふまえたブログを活用したシステムの展望など、大変参考になりました。 

ローカル・デモクラシー(2)

2005年05月19日 | 読書感想
1日飛んでしまいましたが、著書「ローカル・デモクラシー」(著者:藪野祐三)紹介の続きです。


 ※以下、本書の正確な要約ではなく私なりに咀嚼して紹介していますので、著者の意図と異なるところがあるかも知れません。


  
第3章 ローカル・デモクラシーの担い手たち

 「公」は、英語ではpublicのことですが、これまで行政が公的サービスを独占的に提供してきたことなどから、「官」(official government )というものと同一視してしまいがちでした。しかし、国際社会に目を向けると、国家だけがそれを支えているというのではなくNGOの活躍が顕著になってきているのと同様に、地域においてもNPOやボランティアなどの活動が注目されています。

 この点に関して私の個人的な疑問としては、NGOは政府機関では無いという意味で、国家の枠組みを超えた様々な問題の解決を図るために民間組織が取り組みを行うことだと理解できますが、なぜ地域で活動する民間団体はNLGO(地方政府では無い組織)では無いのかということです。NPOは、営利団体ではないということですが、営利団体では無いことと「公」の領域に携わるということとは違いますからね。まぁ、そんなことはどうでも良いか・・・。


 次に、「公」というのが絶対的なものではなく相対的な概念であることを理解する必要があります。例えば、民間企業内という「公」では無い組織においても、「私用電話禁止」という言葉が使われていることかわも分かるように、民間的活動においても「公」と「私」の上下関係があります。
 さらに、行政が行う公共サービスについては、そのすべてを行政だけが実施しているのではなく民間企業が請け負って仕事をしています。例えば国の最も基本的な機能である国防についても、武器は民間が作ったものを調達するし、場合によっては今回のイラクでの日本人拉致問題でも明らかになったように、民間警備会社が軍事の一部を担うということだってある訳です。さらに、医療・教育・交通といったものは、民間企業がやっていることであっても、私たちにとっては「公」なんです。(そういう意味では、JRも「国民の足」としての公共事業だと思います。)

 このように考えると、「公」を担うアクターは誰かということを分かりやすく分類するとガバメントとノンガバメントということになります。だから、先程書いたように、「公」の担い手という面では「営利」「非営利」という分類だと誤解を生んでしまうのではないかと思うんです。これまで公害問題を引き起こしたり階級史観による「労働者の搾取」という概念がしみついてしまったりしているので、営利企業と違いますよというのが「公」を消去法的に表すのに都合が良かったのでしょうかね?
 いづれにしても、これからは営利企業も含めて、市民・NPO・各種団体などすべてを「公」を支えるアクターとしてとえていく必要があります。


 次に、「公共」という言葉がありますが、これは「公」というシステム(概念)を支える「アクターの束」の共同性を表していると考えられます。

 ちなみに、公共サービスを行う場合、次の3つの方法があります。

(1)政府機関だけが実施するもの
(2)政府と非政府が共同して実施するもの
(3)非政府だけが実施するもの


第4章 ローカル・デモクラシーと市民性

 この章では、「公」を支える市民の資質について分析されています。
 簡単に言うと、属性としての市民ではなく「ローカル・デモクラシーを担うアクターはすべて市民性という思想を担う必要がある」との問題提起をされています。
 自我(エゴ)という点ではなく、社会性という点での自立と責任、空間の自由移動や身分・階級・男女など上下関係を前提とする権力関係、人権意識の払拭を前提として市民性が求められているのです。


 
 今日は、ここまでにしておきます。・・・ 書き終わってから読み直して思ったんですけど、こういう部類の本は実際に自分で読まないと分かりづらいです。ということで、本書の紹介は今回で終わりにするかも?

 参考までに、第5章は「ローカル・デモクラシーと公共性(1)」、第6章は「ローカル・デモクラシーと公共性(2)」、そして最後は「ローカル・デモクラシーの創造」というタイトルで締めくくられています。

ローカル・デモクラシー

2005年05月17日 | 読書感想
 昨日、佐賀地裁が命じた諫早湾干拓工事の差し止め決定を福岡高裁が覆した件は、本当に残念に思いました。この件について、NEWS23で築紫哲也さんが地裁決定はガス抜き的な役割となっていて実際は国策で司法決定がなされているのではないか、との疑問を投げかけられていたことが印象的に残りました。
 また、衆議院予算委員会でのアジア外交に対する小泉首相の答弁には、北朝鮮の核問題などアジア各国の連携が不可欠な時期にあって非常に残念でなりません。「罪を憎んで人を憎まず」はないでしょう、実際。
 日常生活でも開き直った人や常識が通じない人に対して論理的に説得するすべが無くて困惑することが多々ありますが、これが国民が選び支えてる人であればなおさら為す術を持たないという状況が国会での質疑でも見て取ることができます。もし「罪を憎んで人を憎まず」と言ってドイツの首相がヒトラーに対して敬意と感謝の誠を捧げたとしたら、これを国際社会が容認できるかどうか考えてみてほしものです。これは、政党の違いによる歴史認識の相違とか内政干渉といった問題とはちょっと違います。これでは、せっかくこれまで築き上げてきた外交努力やODAに多額の資金を費やしてきたこともすべて無駄になってしまいます。年金問題もそうですけど、日本の国益に反し、また国民の求めるものから乖離している状態はいつまで続くのでしょうか・・・。

 暗澹たる気持ちで一杯ですが、今日は昨日の予告どおり「ローカル・デモクラシーⅠ ~分権という政治的仕掛け~」(著者:藪野祐三)▲書籍紹介HP▲ を紹介することにします。 


 以下、本書の章ごとに要旨をまとめてみました。


 書籍「ローカル・デモクラシーⅠ ~分権という政治的仕掛け~」の紹介
 

 
 本書で言う「ローカル・デモクラシー」は、これまで、国家やグローバルに対抗するアクターとしてローカルが語られることが多かった中で、「ローカルがローカルとして足もとに設置されたデモクラシーを語る必要性」 が顕在化しているとの観点から出発しています。
 ここでいうローカルとは、田舎を意味するのではなく、現場とか現地とかいう意味で、かつデモクラシーとは選挙や議会の装置ではなく、日常的な行為そのものを表しています。
 そして、ローカルという枠組みにふさわしいデモクラシーを再構築していくことが、全体の目的となっています。
 
 具体的には、ローカル・デモクラシーの可能性を探り、またそれを創造するため次の3つの条件について詳しく分析されています。
 
  その3つの条件とは、次のとおりです。
 
   1.自立した分権型社会を創造するための構造条件
   2.誰がローカル・デモクラシーを担うかを確定する要素条件
   3.その担い手がどのような働きを果たさなければならないかを確定する機能条件
   
 始めにこう書くと、難解なもののように思われるでしょうが・・・いや、実際にそうなんですけれど、私たちが地域でどのように取り組んでいくのかの根本的な問いかけをしている内容で、非常に有益な論点を示していますので何回(難解じゃなくて)かに分けて詳しく紹介していきたいと思います。
 
 
序章:協奏するローカルとデモクラシー
 
 デモクラシーは、一般的に「民主主義」と訳されます。デモクラシーは、選挙や議会のしくみ(装置)として理解されますが、装置という意味だけでなく「自己決定を基底とするイデオロギー」(精神)としての機能にも着目することが必要です。そして、デモクラシーを活用する舞台(器)やその方法について再構築すべき時期にきています。
 ところで「協奏」とは、独奏楽器と管弦楽とが合奏する形式などを指す音楽用語ですが、ここではデモクラシーを台詞と置き換えます。そして、それを演じる舞台は国家や企業・社会・家庭などあらゆる領域で存在しますが、ローカルという舞台こそがデモクラシーを引き立たせ、相乗効果を与えるとして相応しいものです。
 デモクラシーの原則は (1)権力集中化を拒否する原理 (2)社会構成員の全員が決定に参加できる原理 (3)公共性を創造する原理 といったものですが、それをローカルという広がりの中で再構築していくことが必要なのです。
 
