英語と書評 de 海馬之玄関

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改訂版・英語ディバイドという現象

2022年04月18日 04時02分45秒 | 英語教育の話題




本稿は下記拙稿の改訂版です。

かなりかなり古いです。ただ、わたしの主張は変わらない、鴨。

・英語ディバイドという現象(2005年07月16日)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/b0374fc208e1d2cbd37a24ede26dc560

内容の変化はありませんが、この数年の流れの中で、
より具体的に考えたことやより新しいデータも盛り込みました。
旧稿と併せてご一読いただければ本記事の主張はあるいはより
わかりやすくなる、鴨です。ご興味があれば再読いかがですか。



世はあげて英語、英語のようです。これを称して「英語ディバイドの時代」と言うらしい。デイバイド(divide)とは「分水嶺」とか「分割」という意味だからして、英語ディバイドの時代とは「英語ができる者とできない者が画然と判別され、そして、英語ができる/できないという能力差によって社会や会社における評価が決定される時代」ということなのでしょうか。 

本当かしら? 

まあ、しかし、これらが本当としても嘘としても、英語ができた方ができないでいるよりも多分望ましいとはほとんどのビジネスマンや父母は思っていることでしょう。でもね、なら、「英語ができる」ということは、「どんなことが英語でできる」ということなのでしょうか。実は、ここまで踏み込むと、少なくない企業人事部や保護者の方もそう具体的なイメージはお持ちではないようにも思います。ということで、「英語ができる」と認定される/デイバイディドされる要件は何なのでしょうか。


英語ディバイドの時代であると同時に現在の日本社会は(恐らく多くの先進国は。否、世界中がでしょうか?)PCディバイドの時代であり、コンプライアンシー(世界標準の法的考え方が身についていること、)ディバイドの時代でもあるらしい。世にPCスクールは華盛りだし、ISOの3文字は「USO」と言いたくなるくらい巷に氾濫していますものね。正に、「デイバイド=分水嶺」の大安売り、現在はデイバイドインフレーションの時代と言えるかもしれません。

私は英語ディバイド論に対しては、(ⅰ)英語の必要性、(ⅱ)英語ができる/できないという事柄の意味、そして、(ⅲ)デイバイド論の氾濫という3個の切り口からその内容と射程を(意味と意義と、これらが妥当性を持つ事柄の分布する範囲を)考えています。このトライアッド論から数多の研修企画書を書いてきたし、幸いなことにそのほとんどが受注をいただいてきました。敷衍します。



◆英語は今でも重要?
英語を第一言語(≒母語)とする人口は約3億7千5百万とされる。また、第二言語(≒地域内公用語か地域間コミュニケーションの公用語)とする人口もほぼ英語を第一言語とする人口に等しい。これに、外国語として英語を使用する推計人口の約7億5千万を足せば、合計、15億人が英語でコミュニケーションが行えることになります。

 

英語史的文法論の要点覚書--異形の印欧語「現代英語」の形成、それは「格変化」の衰退から始まった

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/91718985f1a5d1b7df4c7485a966c123

いろんな意味で結構根深い日本語の韓国起源説

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d8a7ec627fab192570817c9c7038e195

小室さんのNY州弁護士試験の結果について。よけいなお世話ですが一言  

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/9ec32966f14e665bdde2052f3a4ea1b3


これは他の第一言語との比較であり条件は異なるけれども、漢語(所謂北京語および広東語)の12億人を上回り、ヒンディー語、スペイン語の各々3億人の5倍です。ちなみに、日本語を第一言語とする人口は世界の言語人口ランキングの中で第9位であり、ドイツ語やフランス語やイタリア語の話者人口よりも多いのです。つまり、第一言語として見た場合、英語は文字通りワンノブゼンに過ぎないけれど、その使用可能人口数から見た場合には漢語とともにジャイアント、と言える。尚、本項の情報は特に別様のソースを記していないものは総てデイヴィッド・グラッドル『英語の未来』研究社出版(1999年)によります。

