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鍼灸の補瀉~科学的な再措定とは~

2015-07-02 06:00:00 | 鍼灸理論・東洋医学
鍼灸の補瀉について、如何に学ぶかの大事性痛感する。

昨日、はりきゅう理論の時間に鍼灸の補瀉について学んだ。

補瀉とは、患者の病の虚実に対しての鍼灸の手技のありかたで、虚に対しては補、実に対しては瀉とされている。

鍼灸の手技においての一般的なイメージとしては、柔らかい刺激が補。強い刺激が瀉である。

古代中国にあっては灸で温めるのが補で鍼による瀉血が瀉である。それゆえ、原点としては、灸が補、鍼が瀉。という説もある。

鍼灸の補瀉の話は、上記のように一般的に云々しているとそれほどの違和感も無く、自身の経験からも納得いくものである。

しかしながら、具体的な補瀉の話となると灸はまあ良いとして、鍼の補瀉の話は、思わず吹き出してしまうレベルの荒唐無稽な手技と思える。

具体的には六つ、呼吸の補瀉。迎隋の補瀉。開ごうの補瀉。刺入速度の補瀉。揺動の補瀉。捻転の補瀉。を学んだ。

呼吸の補瀉。刺入速度の補瀉。揺動の補瀉。は、補瀉ということを別にすれば、補と瀉の手技に違いがあるのではと思える。

一方、迎隋の補瀉(経絡の流注方向の正反による)。開ごうの補瀉(抜鍼後の鍼孔を塞ぐか否か)。捻転の補瀉(鍼の捻転の方向の時計回り反時計回り)。は、大真面目に説かれると、思わず吹き出してしまいかねない。

しかしながら、昔から有効であるとして伝わっているものは、如何に荒唐無稽のありえないものと感情が反発しても、最初から否定して捨て去るのは観念論的態度であり、科学的、唯物論的と言える為には、先ずは自身で経験、実験、実践した上でその成否を判断するという手続きを経る必要があると思える。

観念論的なものを唯物論的な立場から如何に学ぶかという視点を持つことの大事性である。

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