後円部の半分ほどが無残にも削られている。
前方部を見ている。括れの部分がお判りになると思う。古墳周囲には三重の濠が巡らされていたということに驚きを隠せないのは我輩だけだろうか。
ここで少し・・この古墳の主は・・・当該古墳は5世紀半に築造されているということから倭の五王の時代の真っただ中であるということだ。讃は421年 425年 430年 宋が建国(420年)された翌年に遣使している。遣使については半島出身で、百済との結びつきの強固な者であり、それが筑紫の者であれば魏志倭人伝以来半島との関係を継続していたと思われ、遣使には持って来いの人物であったろう。
話は別だが、日本書紀 仁徳天皇 12年7月3日 高麗国が鉄の盾、鉄の的を奉った。8月10日には高麗の遣使や群臣百寮を集めて高麗の奉った鉄の盾・的を試した。多くの人が的を射通すことが出来なかった。ただ的臣の祖(いくはのおみのそ)の盾人宿禰(たてひとのすくね)だけが鉄の的を射通した。高麗の客人たちはその弓射る力の優れたのを見て共に起って拝礼をした。翌日、盾人宿禰を褒めて的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)の名を賜った。とある。この場にいた仁徳天皇は彼を寵臣の一人として見ただろう。我輩はこの的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)の関係者ではないのかと思ったりもした。
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