「インターネットで流通流布される情報の85%は英語である」としばしば語られてきました。その情報の出所は、Internet Societyの1995年以前の調査であり、(2011年の「アラブの春」におけるFacebookの影響を想起するまでもなく)この20年間でインターネットの世界は多言語化の時代に突入し、英語の占有率は格段に低下していることは確実です(ちなみに、下の図表の通り、調査手法が些か異なり単純には比較できませんけれども、Internet World Statsの2010年6月末現在時点のデータでは、英語の占める比率は27.3 %と「激減」しています。ただ、当然と言うべきか、その順位はもちろん1位。尚、「日本語」は堂々の4位ですよぉー!)。



http://www.internetworldstats.com/stats7.htm






しかし、1990年代初期の世界の出版物に占める英語の割合は28%(ちなみに、日本語の占有率は5.1%、漢語は13.3%)でした。而して、出版媒体における、この英語の比率は間違いなくこの20年間で増大していると推計されていて、当たり前のことですが、英語の重要性はやはり大きいことは間違いないです。けれども、英語の重要性はこのような定量的な数字ではなく、「重要な情報」に占める英語の割合という端的には数量化できない部分にあるのではないかと思います。

外交の言語としてフランス語は今でもその独特の地位を占めており、19世紀の半ばまではラテン語はヨーロッパと北米諸国では必須の言語でした。それは、国際政治や学術文芸の領域で<重要な情報>がラテン語やフランス語でコミュニケートされていた/いるからに他ならないでしょう。ならば、まして況や、<重要な情報>における現在の英語の存在感においておや、です。

フランス語の価値とコストパフォーマンス
ずいぶん前のことですけれども、石原東京都知事がおっしゃったように「フランス語は数が数えられない(数えにくい)言葉」というのも事実ですが、現在の国際政治やビジネスにおいて(よほど特殊なケースを除けば)フランス語を学ぶ必要は全くなく、また、哲学・思想においても(現代において哲学とは英米の「分析哲学」に他なりませんから、哲学史を専攻するとか、これまたよほど特殊な研究対象を選ぶのでない限り)フランス語を学ぶのは時間の浪費/研究からの体のよい逃避にすぎません。よって、当時、石原都知事が、首都大学東京のカリキュラムからフランス語がなくなってもかまわないと考えられたのは当然であり、むしろ、都民が納めた税金の有効な使い方としては(国際競争力のある人材を養成しもって国家と社会に貢献する大学の使命を鑑みるならば)フランス語などは大学で教えられるべきではないのだと思います。

税金が投入される大学ではフランス語はようなし。しかし、我が日本は自由の国ですからフランス語を教えたり学んだりしてはならないということは断じてない。ならば、洋梨ではなく「ラ・フランス」や「おふらんす」が好きな方は自分の費用で好きなだけフランス語を勉強されればいいのです。ちなみに、私はアテネフランセよりも昔の日仏学院が好きでした♪

(出典)
本パラグラフの中で出版物に占める言語の割合のデータも
上掲『英語の未来』によります。


・忙しい社会人にとっての英語学習の意味

 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/422267540ab2640746adfd7537b51876

・草稿・科挙としての留学の意義と無意味

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/3d2bc3378bcef0da078a1b30c9681d79

・イギリス英語の入門書紹介――役に立つのにお洒落で楽しい「イギリス英語」の招待状のようなもの

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2387050ede4ca0a2947e1c5783157128

・<アーカイブ>英語がお得意な貴方へ、ひとこと言っていいですか? シャットアップ!!

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0e255ce11ec939327aa48a1ea0b68269



◆英語ができるってどんなこと?
その(ⅰ)重要な英語を(ⅱ)使いこなす日本人の能力は如何。遺憾ながら「日本人は英語が苦手」とはほとんど確立した常識です。その理由としては、①英語と日本語の音韻体系が異なるから(★)。②伝統的に日本の英語教育は文法中心/暗記中心の漢文型訓詁学的の教育であり実用性に乏しいとか、③日本人は完全な(パーフェクトな)英語を話さないといけないという強迫観念が強く、間違いを恐れず積極的に話すことをしないのでいつまでたってもオーラルコミュニケーションの経験値が増えない等々とは人口に膾炙する代表的な理由。而して、中には、④英語と日本語とでは音の周波数帯が異なるから日本人は英語が苦手なのだとまで言い切る論者までおられる

