きれいなきれい〈田添公基・田添明美のブログ〉

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トリアノン       田添明美

2021年05月29日 09時00分00秒 | 「いたずら」田添明美

二十才の私は 絵本を作ろうと
鷹美に通い、初めて就職した

高円寺のケーキ屋「トリアノン」に面接に行った
(事務じゃなくていいの
 どれ位あれば生活できる)と社長は聞き
正社員採用は 決まった

父は直ぐさま上京し
田舎染みた所作で
(娘をよろしくお願い致します)と社長に頭を下げた
 私は その父が恥ずかしかった

昼働き 夜鷹美に行った
疲れたので 昼鷹美に行き 夜働いた
(二兎追う者は、一兎も得ず)と社長は言った

当時 その店は大評判で 次々客が訪れた
社長は 私に向かい
(客の一人が 大塚さんが無愛想だと言ってきたが
       大塚さんは無口なんだよね)と言い

愛用の白長エプロンは
(実は ズボンのチャックを
 開けたままにしてしまうから)と言い
写真を撮りだして 私の写真を見て
(変だな 大塚さんはもっといい顔なのに)と言った

そこは 喫茶室もあり
常時 友人たちがおしかけ、男性も三人はいた
ある日 階段ですれ違う時
(あの、お父さんを 悲しませないで)と社長は言った

そのうち 電車の中で
(死にそうな顔をしている)という声を聞き
そこを辞し、下宿近くに バイト先を探した

たった十ヶ月の交流で その後
賀状のやり取りは 何十年もつゞいた

ある日 立派な書状が届いた
(自分は隠居する事にしたので
 今までのご厚情に厚く感謝し 御礼申し上げ、
 これ以後の賀状はなしとする事をお許し頂きたい

 自分は学歴がなく 戦争に赴いた際 
 便所の灯のもとで 読書をした)
この二点のみを 記憶する
末尾に
(全国菓子協会会長)とあった

それから 賀状は ぴたりと止まった

一代で 菓子店を起こし
夫婦二人で 頑張った
あの、社長を 私は忘れない


              R3.5.13

明美20才

付記
母の棺に何を入れるかで、探したら
母は、父の運転免許証・兄の学生証
私のこの写真と・私が小1で描いた
絵の1枚を残していた。
これを入れて焼くというので、
(私はこの写真を持っていない)と夫に
撮って貰い(好き嫌いの多い母が、この
表情のどこが気に入ったのか)考えようと
したが、未だに、謎である。