英語と書評 de 海馬之玄関

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草稿・科挙としての留学の意義と無意味(上)

2014年08月03日 06時24分48秒 | 留学の話題


国際化の時代だからこそ<英語>にあまり期待しないで欲しい。就中、小中高の英語教育に「実社会で使える英語力」なるものの涵養を期待するのは筋違いだよ。私はそう確信しています。グローバル化の時代に必要な「英語力」として少なくない論者がイメージしておられるらしいものは、私に言わせれば良くも悪くも「英語力」という言葉の守備範囲を遥かに超えて拡がるsomethingだろうから、と。


・日本人に英語力は必要か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11157728509.html

・小学校からの英語は必要か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11152971970.html

・国際化の時代だからこそ英語教育への過大な期待はやめませよう
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11158801577.html



他方、語学力の獲得は--かなりの「例外=バグ」を認めるにせよ、21世紀の現在でも、そして、実は日本だけではなく、日本より凄まじい<階級社会>である欧州や韓国でも、更には、日本よりも遥かに凄まじい<学歴社会>であるアメリカや韓国でも、教養を感じさせる域に達する外国語運用スキルの習得は--、個人の所謂「社会階層移動」における謂わば「非関税障壁・見えない障壁:a non-tariff barrier/the invisible walls」とも称すべきスキル開発の問題。

ならば、そんな「社会階層移動のゲームにおけるキーアイテム」を公教育を通じてほとんどの子供達が身につけることができるなどという非現実的というかほとんど非論理的な想定は「100円持って行ったマック(←関西では「マクド」)でフランス料理のフルコースを期待する」ような世間と世界を知らない非常識でしかないでしょう。

私は、一応、その道で25年余の経験を持つ、米英の大学・大学院留学研修の専門家--「実社会で使える英語力」なるものの最適獲得メソッドと世間ではいまだに思われているらしい<アメリカ留学研修>の専門家--と自称しても嗤われるかもしれないけれど、おそらくまだ許される論者。而して、本稿はアメリカ留学なるものの意味と意義を些かゼロベースの地平から反芻したデッサンです。

よって、本稿に「アメリカ留学のノウハウ」あるいは「TOEFLなりTOEICの得点向上のTips」を期待して来られた方がもしおられれば速やかに退去されることをお勧めします。本稿はそれらとはほとんど無縁であり、そんなノウハウやTipsを本稿に期待するなどは「魚屋に行ってフルーツの箱詰め」を期待するようなもの。それはお互いにとって時間の無駄ですから。







文部科学省が「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」(2013年)を公にしたのがその象徴でしょうか。この国ではまたまた間欠泉の如く現在「実社会で使える英語力」なるものの獲得を公教育に求める動きが出ているようです。しかし、今回の間欠泉の特徴は、改革に実効性を与える仕組みとして、「大学入試における英語科目」の改革が--TOEFL・TOEIC・英検のスコア提出によって独自の英語科目の廃止や縮小--が真面目に提案されていること。

▼間欠泉2013-2014の特徴
・大学入試の英語科目の改革
・TOEFLスコア等での代替



・「英語は英語で教えるべきだ」と戯言を記した学習指導要領
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11158831507.html

・鳥飼玖美子「TOEFL・TOEICと日本人の英語力 資格主義から実力主義へ」
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11153749510.html


他方、しかし、「実社会で使える英語力」獲得のまずは、そして、おそらくは最有力の手段であろう英語圏への留学、就中、アメリカの大学学部や大学院への正規留学はこの10年間で半減しています。実際、IIE(国際教育協会)によれば、1997年には4万7千人あったアメリカ留学も2011年には2万人を切っている--留学生数の国別順位でも、1980年代後半から、少なくとも、1994年~1997年までは長らく1位を保っていたのが、2010年には7位、2014年現在では<神8>落ちもほぼ確実な状勢--とのこと。

而して、日本からのアメリカ留学生の激減と「実社会で使える英語力」なるものを求める声との間のギャップをどう考えればよいのか。これが本稿の縦糸的な問題関心なの、鴨。



・英会話学校の破綻と米国留学の減少は日本の成熟か衰退か
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11156752264.html







(Ⅰ)留学は科挙である
アメリカ正規留学を経て大願成就、学位を取得した留学経験者を母集団とした場合、アメリカ正規留学は英語力の向上に効果があったと言えるのかどうか。これに対する私の回答は「Yes/No」です。つまり、「それでよく学位が取れたね」という<引きこもり型>のよほど特殊な例外を除けば、ほとんどのケースでは、学位を獲得できた程のアメリカ正規留学は英語運用能力の向上に役立つ。