・防衛省Mag☆MAMOR:特集「英語力を装備する自衛隊」--番外編「ちーぱか・すっぴんインタビュー」

 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1f6af769ca26a4d8f8a754f661e5ff09


けれども、私に言わせれば、これらの理由は満更嘘ではないが、さりとてビジネスを英語でできる程度のコミュニケーション能力を多くの日本人が身につけられない理由としては弱い。言語学や言語心理学の専門的な話は割愛させていただくとして、英語教育について一言しておきます。

★註:音韻
音韻とはある言語の音声を構成するその言語独特の「音の部品の単位」であり、他の部品との差異によってのみ自己の存在を保証されている音の構成要素のことです。ゆえに、個々の音韻は<音韻の差異の体系>の中に組込まれて初めて音の部品としての機能を発揮する。例えば、現代日本語の母音は「あ/い/う/え/お」の5個ですが、英語の「あ」類似の母音は(例えば、手許の研究社『英和中辞典』の音韻表を見てみれば)、短母音・長母音・二重母音を含め十数個あります。

★註:英語と日本語の違い-音としての言葉
あらゆる自然言語(any Natural Language)は--極論すれば「手話」でさえ--、その本体は<音声>でありその本質は(とりあえず、ソシュールの言う意味での)差異化のシステムです。

而して、日本語では、音節は原則、開音節。つまり、日本語の音節は、「V:/あ/い/う/え/お/」、あるいは、「CV:/わ/た/な/べ/ま/ゆ/」という、いずれも最後に母音(V)が来る「音節=音の単位」でなりたっています。また、その音節は――「手拍子」の如く――同一の時間の間隔(拍:mora)で発声され、よって、必然的にそのアクセントも高低型。

対して、英語はシラブル型音節(syllable)でなりたっている。つまり、音節、要は、1個の母音・母音的に振る舞う「/l/m/n/r/」の如き音節主音的の子音を核にした音の単位自体に、日本語の「V:母音」「CV:子音+母音」のみならず、「VC:母音+子音」「CVC:子音+母音+子音」の閉音節が加わります(更に、「oven:VCC」「oasis:VVCVC」「stove:CCVC」「desk:CVCC」「street:CCCVC」「strength:CCCVCCC」等々、「CV」「VC」「CVC」の中の「C」は最大3個のCでもって構成されることもある。あるある、たくさんある)。よって、必然的に、英語の1音節(one syllable)が発声される時間の間隔も異なってきますし、ならば、そのアクセントも--話者の気分や文体価を表示する「高低」はもちろんのこと存在するけれど、原則、就中、ワンワード単位では--、大凡、強弱型(強勢型-音の大きさと音の長さによる強調)になっています。

よって、ここの「ねれ」や「うぉ」も日本語の「/ね/れ/」や「/う/ぉ/」のようなモーラの連結ではなく、謂わば、シラブルとしての「/ねれ/」と「/うぉ/」であること。このことは、/l/と/r/音をイカサマ風に発声する際には(笑)、ぜひご留意ください。







日本の受験英語は、ある意味では外国人が短期間に極めてハイレベルの思想と情報の内容を英語で処理できる能力を身につける上で最も成功した事例の一つとされています。このことは(日本人の英語の駄目さに呪いの言葉を日々呟いている英語のネーティブスピーカーの英会話講師とは逆に、)日本の英語教育の研究に携わる欧米の専門家の常識と言えることなのです。

なのに、いまだに、日本では受験英語をネガティブに捉える<常識>がまかり通っており、このこと自体実に不思議なこと、鴨。 結論から言えば、私は、「日本人は英語が苦手」「日本人として「おぎゃー」と生まれた時点で、英語に関しては<北斗の拳>である」という命題自体に異議申し立てをしたいと思っています。