第1章 ローカル・デモクラシーの時代

 ここ述べられているローカルは、「そこに住む人を中心として展開する意味関連をもった生活空間」のことです。
 そして、このことが意味を持ち始めたのは次の要因にあるます。
 (1)政治的機能を国家が独占してつかさどる時代から、ローカルという地域社会が担う時代へ移行している
 (2)政治的課題が社会化しそれを民主的に対処しなければならない中で、ローカルがその現場となっている。
 
 また、ローカル・デモクラシーを創造するためには、次の図のとおり3つの条件整備が必要です。

 
 
 
 
第2章 ローカル・デモクラシーの権力構造

 分権型社会は、「一部の人々が権限や情報あるいは職業を独占してはならない社会」を意味しています。また、分権とは非集中を意味していると共に、地理的な意味での分権だけでなく機能的な意味での分権をも意味するものとして捉える必要があります。さらに、分権のイニシアチブを政府が行う「上からの分権」と、市民自らが主体となっておこなう「下からの分権」があります。
 「上からの分権」は、新保守主義のよる「小さな政府」を指向した政策として表れています。日本では「官から民へ」との理念で電電公社や国鉄の民営化が行われてきましたが、単に民営化というのではなく「分割」という言わば分権的要素も組み込まれていまることに着目することが必要です。また、これは地理的に「分割」すると同時に、民営化という手法で政府が行ってきた機能分権が同時並行的に行われたと考えることができます。
 地方分権も含めた「小さな政府」を指向する「上からの分権」に対して、「下からの分権」は、平準化社会がもたらせたものです。
 
 なお、ローカル・デモクラシーは、自己責任と自己決定を基礎とするものだと考えることもできます。  
 
  
  
  
  
  
 今日はここで一旦終了します。
 論理展開の部分を相当省略していますので、著者の趣旨と若干異なる場合や分かりにくい文章になった感もありますが、ご了承ください。

なぜ、憲法か

2005年05月11日 | 読書感想
 ▲衆議院憲法調査会報告書▲が4月15日に提出されて以降、当ブログでも憲法に関連する記事を何度か書いてきました。
 
 今回は、中央公論5月号に掲載されていた「なぜ、憲法か~憲法主義の擁護のために~」(河野 勝/早稲田大学教授)を参考にしながら、憲法そのものの意味を考えてみたいと思います。
 
 普通、憲法は国家の最高法規として捉えられています。このことについては、憲法第98条で「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」とされていることからも明らかなことのように思っていました。

 しかし、意外にも本文では「憲法を国家の最高法規として捉えること、ましてやそれを憲法自体に明記することは、憲法主義の立場からして好ましくないと考えている」と記述し、その理由はとして「憲法と法律との間に引かれるべき一線を曖昧にしているから」だというのです。
 
 えっ!? どういうことなの? と正直思いました。
 確か、学校でも憲法は最高法規だと教えられたんだけど・・・・。
 
 その疑問への回答として、次のとおり示されています。

 法律と憲法は、元来その対象とするものや役割が全く違う。
 「法律とは、治めるものが治められるものに対して何をしてよいかを定める文書であるのに対して、憲法とは、治める側に対して彼らが何をして良いかを治められる側が定める文章」だから。
 また、「法律は治められる側を制約するのに対して、 憲法は治める側を拘束しているのだから、憲法は法律の頂点にあるのではなく、法律の対極に位置する、と捉えなければならない」
 


 なるほどねぇ。そういう考え方もできるのか・・・。
 
 こういう視点に立つならば、憲法は政府が改正するのではなく、国民自身が主体的に行うべき問題だということになります。だから、「国会で憲法改正が審議されている」という感覚の延長上では憲法の本質的意味をつかむことはできないどころか、国民的論議を深めることを抜きにして憲法改正が語られること自身が憲法の趣旨に反していると考える必要がありそうです。

 
 
 次に、民主主義と憲法主義(▲Constitutionalism▲)という二つの政治理念について、本質的には逆の方向を向いているものだと本文では論述されています。
 
 これまた、「えっ」とちょっとびっくりする発想です。
 私としては、両者は不可分一体のものだと思っていました。
 これに加えて、本文では憲法第41条で「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」としている点は憲法主義の立場からすると問題だと指摘されています。
 
 その理由は、「民主主義とは少数派の暴挙から多数派を守る制度を構築しようとする政治制度である。これに対して、憲法主義は、いくつかの政治的決定を、多数派といえども簡単には変更できない憲法にあらかじめ委ねてしまうという点で、少数派を多数派の暴挙から守る制度のための政治理念といえる」からだそうです。
 
 「おっ、なるほど」
 これも、意外性のある考え方ですが、物事の核心をとらえた発想であると感じました。

 
 本小論文では、憲法前文のありようについても触れています。
 筆者は、憲法前文に「日本の文化や日本人としてのアイデンティティーについて言及すべきだ」とする主張に対して、憲法主義の理念からかけ離れていると批判する一方、現行憲法の前文についても、否定的な考え方を示しています。
 そして、本来の憲法前文の機能とは何かを問う必要があるとしたえで、具体的に「なぜ日本という国が憲法を必要とするのか」を明らかにして、憲法主義の理念を受け入れることを憲法自体に宣言する必要があり、また「この憲法が国民全体の合意に基づく憲法である」ことを明確にする必要があると記述しています。
 
 次に、三権分立という基本的枠組みについても、憲法で「立法権」「行政権」「司法権」という言葉が使われていることに問題があると指摘しています。
 
 またまた面食らった感じですが、ここで筆者が言っていることは、「行政権」というのは誤訳であって、本来は立法部門が作った法律を「執行する」という権限であって、行政というあまりにも拡大したものに位置づけられていることが権力の濫用を招く原因になっているという意味です。
 
 この小論文を読んで、憲法論議において憲法九条などの個別的なことがらだけでなく、憲法そのものの基本的な理念を確立することが必要であることや、政党や政治家・憲法学者が考えるだけではなく、われわれ一人一人が正しい判断をするという責務を負っているということが理解できました。
 とにかく、憲法論議には様々なアプローチがありますが、シングルイシューではなく幅広く論じ合うことが大切であると共に、グローバル時代における国家の役割や憲法のありようといった骨太の論争軸の構築が望まれているのではないかと思います。


国家の役割とは何か②

2005年05月06日 | 読書感想
1日あいだを置きましたが、一昨日に途中まで書いた「国家の役割とは何か」(著者:櫻田淳)の要旨の続きです。


「価値体系」としての国家

 「価値の体系」としての国家は、本来ならば互いに面識の無い人々に対して、「われわれは同じ国民である」という一体感を与え、その下で、もろもろの社会秩序を維持することを目的としている。そういう意味では、近代国家(国民という枠組みを基盤にした政治共同体)が成り立つためには、共同体としての「象徴」がしっかり機能していることが必須の条件である。
 「象徴」には、国家や国民統合の中心に特定の人物や役職を置くという人的なものや、国旗や国歌などの国歌の「価値観」を表すもの、民族・宗教・言語といった共通性、イデオロギーが概念といったもの、歴史認識や文化・芸術、「価値の基準」を伝達する手段としての教育など。


グローバリゼーションと国家

 グローバリゼーションによって、人々の往来、物品や金銭の流通、さらには情報の伝達が国家の枠組みを越えて頻繁に行き交っている中で、国家とは別の枠組みを持つ集団が国際社会の中で占める比重が高くなる。こうした中で「脱国家関係」の趨勢を加速させ近代国家の持つ比重が低下している。また、アルカイダをはじめとした国際テロや国際犯罪集団などの「毒蜂」に対処するためには、従来の近代国家の役割だけでは充分対処できない。そのため、従来にも増して国と国との協力が不可欠になっており、国際提携の枠組みとしては、国際連合やICPO(国際刑事警察機構)、主要国首脳会議、FATA(金融活動作業部会)といった枠組みがある。
 グローバリゼーションの進展によって自国の安全を自国だけでは確保できない状況の中、国家間の協調が不可欠となっており、「力の体系」としての国家が担うべき役割が変化している。

