始まりは如何にあるべきか、を唯物論の、弁証法的な唯物論の立場で考えるならば、始まりを考えるときには当然に終わりを対立物の統一として考えなければならないと思う。
これは具体的に考えるならば、当たり前におこなっていることであると思う。例えば、一日の始まりを見事なものに!と考えると、布団をきちんと畳もうとか、朝起きたらまずラジオ体操をしようとか、朝食は和食とか、ヨーグルトと果物をとか、日記を付けようと . . . 本文を読む
n先生の施術を受けた。経絡で治療するということの実際が、朧げながら漸くにイメージ出来てきた、と思う。
一昨日、n先生による4回目の施術を受けた。例によって、望診、問診、脈診、切診等によっての腎、脾の虚証に対してと手指、足の冷え、胃の靠れ等の訴えに対しての治療をいただいた。
このn先生の施術のありかたは、瀬江先生が説かれている治療論の構造論であるところの一般的治療論と特殊的治療論として捉え返して . . . 本文を読む