私は、「日本人は英語が苦手」という命題自体に異議申し立てをしたい。けれども、百歩譲って、「日本人が英語が苦手」であると受取られるビジネスシーンが少なくないことを根拠に、「日本人は英語が苦手である」ことを認めるとしましょう。その場合、私に言わせれば「日本人が英語が苦手」な理由ははっきりしていると思います。それは、

日本では英語を話さなくとも収入が得られるから、
日本では英語ができなくとも喰っていけるから、と。

日本では英語ができなくとも彼氏や彼女が見つからないということはなく、
日本では英語が話せなくとも日常生活に困らないから、と。


口の悪い、このイシューに関しては同志であるある東京大学のある教授は「日本では英語のできる奴に大した人物はそう多くなかったから」も加えるべきだと言っていますが、それは置いておくとして、音韻の差異や周波数の差異などは枝葉末梢の事柄に過ぎないのです。

公用語を「暴力的」に英語に統一したシンガポールの現状を見れば明らかなように、あるいは、日本語ができれば就職に有利だと騒がれたバブル前後の僅か10年間にどれだけ多くの日本語ができるオーストラリア人や支那人が増殖したかを想起するまでもなく、生活がかかるのならそれら枝葉末梢のことなど全く問題にならないと私は確信しています。実際、アメリカの大学学部や大学院に留学した、帰国子女でもない普通のドメスティックな日本人の平均的な成績(GPA)を見た場合、英語が日本人よりもできるらしい韓国や支那からの留学生はいうに及ばず、欧州諸国からの留学生に比べても全く遜色ないことからもそれは断言できるとも


而して、重要なことは、「何をもって英語ができる」かということは、当該の人物が属する/属したいと考える業種と職種、就任したい/携わりたいと野心を燃やす地位やプロジェクトの種差によって変わるということです。

例えば、1945年からの3-4年間、福岡県大牟田市や山形県鶴岡市の「進駐軍の通訳」に求められた英語力と、現在の、その同じ街に赴任してきたALTのアメリカ人教師の日々の相談に乗り、彼や彼女のホームシックを癒すこともタスクに加えられた市教委主事を務める英語の先生に求められる英語力は異なる。端的に言えば、「日本の債権市場を主な舞台にしている投資家に求められる英会話力」と「アメリカや英国の債権市場からの資金調達に駆け回る方に必須な英会話力」は全然異なるということです。英語力の上下だけではなく種類も異なるもちろん、
規範体系としての「英語」そのもは時空間を変動しつつも単一であるにせよ。蓋し、この当然のことが日本の英語教育ではしばしば看過されてきたのではないか。と、そう私は考えています。




◆ディバイド論の氾濫とその限界
英語ディバイド論とは「英語ができなくとも喰っていけた」古き良き時代から「英語ができなければ喰っていけない」時代に変わりつつあるという主張。と、一応はそう言えると思います。そして、少なくとも、ある企業やある業界やある職掌においてはそのような変化が生起していることは間違いない、鴨。ならば、英語ができる/きないという事柄の意味は簡単である。自分の組織と業界と職掌において生活の糧を稼ぐための成果を達成するために必要にして充分なだけの英語力が各人の分水嶺となる、と。

目を瞑って聞けばアメリカ人と聞き間違えるようなビューティフルな発音の待ち主であるかどうかは、彼/彼女がナレーターとして生計を立てようとするのなら英語ができる/英語ができないを分かつディバイドの要素になるでしょう。しかし、大部分のビジネスパーソンにとってはそんなことはどうでもよい能力なのです。同様に、90分のスピーチができるスキルはプレゼンテーションをする立場の方にとっては必須の能力でしょうが(実は、そのスピーチの英文原稿の、その草稿を2時間程度で作成する能力の方が遙かにインタナショナルビジネスでは重要なのですけれどもね。閑話休題。)、専ら、プレゼンテーションに参加することが仕事の方にとっては10分のスピーチでもできればほとんどの用は足りるでしょう。

何を言いたいのか。それは、ディバイドの時代とは各人が各人の分水嶺に到達することを要求される時代なの、鴨ということです。而して、英語に引きつけて敷衍すれば、英語がコミュニケーションツールやコミュニケーションヴィークルとして世界標準化する時代が英語ディバイドの時代の一面だとするならば、その裏面は各人各様の必要にして充分な英語運用能力を獲得することが要求される多様化の時代でもあるの、鴨とも。