 また、グローバリゼーションによって「利益の体系」としての役割が最も大きな影響を受ける。「世界市場」の出現によって、「福祉国家」路線が1980年代に退潮したが、今後は「自助努力」を奨励し、それを支えるということが「利益の体系」としての国家の役割に求められる。

 さらに、「価値の体系」としての国家の役割は、従来のように一つの国家が「象徴」を独占的に管理し、その「象徴」によって人々を説得し続けるのは難しくなっている。グローバリゼーションの加速に伴い、「価値の体系」同士が接触し摩擦を起こすことに対して、どのように対処していくのかが問われる。そして、「国境を越える義務」への意識を人々に勧めることも必要だ。




 以上、簡単に本書の要旨をまとめてみました。


 さて、▲衆議院憲法調査会報告書▲では、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三原則維持や環境権やプライバシー権といった新しい人権の明記などが概ね一致した意見だとされていますが、これからの憲法論議にコミットメントしていくためには、国家とは本来どういうものなのか、その役割や機能について今一度原点から整理していくことが大切です。そしてさらに、グローバリゼーションの進展によってその役割や機能がどのように変化しているのかということについても現実に起こっている事実から検証して、21世紀の国家像や国民主権のありかたを描き出していかなければなりません。
 
 当ブログのテーマの一つとして、今後も引き続き憲法問題について考えていきたいと思います。

国家の役割とは何か①

2005年05月04日 | 読書感想
 尼崎JR脱線事故で、JR西日本の運転士2人が負傷者を救助せずに出勤した問題など気になるニュースが沢山ありました。
 「車の事故でいうとひき逃げに当たる」というコメントも出ていましたが、本当に許せない行為です。しかも、上司が「遅れないで来てください」と定刻出勤を求めたことが最も大きな問題なのに、当初のJRの説明では救助せずに出勤した運転士に責任転嫁していたようです。
 この件については、その背景も含めて後日詳しく書きたいと思いますが、今日は昨日に引き続き、憲法問題に関連した書籍を紹介します。

 本のタイトルは「国家の役割とは何か」(著者:櫻田淳)です。 ▲書籍紹介▲

 この本と憲法問題とどう関係があるのかと疑問に思われるかもしれませんが、憲法を考える際に私たちがどのような国家像を描くのかが非常に重要になります。ちなみに、昨年の6月に自由民主党政務調査会憲法改正プロジェクトチームがまとめた「論点整理(案)」では、新憲法が目指すべき国家像について次の通り示しています。
  
自由民主党憲法調査会《新憲法が目指すべき国家像について》
新憲法が目指すべき国家像とは、国民誰もが自ら誇りにし、国際社会から尊敬される「品格ある国家」である。新憲法では、基本的に国というものはどういうものであるかをしっかり書き、国と国民の関係をはっきりさせるべきである。そうすることによって、国民の中に自然と「愛国心」が芽生えてくるものと考える。
 ▲自由民主党HP▲

 
 本書は、国家とは何かを誰でもが理解しやすいように平易でかつ簡潔にまとめてありますので、基本的な認識を深めるための第1歩としてお勧めです。
 なお、本日は時間の関係で本書の要旨を途中までしかまとめることができませんでしたので、明日以降にこの続きと若干のコメントを書きたいと思います。

 
以下、「国家の役割とは何か」の要旨です。
 
 民主主義体制の下で行われる政治の本質は、「国家の役割」に関する合意形成にある。そして自ら納めた税金の使い道こそが「国家の役割」を具体的に表したものだ。
 そして、主権者としての責任を果たすためには、「従来、国家はどのような役割を引き受けてきたのか。」「そして現在、その役割は時代の要請に沿っているのか。」「さらには将来、国家の役割はどのようなものになるのか。」を常に問いかけていかなければならない。
 国家とは、一定の秩序に支えられた人間社会の一つであり、人間社会に秩序を与える枠組みである。(教科書の説明では、「領土」「国民」「主権」が、国家の三要素と紹介されている。)
 では、秩序は何故必要か? 人間は社会的動物(アリストテレス)と呼ばれ、何らかの社会の中で生きていくもの。しかし、三者三様の意見があるため、どの意見を優先するのかという優先順位が秩序。
 政治とは、「他の人々に対して自分が欲することを行うように働きかける営み」のこと。
 権力とは、他の人々に対して、自分が欲することを否応なく行わせる要件であり、権力と秩序は不可分である。

 以上のとおり、人間社会を機能させる上で「秩序」が重要な意味を持っており、「政治」が「秩序」を形成する営みであると共に、その「秩序」を裏付けるものが「権力」である。

 政治は三つの手段を駆使して、人々を動かす。
1.恫喝  暴力を背景にしたもので、国家の統治という必要に基づく場合はそれを適宜用いることが要請される。
2.誘導  具体的利益による誘導のことで、安易な政治手段ではあるが、元出となる利益が無くなるとできなくなる。
3.説得  人間の心理に訴えかけて、共感や納得という感情を呼び起こす手法。

政治とは、以上の三つの手段を駆使して人々を動かし、一定の秩序を築くことだが、恫喝よりも誘導、誘導よりも説得ということが望ましい。

 国家には「力の体系」「利益の体系」「価値の体系」といった三つの側面があるが、民主主義体制であっても、近代国家の最も根本的な条件とは、物理的暴力による恫喝という政治手段によって秩序を保つ枠組としての国家という側面である。
 国内秩序を維持する手段としての恫喝は、警察制度と司法制度によって支えられているが、その行使を誤ると国民の自由を抑圧する枠組みとなってしまう。
 軍隊は、国家の対外的な独立を確保することを目的としたもの。人間の敵視は戦争の歴史であると言われているが、その理由は人々が豊かさへの欲望から離れられなかったから。しかし、大量破壊兵器を生み出した現代においては、戦争は「割に合わない」選択となった。
 日本の法体系では、軍隊は存在しないことになっているが、実態としての軍隊である自衛隊が存在している。これを普通の軍隊しようという動きもある。

 利益の体系としての国家の役割は、第二次世界戦後「人々の最低限の生活水準を確保し、極端な格差を是正すること」にあると認識されるようになった。その理由の一つは、極端な貧困や格差が生じると社会不安を招き、国家の運営に明らかに損失を与えるからだ。
 福祉政策の範型となっているのは、「揺りかごから墓場まで」の標語で有名な「リヴァリッジ報告」(1942年:英国)だ。その背景には、ファシズムに対抗する「民衆の戦争」を進める上で相応の社会改革の断行が要請されたから。これの基づく「福祉国家」路線の維持が難しくなり「サッチャリズム」が誕生した。その経済政策の眼目は「小さな政府」への指向と「市場原理」への尊重を特色としている。この流れはアメリカでの「レーガノミックス」をはじめ、福祉国家を代表するスウェーデンにまで飛び火した。
 しかし、こうした新自由主義路線によって「裕福な人々はますます裕福になり、貧しい人々はますます貧しくなる」という批判が起こった。
 
 日本では、国家の「利益の体系」という側面を動かすことによって権力を築いた田中角栄に象徴されるように、「利益の体系」に基づく政治に特色がある。田中角栄の政治手法は、中央の富を地方に還元するというもの。その負の遺産は、田中角栄の政治家としての成功があまりにも輝かしいものであったため、その政治手法を安直に真似する政治家が続出したこと。この結果、自由民主党を始めとした政党が、創造性に乏しいものとなった。
古代ローマ以来、民衆が要求するのは「パン」(具体的な利益)と「サーカス」(変化・興奮)だとされているが、小泉首相は「サーカス」を提供している一方で「パン」の提供には熱心ではないので「抵抗勢力」と呼ばれる政治家にとっては苛立たしい存在なのだろう。


