東洋医学の原点について、時代性の無視がその理解を妨げているのではと思う。例えば陰陽論について、あたかも本質論の如くに捉えられている。
しかしながらこれは誤謬であると思う。古代中国という時代性から、人類の認識はそのような本質論のレベルにある筈は無く、せいぜいが現象論以下のレベルである筈。
これは、『武道哲学講義(第三巻)』(現代社)で南郷先生が、有名な「万物は流転する」(ヘラクレイトス)という言葉を、「現在、我々の常識としての言葉では、たしかに「万物は流転する」等という格好よい文字で表現されているが、古代ギリシアでは、「あれも、これも、みんなみんな変わるよなあ・・・・・・」というレベルでしかなかったのである。」と説かれている。のと同じ誤謬であるのではと思う。
それに加えて、そもそもの中国語という言語が、日本語であれば全く別の言語表現となる筈である、「ものごとのありかたを、日陰と日陰とにたとえて述べる」と「ものごとを陰と陽の二重構造として論じる」も同じくに「陰陽論」という言語表現となるしかないから、現代の人類のレベルから古代中国の人類のレベルを計ってしまって、高いレベルの言語表現としてしまうという誤謬に容易く陥ってしまう、のではと思う。ここについては自身の中国語に関わる一般教養の不足を感じる。
この時代性と言語の特殊性に関わる二重の理解不足が、古代中国という時代の東洋医学の原点の理解を歪めたものとしてしまって、結果としてその理解を妨げているのではと思う。
しかしながらこれは誤謬であると思う。古代中国という時代性から、人類の認識はそのような本質論のレベルにある筈は無く、せいぜいが現象論以下のレベルである筈。
これは、『武道哲学講義(第三巻)』(現代社)で南郷先生が、有名な「万物は流転する」(ヘラクレイトス)という言葉を、「現在、我々の常識としての言葉では、たしかに「万物は流転する」等という格好よい文字で表現されているが、古代ギリシアでは、「あれも、これも、みんなみんな変わるよなあ・・・・・・」というレベルでしかなかったのである。」と説かれている。のと同じ誤謬であるのではと思う。
それに加えて、そもそもの中国語という言語が、日本語であれば全く別の言語表現となる筈である、「ものごとのありかたを、日陰と日陰とにたとえて述べる」と「ものごとを陰と陽の二重構造として論じる」も同じくに「陰陽論」という言語表現となるしかないから、現代の人類のレベルから古代中国の人類のレベルを計ってしまって、高いレベルの言語表現としてしまうという誤謬に容易く陥ってしまう、のではと思う。ここについては自身の中国語に関わる一般教養の不足を感じる。
この時代性と言語の特殊性に関わる二重の理解不足が、古代中国という時代の東洋医学の原点の理解を歪めたものとしてしまって、結果としてその理解を妨げているのではと思う。