形而上学について学ぶと経絡治療(=竹山晋一郎)の説く、脈診の矛盾を感じる。どのように考えるべきなのか?経絡治療=竹山晋一郎は、「症は現象であり、証は本質である。我々は脈診によって証を診るのである。」と説く。しかし、である。証が本質であるとするならば、それは形而上の世界の出来事であるのだから、それを脈診=形而下の方法で診ると言うのは、あまりに無茶な話である。それは、頭脳活動、論理能力によってはじめて . . . 本文を読む
月の満ち欠けが人間(=生命体)に大きな影響を与える。それは何故なのか?<生命の歴史>に尋ねれば、物質が生命体化するにあたっての、月の力の大きさは、大変なものがあるのだ、あったのだと納得される。それだけに、月の力の影響を考えての生活の調整の必要性を痛感する。しかしながら、太古の昔にはもう一つの太陽と言ってもいいほどの熱を持っていたであろう月も、現在では月自体の熱というものは無いに等しく、 . . . 本文を読む
施術の感覚の発展、即自→対自→即自対自。当初は自分の感覚のみ(即自)そこから、患者の立場に立っての努力を重ねていく(対自)結果として、自身の施術の感覚が同時に患者の感覚でもあるように(即自対自) . . . 本文を読む
生命の進化の歴史とはある意味、生命体が地球との相互浸透で機能が実体化していく量質転化の歴史それが可能であったのは、そもそものモノがそのような性質を持っていたからだろうか?否、それ以上に、機能が実体したモノが、生命現象→生命体であるから?
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機能としての神経痛モノには実体と機能が直接のものとしてある実体の無い機能もなければ機能の無い実体も無い神経痛とは神経という実体の機能であるそれゆえにまずは実体を変える様に働きかけることで、がもちろん機能に働きかける?ことで、もしかしながら、機能に働きかけるは、そのことで実体を、でしか無い
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「古典に還る」とは本当には=認識論的には如何なることなのか? 世界のあらゆる物事は必ず原点(としての構造)があってのそこからの生成発展の結果としての現在である。(二律背反) それだけに、原点に返ってそこからの辿り返しということは、現在、そして未来を識るには必須の作業である。 しかしながら、その事をしっかりと成し遂げることは至難の技である。 それゆえに、あらゆる専門分野でそれはほとんど成されて . . . 本文を読む
竹山晋一郎は何故に弁証法の適用で科学的鍼灸論としての経絡治療の理論を確立出来なかったのか? 端的には、唯物弁証法の適用ということを一般論レベルで対象たる鍼灸に唯物弁証法の論理を知識的に当てはめて終わり、それが唯物弁証法の適用であると錯覚してしまっていたから、であると思う。 しかしながら、それでは二流の観念論哲学者や宗教家が、自身の観念や神あるいは聖書の言葉から、世界の森羅万象を一方的に解釈し . . . 本文を読む
ある症状に対してどこに鍼を打つべきか、と考えていくとそれには二重性がある、と気づかされる。 その二重性とは、症状の出ている部位に対しての施術であり、症状を出させている部位に対しての施術である。 当初は、この両者をあれかこれからと一人問答していたのだが、結局、両方が真理、真理は二つ、その統一こそが真理、となっていった。 「真理は二つ、その統一こそが真理」ということは、自身の専門とする対象をそれなり . . . 本文を読む
形而上学としての東洋医学の姿は歴史上、誰も見ていないのでは?と思える。 『全集第三巻』(南郷継正著 現代社)では、ヘーゲルの『精神現象学 序論』以降の学びの大失敗について説いていただいている。また、自然哲学(弁証法)、社会哲学(弁証法)、精神哲学(弁証法)をそれぞれに、かつ自然から社会、精神へとして(絶対精神の発展として?)究明してはじめて、哲学(一般?)、弁証法(一般、弁証学)の姿が浮上してく . . . 本文を読む
「覚え書」のカテゴリに分類しているものは、自身のアタマに浮かんで、それなりに思うことができるけれどもしっかりと思えない、思えるようで思えない、アタマに浮かぶ像をしっかりと止めて見ることができない、止めて見れたと思った瞬間に消えてしまう、変化してしまうものを、しっかりと止めて見るために書いたもの、ですので悪しからず。 . . . 本文を読む
随分のご無沙汰です。南郷先生の『全集第三巻』が届き読み進めていくと、「気」の問題をどう考えるべきかということが、ここに全て解かれている、説かれている、との思いとなっていった。同時に、認識論の必須性も痛感された。端的には、気の問題は形而上の問題として扱わねばならないのだと。現在、気とは機能である、と鍼灸学校では、要するに形而下の問題である、がそれはまだ解明されてはいない、と。また、昔々、古代中国とい . . . 本文を読む
人を感動させるものはココロだけである、とマンガ『美味しんぼ』で海原雄山(なんと雄大な名!)が、料理勝負に負けて、お金や権力で最高の食材を手に入れたから!と負けを受け入れられない息子であり勝負の相手である山岡士郎に諭す場面がある。手技や鍼灸の施術も、と思う。最高の技にも二重性があり、ココロのこもった技、言動をと思う。人間は認識的実在であるのだから、ココロを整えることが出来なければ......。それだ . . . 本文を読む
規範というものを自身の内にしっかりと創りあげること=量質転化化することの大事性痛感する。認知症へとなっていく父の言動を視ると、(父の場合には)規範が徐々に失われていって、ということが見えてくる。具体的には、ああしなければならない、こうしてはいけない、ということを無視して、ああしたい、こうしたいが、優先されるようになっていっている。要するに、対象の構造に見合ったアタマの働きが衰えていって、自分の思い . . . 本文を読む
運動(体)を整える=全身運動を行う、ということにも二重性(陰陽)がある、と思える。
「生命の鎖」(ウイリアムズ)の論理に学んでラジオ体操の効用を、それは「欠けたる鎖の輪」を繋いだからということなのかと思い至り、そこから手技療法の施術も斯くあるべし、との思いとなったのであるが、「生命の鎖」をしっかりと繋ぐにはもう一つの方法がある、ということに気づいた。
それは、最初から全ての栄養素 . . . 本文を読む
「生命の鎖」、必須栄養素の過不足無い摂取の必要性から、ではサプリメントでは何故ダメなのか?との疑問が当然にある、と思われる。何故ならば、必須栄養素というものは人間が自分で合成出来ない栄養素であるのだから、逆から言えば、それ以外の栄養素は体内で合成出来るのだから、それさえサプリメントで過不足無くしっかり摂れば良いのでは?との考えも当然にある、と思われるからである。しかしながら、そもそも必須栄養素とい . . . 本文を読む