 今回はここまで。 

新・検証 日本国憲法(読書)

2005年05月03日 | 読書感想

 5月3日の本日は憲法記念日です。現行憲法は1946年11月3日公布、1947年5月3日に施行されました。

 最近になって衆議院憲法調査会報告書(4月15日)が出されるなど、憲法改正に向けての動きが活発に行われています。

 そこで、「新・検証 日本国憲法」(編著:小栗 実)を読んでみました。 ▲書籍紹介HP▲ 


 本書は、「憲法を学ぼうとする学生・市民を対象にしている。~憲法の条文の解釈ではなく、憲法の条文・原則をめぐって、どのような社会的な事実・争い・対立があるのかについて紹介し、それが憲法にとって、どのような問題点をもっているのかについての説明に重点を置いている。」と記述されていることからも、今後の憲法論議にコミットメントするための導入編にピッタリだと思います。

 全体の構成としては、次の5章に分類した100項目の論点が書かれています。
 このなかで、いくつかの項目をピックアップして紹介させていただきます。

 以下、本書の要旨で、文中の()内は該当する項目のタイトルです。


第1章 憲法とは何か

(最高法規としての憲法)

 法律を集めた法令集のことを「六法」というが、それは日本には代表的な法律が次の6つあることからきている。
① 憲法 ②民法 ③刑法 ④商法 ⑤民事訴訟法 ⑥刑事訴訟法
憲法98条によって、憲法の条文に違反する法律や法令等、さらには国や地方自治体のとった行為はすべて無効とされている。それを判断するのは裁判所であり、なかでも最高裁判所の役割はきわめて大きいことから「憲法の番人」と呼ばれている。 しかし、最高裁は違憲判断を行うことについてはきわめて消極的だった。(実際は、「内閣の番犬」となっているとの批判あり。)
 最高裁が法律を違憲としたのは過去6件のみであり、下級審で違憲とされたものを「憲法に反しない」とくつがえす例も多い。
 こうしたことから、憲法を学ぶには単に憲法の条文がどうなっているかということだけではなく、憲法が実際の政治や裁判そして生活のなかでどれだけ実現され活かされているのかということが肝心。

(公務員は憲法尊重義務を負う。国民は?)
憲法99条は、天皇・国会議員・大臣・裁判官その他公務員は「憲法を尊重する義務」を負うとされているが、国民は憲法のつくりだした主体(主権者)であるため政府が憲法を守って、政治や立法・司法を行っているのかをしっかり監視する責任がある。
 国民に「憲法を守る義務」を課していないのは、憲法に反対する思想・表現であったとしても、その自由を認めることが望ましいとする立場であるから。

(主権・人権・平和 ―憲法三原則―)

 憲法の基本的原則は次の三原則。
 1.国民主権:「ここに主権が国民に存することを宣言」(前文)
 2.基本的人権の尊重:「すべての国民は、個人として尊重される。」(第13条)
 3.平和主義:「戦争の放棄と一切の戦力の不保持」(第9条)

 憲法を改正することがあっても、この三原則は廃止することはできない。「これに反する一切の憲法・・・を排除する」(前文)
 この原則を廃止するとすれば、憲法の改正ではなく破壊にあたる。

第2章 史の中の憲法
  略

第3章 平和主義

(「不戦の誓い」としての憲法9条)

 憲法9条は、戦争・武力の行使・武力による威嚇の放棄、戦力の不保持・交戦権の否認を定めており、通説では戦争にかかる国の権利はすべて認めていないと解釈されている。
 また、憲法の中で戦争に関係する規定を一切もっていないことも特徴。宣戦や講話宣言する権限はなく、軍隊への徴兵を義務づける規定も持っていないし、軍事的な秘密をとくに保護する規定も無く徹底した平和主義、非武装主義、反軍事主義に貫かれている。

(大きく変わった政府の憲法9条解釈)

 自衛隊がつくられた1954年、政府は「憲法9条は、独立国として我が国が自衛権を持つことを認めている。したがって自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のために必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない」と説明。このときに憲法9条の解釈が180度変わった。
 PKO・イラク派遣などの自衛隊の海外出動は、もはや自衛権では説明することができない。そこで、90年代には「国際貢献のため」「人道的復興支援」として、憲法解釈上で正当化されていく。
 しかし、集団的自衛権については解釈の拡大では正当化できないため、それを明確化するために第9条改正を求める主張もある。

(軍事化への「歯止め」としての憲法9条の役割)

 解釈拡大によって、憲法9条の理念と現実が乖離してしまったため「憲法9条はもう意味がない」という意見がある。しかし、憲法9条によっていくつかの制約を架けられてきたこと事実も大切。具体的には次のとおり。
 1.海外派兵の禁止
 2.武器輸出の禁止
 3.防衛予算の国民総生産1%枠の設定
 4.徴兵制の禁止
 5.非核三原則

第4章 基本的人権


(いろいろな人権)

 人権の類型は次のとおり。
 1.幸福追求権と法の下での平等:個人の尊重に基づいて、個人が一人の人格として生きていくのに不可欠なものであり、法の下での平等は法律の適用が平等であるだけでなく、法律の内容も平等であることが要求される。(政権の都合によって、法律適用が不平等に行われていると思う。)

 2.自由権:「国家からの自由」を求める権利(18条~23条)
 3.社会権:「国家による積極的な給付」を求める権利(25条~28条)
 4.参政権:政治に参加する権利で、民主主義にとって不可欠なもの。
 5.国務請求権:裁判を受ける権利や、国の不法行為に対して損害賠償を求める権利


(「新しい人権」と幸福追求権)

 社会変化に伴って、環境権、知る権利、プライバシー権、人格権、自己決定権、肖像権、名誉権などといった新しい人権が主張され始めている。

(「君が代」「日の丸」への敬意の強制と「内心の自由」)

「君が代」の歌詞については、 「我が天皇閣下のお治めになる此の御代は、千年も万年も、いやいつまでもいつまでも続いてお栄えになるやうに」(尋常小学校終身書巻4)という意味。また、「日の丸」が明治憲法下の天皇制国家のシンボルとして扱われてきた事実」(日教組見解)から照らして、公権力が一方的に押し付けるべきではなく、無理やり強制すること自体が憲法に反する。私たちは「沈黙する自由」が認められている。


第5章 民主的な統治のしくみ

(象徴天皇制の誕生)

 アジア諸国や中国・ソ連などは、天皇の戦争責任をきびしく追求する姿勢をとったが、主導権を握っていたアメリカの対日統治方針として天皇を残すことを決断した。その際に批判を避けるために次の3つの方針が取り入れられた。
 1.象徴天皇制:「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有していない。」(第4条)
 2.戦力の不保持
 3.政教分離原則

(国権の最高機関というけれど)

「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である」(第41条)
国会は、①法律を制定・廃止する ②予算・条約を承認する ③国政について調査をおこなう ④内閣総理大臣を選ぶ ⑤その他、国の基本的な政策を決める といった重要な役割を担う。
 しかし、本来は最高の地位にあるはずの国会は、現在は首相などにくらべるとどこの国でも影が薄くなっている。こういう現象を「議会制民主主義の形骸化」と呼ばれている。
 こうした現象が起こる理由は次のとおり。
 国の扱う仕事が複雑化・膨大化してきたため、官僚により率いられる行政官庁の占める役割の比重が高くなり、その統括者たる内閣が国家の活動の中心であるかのようになった。また、日本のような議院内閣制の下では、国会内の多数を占める党の党首が首相になり内閣を率いるので、国会での論議は主として内閣(与党)と野党の対立になる。ところが、その差が大きすぎたり、野党の批判能力が低下したりすると、内閣は国会でのチェックをさほど気にしなくなる。このことによって、国会は地盤沈下する。わが国の場合、ごくわずかな期間をのぞいて、政権を担当する政党が同じ政党であったため、国会と内閣とが馴れ合いにおちいってしまう危険性はいっそう大きい。