畢竟、そこでは、「全社員/全校生徒」の「英語力一般の向上」なる牧歌的な目標をエンプロイヤーもエンプロイィーも、タックスペイヤーもガバナーやメイヤーも追求する余裕も筋合いもない、そんな時代が英語ディバイドの時代であろう。と、そう私は考えます。

ディバイド論の氾濫ということの歴史的な意味を、而して、私は世界の均質化と世界の特殊化の両方が同時に進行している状況と思慮しています。今までは、相手の身元も思想も能力も良く解っていたもの同士がコミュニケーションをすれば事足りたのに比し、21世紀のビジネスシーンでは全くの他人、文字通りの異邦人と一層のスピード感をもって競争し協力して各々がクリエーティブな成果を達成しなければならない。

どこの馬の骨とも解らぬ者達と協働し競争しながら生き馬の目を抜くように仕事をしなければならないのが、21世紀のメガコンピィティションの時代である。そこでは、どこの馬の骨とも解らない者同士がコミュニケーションを遂行するための共通のツールとシステムが(PCの喩えで言えば、共通のOSが)希求されるのは当然のことでしょう。そして、それらが、英語でありPCスキルであり英米法であり米国弁護士資格でありMBA(経営学修士号)ということ、鴨。要は、それはある程度の能力の証明である。ならば、逆に、それらの資格や学位を持った彼や彼女が「ある程度の能力」がない場合には、人事的に不利に扱われても文句は言わないでね、というタイプの<証明>であろう。と、そう私は思います。


けれども、そのような状況に人間が長期間耐えられるとは私は思いません。どこの馬の骨とも解らない者達との協働と競争は短期間の期間限定であるか、一日の生活時間の極限られた一部であるか、または、漸次、その関係が<友>か<敵>かという人間的な関係に推移するのでなければ生身の人間には、どこの馬の骨とも解らない者達との協働と競争の関係を持続することは堪えられないだろうと私は考えるのです

ならば、ディバイドの時代のOS群はあくまでもスキルであり手段としての役割しか持ちえないであろうし、世界の均質化は表面的に同質性の度合いを高めながら、他方では、個性の自覚を進行させる契機となるのではなかろうか。そして、社会学的に眺められた場合、個性の核心は民族性であり民族の歴史であり民族の一員としてのプライド。すなわち、ある民族の一員としての自己同一性、アイデンティティーであることを私は疑わないのです。よって、ディバイドの時代、就中、英語ディバイドの時代とはナショナリズムと保守主義の時代でもあるとも。

最後の部分の説明は少し手薄だと思います。けれども、私の考えの大筋は述べることはできたのではないかとも考えています。いずれにせよ、「国際化が惹起する均質化と特殊化の同時進行の問題」に関しては他日再論するつもりでいます。乞うご期待。

 

P/S 

所謂「多様性」なるものの価値や素晴らしさというもの。それを保守派も必ずしも否定はしないでしょう。わが国も、古来、数多の「帰化人」の方々を<新しい仲間>として受け入れてきたし、日本の文化伝統なるものの多くは彼等とのコラボレーションの果実であることを否定するような向きは「保守」などではなく、単なる、「無知」なのだと思いますから。

・風景が<伝統>に分節される構図(及びこの続編)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/87aa6b70f00b7bded5b801f2facda5e3

しかし、「多様性」なるものを具現する道のりやスタイルは、リベラル派がしばしばそう口にするように、別に、すべての国が「その市民社会を<地球市民的>なる無国籍の色合いに染める」ものばかりではないのではなかろうか。個々の国家が、各々、独自の文化と伝統を競いあうことによって、世界の総体としては百花繚乱・千紫万紅の<コラージュ>状況を現出する道のりもありはしないか。而して、保守主義に親和性のある「多様性」は間違いなく後者のスタイルであろうと思います。

畢竟、いずれにせよ、リベラル派が主張するような「多様性」だけが<多様性>ではないことは明らかでしょう。





天照大神






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