形而上学としての東洋医学の姿は歴史上、誰も見ていないのでは?と思える。
『全集第三巻』(南郷継正著 現代社)では、ヘーゲルの『精神現象学 序論』以降の学びの大失敗について説いていただいている。また、自然哲学(弁証法)、社会哲学(弁証法)、精神哲学(弁証法)をそれぞれに、かつ自然から社会、精神へとして(絶対精神の発展として?)究明してはじめて、哲学(一般?)、弁証法(一般、弁証学)の姿が浮上してくる、それゆえに歴史上、哲学、弁証学を形而上学としてその姿を見た、見せた人は誰もいないと説いていただいている。と理解している。
そのように考える(思える?)と、東洋医学というものも(形而上学としては)歴史上誰も見ていないものなのではないのか?と思える。
では、世に東洋医学と言われているものはなんなのか?それは端的には、東洋医術一般(鍼灸、あるいは漢方という医術の部分のみから見ることが当たり前の現状からは、東洋医術一般ですら無いかもしれないが......)であると思える。
本来、学というからには事実としてあるものの世界(形而下)から上がって(事実を捨象して?)形而上の世界へと至らねばならない。という理解すらが無いのでは無いのか?
念のためにいえば、それは決して空想や想像の世界や事実を無視したデタラメということでは無い。と自身は理解している。