 随分省略しましたが、今日はこのくらいが限界です。

 なお、衆議院憲法調査会報告書については全文がPDFファイルで公開されていますので、是非一読してください。 ▲衆議院憲法調査会報告書▲

指定管理者制度で何が変わるのか

2005年04月22日 | 読書感想

 これまで、公共施設は地方公共団体が2分の1以上出資する法人や公共的団体などに限定されていたが、2003年9月の地方自治法改正によって民間事業者などでも管理ができるようになりました。この指定管理者制度は、2006年9月までに各自治体が導入することが求められているため、草津市でも来年度から多くの公共施設を対象に実施される見通しだそうです。 ▲草津市のHP▲ ちなみに、平成17年8月1日から市営自転車駐車場として供用開始予定の「草津市立草津駅東自転車駐車場」については、既に指定管理者の募集が始まっています。 ▲募集▲

 では、この指定管理者制度によって何が変わるのか? その影響や問題点は何か? ということを知るために「指定管理者制度で何が変わるのか」(文化政策提言ネットワーク編)を読んでみました。


以下、要旨と感想です。

 指定管理者制度は、小泉構造改革の流れの中で「自治体のあり方を変える」「官から民へ」の一環として位置づけられています。
肥大化した行政を縮小し、経済性や効率性を重んじることが必要とされていることからこうした制度改革は必要性だと考えられますが、一方で公共施設のありようについては、単に経済性や効率性の面だけではなく、「公共性」や「自治」といった価値や原則が求められています。
 指定管理者制度というのは、政策目的を実現するための「手段」であって「目的」ではありません。そういう意味では、この制度をどのように活用し成果をあげていくのかということは、各地方自治体の運用次第だといえます。とりわけ、指定を受けるのが民間企業であり外郭団体であれ、アウトカム(政策等によりサービス等を提供した結果として市民にもたらせる成果)の明確化が非常に重要です。すなわち、仕様書の中で単に経済性や効率性という面だけではなく、本来の設置目的である公共的目的の実現を明確に織り込むことが求められます。また、行政が箸の上げ下げまでも詳細に指示するような仕様ではなく、創意工夫を凝らして政策目標を効率的に実現できるようなものとする必要があります。同時に、数値的なものだけではない領域も含めて、結果をどのように評価するのかということについても体制を整えることが必要です。さらに、受注者が常に努力し続ける状況があるかどうかを見極めることも重要です。というのは、他に競争相手が無かったり効果的な運営を行うための動機付けが無い私的独占状況で制度を導入しても、効果を期待することは難しいと考えられます。また、導入に際しては既存の受託者の雇用問題なども含めて長期的・包括的な観点からの判断が必要です。



 本書は、上記内容の他にホールや美術館などの文化施設に関する記述が多くありますので、そうした方面の方には参考になると思います。
 
 「新しい公共の担い手」という点に関して、指定管理者制度の対象を単に民間企業を想定するだけでなく、NPOなどのミッションを明確に持った非営利組織との協働についても制度導入の機会にもっと真剣に考えていくべきではないかと思いました。

(参考HP) ▲おうみネット(NPO誌上講座)▲  ▲NPOによる新たな“公共性”を創りだそう!▲

安全・安心まちづくりハンドブック

2005年04月20日 | 読書感想
 近年の残虐で理不尽な犯罪行為の横行が日常化している中で、安心して暮らせる地域づくりが大きな課題となっています。
 そこで、本書「安全・安心まちづくりハンドブック」(ぎょうせい)を読んでみました。


 以下、本書の要旨と感想です。

 防犯まちづくりは、犯罪の誘発要因を除去して安全で安心して暮らせる生活環境をつくっていくことです。
 本書では、防犯まちづくりの特徴として次の4点を挙げています。

1.防犯の視点を計画段階から取り入れ、効果的でバランスのとれたまちづくり。

2.安心して暮らせるコミュニティづくりと連携して進める。

3.まちの中のあらゆるストックを活かし、低コストでも対応できる身近で小さな取り組みを積み重ねていく。

4.防災や交通安全、福祉などの他の分野と連動し、より高い「安全・安心」をめざす。


 また、防犯まちづくりの基本的な手法として4点にまとめられています。


1.被害対象の回避・強化 → 犯罪の被害対象となることを回避するため、犯罪の誘発要因を除去したり、対象物を強化する。

2.接近の制御 → 犯罪企画者が被害対象者(物)に近づきにくくする。

3.監視性の確保 → 多くの人の目を確保し、見通しを確保する。

4.領域性の確保 → 環境を魅力的にしたり利用を活性化して、市民の防犯活動を推進する。


 防犯まちづくりの進め方としては、各地の先進事例を参考としながら、各種基本計画にその要素を組み込むことをはじめとして、防犯の視点から実際に地域の状況を調べたり、住宅や公園施設などを整備する際には、防犯面での工夫が必要とされています。

 草津市では、今後市内で建設されるコンビニやスーパー、パチンコ店などに対し、主に駐車場を対象とした屋外防犯カメラの原則設置を指導する方針を出しましたが、こうしたことも犯罪抑止のために必要な処置だと思います。さらに、こうしたハード面だけではなく地域の防犯活動を活発にしていくことも大切です。また、市民と自治体と警察が連携して犯罪防止に取り組むことが重要です。各地で生活安全条例の制定が行われていますが、その実効性を上げるためには、理念条例の範疇にとどまらず、罰則規定の明記などによって実際に活用できるもととすることが必要だと思います。

 余談ですが、奈良県平群町の騒音オバハンの事件のようなことや、ゴミ屋敷問題などの迷惑行為についても対応できるようにしなければならないのではないでしょうか。 ▲関連記事▲

 一方で、生活安全条例は監視社会になるとの危惧もありますので、そうした面での考慮も必要です。
  ▲毎日新聞特集(「生活安全条例」の不気味)▲  ▲生活安全条例とは何か▲

 
 次に、防犯まちづくりの実践手法としては、実践上のポイント、実態調査の方法、ルールづくり、実践手法などが分かりやすく解説されています。
 その他、本書では具体的な実践手法や事例紹介がされていますので、安全まちづくりを考える上で非常に参考になります。



 草津市は、刑法犯罪の認知件数が非常に高い状況にあることから、草津市の行政評価 
▲草津市HP▲  対象として、人口1万人当たりの犯罪発生件数を、平成15年度の実績値である261件を平成19年度には235人に低下させるという政策目標値が設定されています。▲草津市行政評価システム(防犯対策事業)▲
 

 今後、安全・安心まちづくりの取り組みを市民と行政が一体となって進めていくことが求められています。


日本の「構造改革」 (最終回)

2005年04月09日 | 読書感想
 
 今日は天気が最高に良くて、桜も満開でした。あんまり綺麗だったので、近所の立木神社付近の桜を写真に撮ってきました。(右の写真をクリックすると大きく表示されます)
 
 さて、今回で岩波新書「日本の『構造改革』~いま、どう変えるべきか~」を素材にした論評は最後となります。
 
 筆者は、本書のあとがきで次のように記述しています。
  
 サッチャーにならい、純粋な市場主義社会をこの国に実現すること。これこそが小泉構造改革のねらいである。サッチャリズムの失敗を反面教師にして、市場主義改革と「第三の道」(排除される者のいないポジティブな福祉社会をめざす)改革を同時並行的に推進する。これこそが今の日本にとって必要十分な「構造改革」だ、と本書で私は説いた。

