古典ギリシャ語では、δπλάγχνον(スプランクノン=内臓)の派生語として「あわれむ、あわれみ」があるということに、古代ギリシャ人の認識の豊かさがイメージされる。
『臓単』(原島広至著 NTS)のコラムで、「古代ギリシャ人は、「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味で、スプランクノンの派生語が「あわれみ、あわれむ」を意味するようになった(まさに「断腸の思い」である)。」と書かれてあった。
これは、古代ギリシャ人が大変豊かな厚みのある像を、それゆえに豊かな感情を持っていたということの証左である、と思える。
それゆえに、古代ギリシャの哲学者の、プラトンにせよアリストテレスにせよの説くことを、現代の我々のほとんどが説く如くの薄っぺらなものとしてはならないのだ、と思える。
それだけに、我々が古代ギリシャの、あるいは古代中国の文献を読む時には、そのようなものとして読むのでなければ、古代ギリシャや古代中国の、そのままの理解とは成っていけないのだと思える。
そのためには、自身が現実の世界そのものとしっかりと関わって、悪戦苦闘して、の自身の専門の概念規定を一つ、また一つとなし続けていかねばならないのであり、このことは同様に自身の生活のあらゆることに関わってでもあり……と思えた。
昨日は、自身のアタマに浮かんだ思いをこれは書きとめておきたいとの思いからの、書きなぐるレベルでの、であったので、若干の補足を加えておきたい。
古代ギリシャ語では、「あわれむ、あわれみ」という語がδπλάγνον(内臓)の派生語であり、それが「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味での、であるということは、自身が、我々日本人が、「慟哭」とか「痛恨」とかで表現するような、強烈な感情をともなっての、単なる脳細胞の描く像に止まらず、全身レベルでの、身悶えするような、生々しい像を描いているのであろう、と。
そして、言葉、言語というものが素朴な形では誕生してはいるものの、未だその発展の途上、創出の途上であったということを考えあわせると、古代ギリシャの哲学者の言葉というものは、この「あわれむ、あわれみ」というレベルでの、恐ろしいほどの厚みを持った像として、一つ、また一つと概念規定されていったのでは無いか、と思えた。
それゆえに、その人類としての系統発生を繰り返す形の実践が、必須のものとされるのでは……というのが、昨日の、であった。
『臓単』(原島広至著 NTS)のコラムで、「古代ギリシャ人は、「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味で、スプランクノンの派生語が「あわれみ、あわれむ」を意味するようになった(まさに「断腸の思い」である)。」と書かれてあった。
これは、古代ギリシャ人が大変豊かな厚みのある像を、それゆえに豊かな感情を持っていたということの証左である、と思える。
それゆえに、古代ギリシャの哲学者の、プラトンにせよアリストテレスにせよの説くことを、現代の我々のほとんどが説く如くの薄っぺらなものとしてはならないのだ、と思える。
それだけに、我々が古代ギリシャの、あるいは古代中国の文献を読む時には、そのようなものとして読むのでなければ、古代ギリシャや古代中国の、そのままの理解とは成っていけないのだと思える。
そのためには、自身が現実の世界そのものとしっかりと関わって、悪戦苦闘して、の自身の専門の概念規定を一つ、また一つとなし続けていかねばならないのであり、このことは同様に自身の生活のあらゆることに関わってでもあり……と思えた。
昨日は、自身のアタマに浮かんだ思いをこれは書きとめておきたいとの思いからの、書きなぐるレベルでの、であったので、若干の補足を加えておきたい。
古代ギリシャ語では、「あわれむ、あわれみ」という語がδπλάγνον(内臓)の派生語であり、それが「はらわたが揺り動かされるほどの感情、心の内奥から沸き起こる感情」という意味での、であるということは、自身が、我々日本人が、「慟哭」とか「痛恨」とかで表現するような、強烈な感情をともなっての、単なる脳細胞の描く像に止まらず、全身レベルでの、身悶えするような、生々しい像を描いているのであろう、と。
そして、言葉、言語というものが素朴な形では誕生してはいるものの、未だその発展の途上、創出の途上であったということを考えあわせると、古代ギリシャの哲学者の言葉というものは、この「あわれむ、あわれみ」というレベルでの、恐ろしいほどの厚みを持った像として、一つ、また一つと概念規定されていったのでは無いか、と思えた。
それゆえに、その人類としての系統発生を繰り返す形の実践が、必須のものとされるのでは……というのが、昨日の、であった。
【これはもうお見事としか言いようがない。
あえて反論するならば、そのように古代ギリシャの哲学者の言葉・概念というものの、背後の像の厚み受け取って、さて、自身の実戦はどうであったのかが問われるべきであろうとは思う。
これは今後のブログの展開を見ていただくしかないとも言えるが、例えば、猿が木に登って樹上生活をして木から降りることで素晴らしい脳細胞の発達を持ち得たのだ、ということをわかるために、もう10年以上も木に登って降りてを繰り返してはいる。
しかしながら、そのことの成否ということが問題となろう。】