しかし、4年なりの学部留学、ならびに、1年なり2年なり5年なりの大学院留学を通して身につく程度の英語運用能力、すなわち、英語運用スキルは(a)日本国内でも--より安全に言えば、都合3カ月ほどのアメリカ研修を組み合わせるならば、国内でも--、(b)より廉価な、(c)より短期間の、よって、(d)ローリスクの研修を通しても十分に可能であり、ならば、英語運用スキルの向上や獲得、まして、「実社会で使える英語力」なる定義不可能なもののスキル習得に目的を限定した場合、アメリカ正規留学は、寧ろ、コストパフォーマンスに乏しい手段でしかない。と、そう私は考えます。

実際、20年近く前のことですけれども、ある商社の人事部長から「企業派遣でMBAとかに若手の社員を留学させてもいいのだけれど、率直なところ、その間実務で頑張った同期に比べるとみんな英語が下手になって帰ってくるのが悩ましい」と直接聞いたことがあります。

而して、リスニングとスピーキングの分野で英語研修ツールやメソッドが革命的に進歩したわけではないけれど、爆発的に普及浸透した現在ではなおさら--『英語リスニングのお医者さん』(The Japan Times・2002年)、『知っている英語なのになぜ聞き取れない?』(ナツメ社・2003年)等々の廉価な書籍、もしくは、「東進ビジネススクール」(2001年)、「iKnow!」(2005年)等々数多の便利なe-learningメソッドが英語教育のマーケットに登場した2001年以降の現在では--蓋し、この商社の人事部長の洞察はいよいよ正解と言える、鴨。

畢竟、20世紀末の慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス(1990年)なり立命館アジア太平洋大学(2000年)というある種の際物を嚆矢にして、主要な国内のほとんどの大学・大学院が「英語を通してなにがしかの専門知識やスキルが身につくかもしれないという環境」を提供している21世紀の現在、そして、国際大学の素晴らしい実績を目の当たりにすれば、繰り返しになりますけれども、英語運用スキルの向上や獲得に目的を限定した場合、アメリカ正規留学は、寧ろ、コストパフォーマンスに乏しい手段でしかない。と、そう私は考えます。

要は、これら国内の代替財の存在を睨むとき、
英語運用スキルの獲得に限れば、


б(≧◇≦)ノ ・・・留学なんかせん方がましやで!


とまでは言わないけれども


б(≧◇≦)ノ ・・・留学せなどうにもならんもんでもないわな!


ということ。



急がば廻れ。重要なことなので些か遠回りをさせていただきます。
そもそも、アメリカ正規留学の獲得目標はどんな事柄なのか、と。

アメリカ正規留学に志望者やスポンサーは何を--今はできないどのようなことをその志望者が学位取得後にはかなりの確率で達成できるようになることを、そして、その裏面としては、結局、そのような<喜ばしい変化>をもたらすであろう、よりベーシックな資質やスキルの獲得を--期待してもよいのか、と。

蓋し、それは、(0)英語を通してなにがしかの専門知識やスキルが身につくかもしれないという、個々の留学専攻分野毎に異なりうるメリットとデメリット--日本国内の大学や大学院に進学することに比べた場合のアメリカ正規留学の<損得>の比較衡量--を捨象するとすれば、アメリカ正規留学一般については次のようなものでしょう。はい、これも実に平凡な認識。ただ、一つ注意すべきは、これら(ⅰ)~(ⅳ)間には強い相互補完的な構造連関が想定されるということ。


(ⅰ)英語運用スキル
(ⅱ)異文化体験
(ⅲ)人脈、あるいは、<人脈>が重要だという認識
(ⅳ)自己規定性の変更

而して、(ⅰ)「英語運用スキル」に関しては上で述べたとおり代替財との比較衡量、就中、国内大学・大学院への進学に比べた場合のアメリカ正規留学のコストパフォーマンスは、”it depends on the person”の類のマターであり、本稿全体の結論を些か前倒しして換言しておけば、その比較衡量の帰趨は”it depends on what and to what degree the person expects out of Study Abroad”の類の--今できないどんなのことがどれだけ上手に英語でできるようにはなりたいかという--期待から逆算されるしかない事柄である。と、そう私は考えます。

(ⅱ)異文化体験--異文化と不愉快ながら折り合う経験、あるいは、不愉快だからと拒絶する体験--すなわち、森鴎外的経験と夏目漱石的な体験の両極を含むこの項目は、煎じ詰めれば「世界には自分たちと異なる世界観と価値観に憑依された人々が存在する」ことの確信を得ることでしょう。

異文化間の相互理解は--どこから先は相互理解不可能という感覚の得とくもそこに含めれば--可能ではあるけれど、異文化コミュニケーションのためにはそれなりのスキル、および、努力と忍耐と諦観が不可欠である。と、そう私は考えます。

而して、私自身は、思い出したくもないくらい多くの千余のアメリカ人やカナダ人のインストラクター・コンサルタントを採用し、時には解雇して、同僚として働く経験の中でこれらの確信を漸次形成することができました。けれども、アメリカ正規留学というツールは森鴎外的にせよ夏目漱石的にせよこの視座をかなりの蓋然性で得るためのかなり有利な手段ではあろうと思います。










<続く>




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