 しかし、日本の「構造改革」が、サッチャリズムのように徹底した市場主義に向けての改革という側面で見ることが正しいかどうかは疑問の残るところもあります。「20年遅れのサッチャリズム」では破綻が目に見えているし、その改革を経て「第三の道」へという歴史総括もなさそうですから。
 
 蛇足ですが、自民党政治の本質については「自民党が負けない50の理由 (50回選挙をやっても)」を読むと理解しやすいと思います。この本では自民党の政治は桃太郎の噺のように良くできているとしていますが、桃太郎である自民党が活躍する場面を自ら演出するため「抵抗勢力との闘争」を位置づけていると見るのは、ちょっと考えすぎなのかも知れませんが・・・。

 ちなみに、この本で桃太郎の噺に例えられている配役は次のとおりです。
 桃太郎=自民党、おじいさん=アメリカ、おばあさん=財界(桃太郎の利益誘導政治の原資となる吉備団子を提供)、犬=警察、猿=官僚(知恵袋)、キジ=翼賛野党、赤鬼=アカ(共産党・左翼)、青鬼=環境保護勢力。
 
▲書籍紹介▲
 


 「構造改革」をめぐる本当の構図は、自由党と民主党が融合した意味を考えると明確になると思います。そのことに関連して、筆者は民主党と自由党の合併は決して「野合」ではないと次のように述べています。

 日本の経済構造改革とは、次のことを意味する。不自由、透明、不公正なまま長年放置されてきた日本の市場経済を、自由、透明、公正なものに作り替える市場主義改革は、是が非でも必要である。だがしかし、それだけでは十分な構造改革とはいえない。必要にして十分な構造改革とは何なのか。それは、市場主義改革と「第三の道」改革を同時並行的におしすすめていくことである。

 「市場主義改革と『第三の道』改革を同時並行的におしすすめていく」担い手としての民主党の役割が、自由党との融合によって相互補完されたということです。
 
 そのことを踏まえて、小泉「構造改革」の本質やそのことをめぐる論点は、絵に描いたような「保守対リベラル」という意味での「徹底した市場主義」対「第三の道」という構図で理解しようとしても無理だと思います。
 現在の「構造改革」は、「官から民へ」のスローガンの下で実際には従来の利益分配政治の延命を図っているだけのことで、別の言い方をするとグローバゼーションの進展の中で我が国の社会経済システムをどのように再編していくのかということについて、その道を「選択」し「責任」をもって推し進めていくイニシアチブではなく、「依存」や「無責任」(国際関係でいうと「連携」ではなく「不信」)を増大させるものです。
 (本気で改革を行うつもりなら、郵政民営化よりも公共事業の徹底的見直しや社会保険庁に象徴される不正やムダの一掃、財源の地方への移譲の積極的推進などが先だと思います。)

 こうした視点に立って、日本の「構造改革」はどうあるべきかについては、次のように整理できるのではないでしょうか。
 
1.「官から民へ」というスローガンの下で、新たな公共の役割を顧みないで突き進む民営化(小さな政府)ではなく、グローバリゼーションの中で益々増大する公共の役割を、様々な主体が多元的に支える社会システムに向けて再構築していくこと。

2.「政官業の癒着」や「依存と分配」を、「自立と創造」「選択-責任-連携」へと転換すること。

3.「構造改革」や「政策転換」を成功させるためには政権交代が必要であり、政権選択の選挙は政策を競い、そのなかで政策を選択するというマニフェスト型の「政策市場」を形成することが不可欠。


 以上で、本書の紹介をしつつ「構造改革」のありようについて考えるシリーズを終了します。
 
 明日からは、17日に行う当まちづくり本舗主催の「ロールマニフェストについて勉強会」の内容を検討していきたいと思います。
 

日本の「構造改革」 (その3)

2005年04月08日 | 読書感想
 今日は、岩波新書「日本の『構造改革』~いま、どう変えるべきか~」を参考資料にしながら、小泉内閣の政策や今後のありようについて考えるシリーズの第3弾です。 
   ※以下、この色の文書は本書等からの引用です。  

  2001 年ニッセイ基礎研シンポジウム「21 世紀日本型資本主義は何処へいく」(佐和隆光氏基調講演)より
 保守とは何か、リベラルとは何かと簡単に定義しますと、市場(マーケット)を万能視して、自己責任、自助努力をモットーとして低福祉・低負担を施行し、社会的異端に対して厳しいのが新保守主義です。さらにつけ加えれば、伝統や血筋を重んじるのが保守主義の立場です。それに対して、市場は万能ではないから、経済安定化のためには政府の市場介入は不可欠である、あるいは失業のような不均衡を解消するためには政府が市場に介入することはどうしても必要なのだとして、相対的には高福祉・高負担を施行し、経済的弱者をも含めて社会的異端に対して寛容なのがリベラリズムです。



 本書でも、アメリカにおける保守とリベラルについて同じような解説がされています。
 日本の保守や革新(リベラル?)は、この概念とは違う形態のように思います。
 自民党は、「保守」と位置づけられていますが、田中内閣以降で顕著な公共事業の肥大化路線を歩んできた点から考えるとズレますよね、きっと。

 
  戦後の日本において、保守主義の旗色をもっとも鮮明にしたのは中曽根康弘元首相である。中曽根氏は、国鉄と電電公社を民営化し、消費税導入の糸口をつけるという、二つの保守主義改革を断行した。のみならず、中曽根氏は、靖国神社の公式参拝を復活させたり、ヤマトイズム的発言を再三再四くりかえすなど、保守主義の面目躍如たるところがあった。小泉純一郎首相もまた、保守主義という点に関するかぎり、中曽根氏に勝とも劣らない。
 


 なるほど。
 そういう観点から整理すると、自民党の系譜や現在「抵抗勢力」とされている人たちと小泉首相の立場の違いが鮮明になりますよねぇ。とにかく、政治の中に「利権」が入ると非常に分かりづらくなるので、やめてほしいです。
 本書で言う「保守主義」という点で考えて見ると、小泉首相(構造改革路線)は自民党における異端ではなく、中曽根氏の延長上にある現在の政策が本来の姿なのかも知れない・・・。 

 アメリカに話しを戻すと、ブッシュ政権になってから京都議定書やABM(大陸間弾道迎撃ミサイル)制限条約からの離脱宣言など、急速にユニラテラリズム(一国主義)▲新聞解説▲に傾倒してきましたが、こうした点から考えるとブッシュ政権は自由な市場を万能視し、政府をできるだけ小さくし、経済活動の多くを民間企業にゆだねるのが望ましいとし、自助努力・自己責任をモットーとする立場という意味の保守主義の特徴よりも秩序と伝統を重んじ、異民族や異文化を差別する排他的な傾向が強いということが顕著な「旧」保守主義だと本書では位置づけています。
 
 では、「ネオコン」とは何か?
 本文での解説を待つ前に、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』で調べてみました。
 ▲ネオコン▲ ここでは、「ネオコンは、トロツキストを起源とする保守派ムーブメントである。」「旧来の新保守主義(レーガン、サッチャーなど新経済政策としての新保守主義)と混同してはならない。ネオコンは旧来の新保守主義とは全く異なる思想・目標をもった政治グループである。」と記してあります。

  先に、新保守主義とは、経済面での保守主義を重視し、異端に対しては比較的寛容な立場である、と私見を披露したが、ネオコンとは、私の定義する新保守主義とはまったく逆の立場を意味する。

 うむ、アメリカでもややこしくなってるんだなぁ・・・。



 さて、次は時代の大きな流れであるグローバリゼーションについて。
 グローバリゼーションは、社会主義の崩壊によって2極に分断されていた市場や社会の障壁が崩れ、また情報通信技術の進歩や普及などによって、誰にも止めることができない現実となっています。であるとするならば、この現実に対してどのように適応していくのかが問われます。
 そうした意味で、重要になってくるのが「民主主義」「自由主義」「公正」などの普遍的な価値規範をグローバリゼーションが浸食するのを未然に防ぐよう、周到な制度設計を用意することだと本書では指摘しています。
 
 ちょっと飛ばしすぎかと思いますが、これで一応、第1章から第3章まで終わりました。
 (とにかく、現状を正しく理解するためには、大きな潮の流れとそこに派生する小さな渦を見間違えないようにすることが重要です。)
 
 今日のところはこの位にしておいて、次回は第4章「いま、どう変えるべきか」を素材としながら、今後のありようについて考えていきたいと思います。 (_ _)¢ ..zzZ 
 

日本の「構造改革」 (その2)

2005年04月07日 | 読書感想

 昨日に引き続き、岩波新書「日本の『構造改革』~いま、どう変えるべきか~」を参考資料にしながら、小泉内閣の政策や今後のありようについて考えていきたいと思います。  ※以下、この色の文書は本書からの引用です。
 
 一昔前、「構造改革論」という言葉が流行したのをご存じでしょうか?

 もともと「構造改革」は左翼用語だった。1956年2月に開催されたソ連共産党第20回大会で「社会主義への道の多様性」が容認されたのを受け、同12月のイタリア共産党第8回大会において、トリアッティ書記長が「構造改革路線」すなわち独占資本の構造を具体的かつ部分的に改革することを通じて、社会主義への移行をはかるという路線を提案した。日本でも、1960年11月江田三郎書記長が構造改革路線を打ち出したのだが、左翼の猛反発を受けるという経緯があった。
 
 小泉内閣のいう構造改革は、これとは全く違う意味です。(今時、誤解する人はいないと思いますが・・・。)
 
 そこで「構造」を「仕組み」「からくり」という別の言葉で置き換えると、少し分かりやすくなります。
 筆者の定義では、 構造改革とは、市場経済の「仕組み」を変えることである。~日本の市場経済は不自由、不透明、不公正に過ぎる。それを自由、透明、公正なものに作り替えることが、私のいう経済構造改革にほかならない。 とされています。
 
 ライブドアによる、ニッポン放送株買収をめぐるドタバタ劇を見ていても、日本の経済システムがグローバルスタンダードからかけ離れた「日本的特殊資本主義」とでも表現できるよう状況ですから、その方向性であるならば問題無いようにも思います。
 
 しかし、 小泉首相の構造改革は、銀行のかかえる不良債権の処理、そして膨大な国債残高をかかえる国家財政の改革の二点につきる。 と示されているように、今行われている「構造改革」は、ちょっと趣が違ったもののようです。
 小泉「構造改革」の本丸が郵政民営化であることから見ると、その大きな視点は「官から民へ」ということを重視したもののようです。その背景として、「日本型社会主義」と称されるような官の肥大化や既得権益や様々な規制や保護政策による護送船団方式を何とか打破しなければならない状況となっていたことがあります。
 
  ~小泉首相を「日本のサッチャー」にたとえたが、サッチャー元英首相の改革は、市場主義という確固たる思想的裏付けを有していた。~ところが、小泉首相の改革は、自由、透明、公正な市場経済をつくるという意味での、市場経済改革の王道を歩むのではなく、財政改革という狭義の構造改革にのみ片寄った「いびつな構造改革」だといわざるをえないのである。
 
 うん、本当に「歪」だと思います。本来、国民が求めていることで今最も優先して取り組むべきことは社会保障制度全体(特に年金問題)の構造改革であるはずなのに、そこはほったらかしにして、郵政民営化一辺倒というのは理解に苦しむ状況ですし、第一、党内調整とかなんとか訳のわからない状況で中途半端な改革になりそうだなぁ。
 とはいえ、サッチャリズムの「小さな政府」や「市場至上主義」が賞賛されるべきだということではありません。

サッチャー元首相は、市場主義改革により、イギリス経済の効率化に大いなる貢献をした。しかし、貧富の格差拡大、公的医療・教育の荒廃という、公正と価値規範にもとる社会を生み出した。 

 昨日のブログで書いたように、「完全失業者が300万人を超え、フリーターなどの不安的雇用の増加に止まらず、働く意欲を無くしていく若者たちがものすごい勢いで増加している」状況は、まさしくサッチャリズムの負の部分のみが顕在化しているようです。
 
 
 
 イギリスでは、こうした問題から1997年の総選挙で労働党が保守党に圧勝しブレア政権が誕生したことからも、サッチャリズム路線はすでに歴史の検証を受けているし、私たちはその教訓を学んでより良い方法を考えるべきだと示唆しているのではないでしょうか。

 ここで、そもそも市場主義とは何かについて考えてみることが必要です。というのも、基本的な経済理論を知っておかないと、これからの方向性を系統だって組み直すことが難しいと思うからです。
 
 市場主義とは「消防、警察、国防など一部の公共サービスを例外にして、他の社会経済活動の一切を市場(民間)にゆだねるのが望ましい」とする思想を意味する。~経済学の世界では、新古典派とよばれる学派が市場主義の立場にくみする。アダム・スミスの「見えざる手」とは、要するに、市場のことである。「人間が私利私欲を追求するに任せておけば、社会全体の福利は最大限達成される」とのアダム・スミスのテーゼは、新古典派の基本命題のひとつとされてきました。
 
 うむ、なつかしい名前が出てきたなぁ。そういえば、随分昔にこういうたぐいの本を色々読みました。
 しかし、市場に完全にまかせておくだけでは実際にはうまくいきません。そこでケインズの登場という訳です。
 
  1924年、ジョン・メイナード・ケインズは、『自由放任の終焉』を世に問い、アダム・スミスのテーゼへのアントテーゼをうちだした。「市場は不完全である」との認識が、ケインズ経済学の出発点に位置づけられる。
 
 しかし、こうしたケインズの考え方に基づく政策によって、行財政の肥大化や高福祉・高負担が生み出されていきます。バランスを欠く政策を生み出す要因として、政治的思惑(利権)などがあり、それによって様々な弊害を生み出すこともまた事実のようです。日本でいうと、田中内閣あたりから公共事業に利権の虫が巣くってしまい、破綻に向けて一直線という感じになってきたように思います。
 
 「小さな政府」を指向し、社会経済活動のいっさいを市場にゆだねることが望ましいとするサッチャー英首相とレーガン米大統領は、ケインズのいったことを逆手にとったのである。すなわち、市場を可能なかぎり「完全」なものに近づけてやれば、政府の市場介入は不必要になるはずだ、と。要するに、市場が完全でありさえすれば、政府の市場介入なしに、市場経済は完璧に機能するはずである。
 
 ・・・そうか、そういう源流があるのですか。でも、これはもう20年前のこと。
 今は、ブレア政権の時代であり、アメリカではネオコンの台頭がありあます。
 
 そこで次回は、その流れをどのように考えれば良いのか、それをどのように変えるべきなのかについて考えてみたいと思います。(つづく)

日本の「構造改革」

2005年04月06日 | 読書感想
 小泉「構造改革」の本丸(目玉商品)と言われる郵政民営化の論議が本格的にスタートしました。
 
 多くに国民は、90年代の失われた10年の間に益々増大した社会の閉塞感を打破してくれるのではないかとの期待で「構造改革」を歓迎しました。このことは、小泉政権発足時の異常は程高い支持率を見ても明らかですが、政権発足後の4年間で本当に世の中は良い方向に変わったのか疑問に感じる方も多いのではないでしょうか。
 完全失業者が300万人を超え、フリーターなどの不安的雇用の増加に止まらず、働く意欲を無くしていく若者たちがものすごい勢いで増加しいる現状を見ると、なし得たことよりも失った対価があまりにも大きすぎるのではないかと思います。

 
 
 そこで、現在行われている「構造改革」を問い直すため、「日本の『構造改革』~ いま、どう変えるべきか ~」(佐和隆光 著)を読みました。
 非常に分かりやすい内容で、今行われている「構造改革」とは何かを理解する上で参考になりました。
 
 明日以降に本書を紹介しならが、「構造改革」の本質や問題点を明らかにしていきたいと思います。(続く)

(読書)協働社会をつくる条例

2005年03月29日 | 読書感想
マニフェスト検証の準備として、「協働社会をつくる条例~自治基本条例・市民参加条例・市民協働支援条例の考え方~」(松下 啓一著:ぎょうせい)を読みました。


(要旨)
 全国の自治体で、自治体と市民の関係を再定義・再構築することを大きな目的とした条例化が進んでいる。主なものとして、自治基本条例(まちづくり条例も含む)、市民参加条例、市民協働支援条例がある。
 自治基本条例は、自治の理念・基本的な制度や権利を内容とするもので、自治体の憲法ともいえる。
市民参加条例(市民協働支援条例も含む)は、政策決定、実施、評価に市民が参加していくしくみや、市民・NPOとの協働および支援を図ることを目的に制定される。(それぞれ、複合型や単独型など形式は多種多様。) ▲自治基本条例関連リンク集(大和市)▲
 

 こうした条例が生まれてきた背景は次の3点
①地方分権の進展によって条例制定権が拡大されると共に自治の枠組みや自治を実現するための仕組みを整える必要がでてきた。
②自治体の組織および運営については地方自治法等によって定められているが、現在の自治体運営にとって基本的な市民参加や協働、情報公開などに関する規定が無い 
③首長個人の指導性にのみ依拠するのではなく、継続的な自治運営のための仕組みが必要

また、公共を誰がそのように担うのかという概念の再構築が求められている中で、従来のように公共をすべて行政が
担うというのではなく、次のような理由で役割分担が必要になってきたとされている。

①地方分権によって自治体の重要性が増加
②公共の領域が拡大
③新たな公共の担い手としてのNPOへの期待
④セクター間での協働の必要性
⑤情報公開・説明責任が不可欠
⑥公共領域での活動のルール化が必要

自治基本条例については、ニセコ町のまちづくり条例が先駆的な役割を果たしプロトタイプとなっているが、名称やスタンスは様々。

①自治基本条例 (例)杉並区自治基本条例のみ
②市民参加条例 (例)宝塚市市民参加条例
③市民協働支援条例 (例)犬山市市民活動支援条例

自治基本条例の要件は、次のとおり。
①自治の基本理念やビジョンを示していること
②自治の実現にとって重要な市民の権利や責務を規定していること
③自治をつくるための制度や仕組みが規定されていること
④行政・議会の組織・活動に関する基本的事項を定めていること
⑤自治体の最高規範として、他の条例や計画などの立法指針・解釈指針となっていること
⑥以上のことが形式として規定されているだけでなく、実体的にも機能していること

しかし、これらの要件をすべて網羅して理想的なものに仕上げることよりも、むしろ実際の問題解決のために活用することが無ければ意味が無いため、市民との協働で策定していくプロセスや実際の自治実現に役立てることが重要。
ポイントは、自治を実現するための市民の権利や制度・仕組みといった枠組みを規定することにある。

「基本」とは「物事が成り立つためのよりどころとなるおおもと」の意味であるが、その条例の位置づけは次の2点。

①個別条例や各種施策の最高規範となる
②個別条例や各種施策の共通の基本理念となる


 自治基本条例の役割・メリットは次のとおり

①個別条例や様々な施策の全体構成が分かりやすくなる。
②個別条例や施策を基本条例の理念の下で再構築し体系化できる
③自治体と市民とのパートナーシップが促進される
④自治体運営のルールや市民の権利・責務が明確になり、継続的で安定的な運営が可能


条例作り方には3つの類型がある。

①行政主導型:行政が企画・立案し、関係者との調整を図った上で議会決議する方法
②市民主導型:市民が条例案をとりまとめて、議会を通じて実現する市民立法型。この場合は実効性に疑問が残る。
③協働型:市民が先行するか行政が先行するかは別として、対等な関係で策定していく方法。本来、協働型でつくることが望ましいが、条例の場合は行政計画と違い議会の条例制定権限との関係で今まではこの形態は少なかったが、一番有効。


 その他、本書では実際に条例づくりをおこなう時に参考となるよう、必要項目ごとの記述方法や要件等について豊富な具体例と最新データを駆使しながら詳しく書かれているので、関係者必読の書だと思います。

(読書)マニフェストで政治を育てる

2005年03月21日 | 読書感想
書籍名:マニフェストで政治を育てる
編 著: 藤森克彦(富士総合研究所)、大山礼子著

▲書籍紹介HP▲


 2月21日にマニフェストに関する記事の最後に(つづき)と書きましたが、しばらく途絶えてしまいました。
 今回はその続きも兼ねて本書の紹介をします。


(以下、要旨メモ)

【マニフェストとは】

 英国の選挙戦などで政党が発表する政策綱領のこと

 内容:ビジョン、任期中に達成すべき重要政策についての数値目標、達成手段、財源等

 有権者の評価は、マニフェストを掲げることについて81.2%が肯定的。

▲富士総合研究所 「マニフェスト選挙」に関する意識調査結果▲

  

【効果】
●政党の政策が分かる
●政権政党の青写真になり、内閣主導による改革推進ができることで、官主導から国民が主体的に選択した政治主導による改革可能。
●事後に達成度の検証が行える、実現のための原動力になるとともに、実現のための推進力となる。


【英国総選挙の特徴】

政党本位の選挙戦:有権者が重視するのは政党(政策)
有権者の関心事:誰が当選するのかではなく、どの政党の候補者が当選するのか
マニフェストで曖昧な点は、選挙戦での政策論争の軸となる
インフォームド・コンセント的な役割
なぜ英国では政党本位・政策本位なのか
 1)利益誘導しにくい仕組み(国会議員が官僚と直接接触することが原則禁止)
 2)補助金獲得への介入の余地が小さい
 3)政党本部主体の選挙戦を想定した選挙規則(候補者の選挙費用上限が130万円と少額)
 4)候補者が政党本部から強力に支援されている
 



【日本での課題】2003年11月の総選挙時点

 政権党が示したマニフェストについて達成度検証がされるなどの「サイクル」が無い
 従来の公約より具体性が高まったが、まだ質が低い。
 与党のマニフェストは、政権を担った期間の総括が欠けている。
 達成手段と財源への言及が乏しい。
 作成過程や体制の未確立
 政党が、政策理念や個別政策の下に結集した組織とはなっていない。
 官僚の関与が大きい。
 候補者が「個人公約」を掲げるなど、徹底した「政党本位」にはなっていない。
 幅広い層から有能な人物を政治家にしていくしシステムが不足(「地盤、看板、カバン」が多く、衆議院議員の4人に1人は世襲議員)

 有権者がマニフェストの内容を把握しやすい環境が未整備
 連立政権であるため、政党間で乖離が生じる。
 与党と内閣が対立し「抵抗勢力」になっている
 法制化の過程での民意の反映が不足
 達成度を検証していく体制が確立されていない。
 公職選挙法により、選挙期間中での配布が制限されている。
 地方レベルまでを視野に入れた選挙のあり方、政党組織、二院制の問題など、従来の制度の再検討も必要。

【首長選挙でのマニフェストの課題】
 現職優位にならないように配慮が必要
 首長候補者の政策プログラム策定にも政党が関わるべき(無党派がもてはやされる傾向はいかがなものか)
 議会の協力が不可欠


 本書は、マニフェスト元年といわれている2003年総選挙直後に書かれたものであることから、分析不足の面もあるように思いますが、大きな論点に間違いはなく現時点でも有益なものです。また、マニフェストに関する書籍が少ない中で、関係者は一読されることをお勧めします。
 最近の選挙では、マニフェストが随分と定着してきた感があり、これからの政界再編や政治文化を大きく変えていく可能性を持ったツールだと思いますので、さらに認識を深めていく必要がありそうです。